第49話 胎動
立太子の儀まで、あと数日。冬至が、すぐそこまで来ていた。
王宮の窓の外では、その冬はじめての雪が、音もなく舞っている。わたしは十四歳になり、ノエルは明日の冬至で、十八歳になる。明日の夜は、ノエルの誕生日。そして、立太子の儀の日でもあった。
◇◇◇
そんな大きな日を翌日にひかえても、わたしの昼間は、いつもどおりだった。中等科の、二年生。
お昼休み、中庭のベンチで、エミリアとベアトリス、アマリアと、お弁当を広げる。
「ねえリリィ。明日でしょう。ノエル様の、立太子の儀」
エミリアが、栗色の髪を揺らして、身を乗り出してきた。
「冬至のお誕生日と、ご一緒。婚約者のリリィも、おとなりに立つのよね」
「うん……」
わたしが頬を染めると、エミリアが、きゃあ、と声をあげた。ベアトリスが、すました顔で、その肩を、つんとつつく。
「エミリア。声が大きいわよ」
「だって。……それに、じつはね」
今度は、エミリアの頬が、ぽっと染まった。
「わたしも、決まったの。婚約」
「え」
わたしと、ベアトリス、アマリアの声が、そろった。
「お相手は、モルゲンシュテルン家の、マクシミリアン様。ノエル様の、ご学友で、側近なんですって」
エミリアが、指をもじもじと組み合わせる。いつも明るいこの子が、こんなに照れているのは、はじめて見た。
「エミリア、おめでとう!」
わたしは、思わず、その手を握った。
「じゃあ、これからも、ずっと近くにいられるね。ノエルとわたし、マクシミリアン様とエミリアで」
「うん。……うれしい」
ベアトリスが、めずらしく、やわらかい顔で頷いた。アマリアはというと、そのあいだに、ちゃっかり、わたしのお弁当のパンを、ひとつつまんでいる。
「アマリア!」
四人で、笑った。明日がどんなに大きな日でも、この中庭では、わたしは、ただのリリィでいられた。
◇◇◇
授業を終えて王宮に戻ると、わたしは、皇后陛下のお部屋を訪ねた。
ベッドに身を起こした皇后陛下のお腹は、もうずいぶんと、丸くふくらんでいる。その中には、ふたごの命。ノエルにとっては、十年ぶりの、弟か妹だった。
お父さんとお母さんが毎日根気よくお身体を診てきたおかげで、双子はお腹の中で、すくすくと育っていた。けれどこのご懐妊は、まだ誰にも明かせない。隣国に「魔石の工作は成功した、皇后はふたたび弱っている」と思いこませる、その作戦の最中だったから。
「リリィ嬢」
皇后陛下が、わたしを手招きなさった。少しお痩せになった頬に、それでも、やわらかな血色がさしている。
「こちらへ、いらして」
ベッドの脇の白い椅子に腰をおろすと、皇后陛下は、わたしの手を取って、ご自分のお腹の上に、そっと導かれた。冷えていたわたしの指先に、お腹の温かさが、じんわりと移ってくる。
そのときだった。手のひらの下で、お腹が、ぴくりと動いた。
「あ……」
思わず、声が漏れる。
「聞こえた?」
皇后陛下が、いたずらっぽく微笑まれた。
「二人ぶんの、ちっちゃな足音よ」
こん、こん、と二回。まるで、扉を叩くみたいに。
二つの命が、お腹の中で、もうこんなにも、しっかりと生きている。気づけば、涙がひと粒、こぼれていた。あわてて指でぬぐったのに、あとからあとから、あふれてくる。
◇◇◇
「ノエル」
皇后陛下が、扉のほうへ声をかけられた。
「はい、母上」
入ってきたノエルが、長身をまっすぐに伸ばして、ベッドの脇まで歩み寄ってきた。明日には王太子になる、堂々とした立ち姿だった。
呪いから解き放たれてからというもの、ノエルは毎朝、夜が明けるとともに、剣の稽古を欠かさない。半年のあいだに、背はぐんと伸びて、わたしの背丈など、とっくに追い越している。見上げないと、目が合わないほどだ。肩幅も日ごとに広がり、腕には、しなやかな筋がついてきた。けさも稽古場から戻ったばかりなのか、黒髪の生え際が、まだ、うっすらと汗で湿っている。森の離宮で青白く横たわっていた、あの小さな男の子と、同じ人とは思えないほどだった。
「お前の弟と妹に、ご挨拶を」
ノエルは、ひざを折って、皇后陛下のお腹を、じっと見つめた。そして、おそるおそる、長い指をその上に置いた。ふだんは剣も握る指が、今は子どもみたいに、こわばっている。
お腹の中から、こん、と一度。お返事のような、胎動。
ノエルが、息をのんだ。
「……お前たち、ほんとうに、生まれてくるんだな」
低い声が、わずかにかすれていた。長いあいだ、たった一人の子どもだったノエル。その指先がお腹の上で、小さく震えているのを、わたしは見ていた。
◇◇◇
その日の午後、陛下のご執務室に、一族が集まった。
陛下と皇后陛下、ノエル、お父さん、お母さん、お兄ちゃん。フェルディナンド様に、ハインリッヒ先生。そして、わたし。みなで、楕円のテーブルを囲む。
陛下が、ひとりひとりの顔を、ゆっくりと見渡された。
「ノエル、リリィ嬢。そなたたちのおかげで、わが王家は生き延びた」
その低いお声が、めずらしく、震えていた。
「これより、わが王家の長年の苦しみの、まことの意味を明かそう」
陛下の蒼い瞳が、暗く揺れる。
「隣国ノースランドは、わが王家の血脈を、自然に絶やし、この国を内側から乗っ取るつもりであった。ノエル一人に呪病を負わせ、皇后の身体を蝕み、世継ぎもないまま、王家を絶えさせる。気の遠くなるような、長い計画だ」
わたしは、息をのんだ。ノエルの呪いも、皇后陛下のご病気も、ぜんぶ、その一本の糸につながっていたのだ。
「だが、リリィ嬢がノエルの呪いを解き、皇后を救うてくれた。こうして双子が、皇后の腹に宿った。ノースランドの計画は、もろくも砕け散ったのだ」
お父さんとお母さんが、そっと目を伏せる。胸の奥が、ぎゅっと絞られた。
「されど」
陛下が、いちど言葉を切られた。
「敵は、わが王家の繁栄を、黙って見過ごしはせぬ。立太子の儀のあと、ノースランドは必ず、次の手を打ってくる。わが国はまもなく、戦の予感の中に入るであろう」
戦。その一文字に、わたしの指先が、つめたくこわばった。雪のしずかな夕暮れの空気に、長い影が、すっと混じった気がした。
◇◇◇
その夜、わたしは王宮の薔薇園にいた。
冬の薔薇は、雪の下でつぼみを固く閉じ、春を待っている。白い毛皮の襟巻きに、あごをうずめていると、背中のほうから、声がした。
「リリィ」
ふり返ると、藍色のマントを羽織ったノエルが立っていた。黒髪に、雪がふた粒、こぼれ落ちる。
「うん、ノエル」
ノエルは、わたしの隣まで来て、しばらく黙って雪を見ていた。それから、ぼそりと言う。
「明日、俺は王太子になる。お前を、俺の婚約者として、国じゅうに知らせる」
「うん」
「……怖いか」
その声が、ほんの少し、ゆれていた。
「ううん」
わたしは、ノエルを見上げた。
「ノエルが隣にいてくれるもの。怖くなんかない」
ノエルは、ふっと目を伏せた。なにか言いかけて、けれど言葉が見つからなかったみたいに、ただ、長い腕でわたしを包んだ。はじめての、抱擁だった。マントごしでも、その胸が、雪の夜なのに、熱いくらいで。頬が、かっと火照る。
「……弟と妹、ありがとう」
ノエルの声が、耳のすぐ上で、ふるえた。
「お前が母上を救ってくれたから、あの子たちが、来てくれた」
涙が、また、こぼれた。
「ううん、ノエル。わたしのおかげなんかじゃないよ」
わたしは、ノエルの胸に額をあてたまま、首を横にふる。
「お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、みんなで皇后陛下を支えてきたの。それに、なにより、皇后陛下ご自身の、生きるお力で」
ノエルの腕が、わたしをもう一度、強く抱きしめた。
「……なんだ、それ」
ぶっきらぼうな声の奥が、わずかに笑っている。
雪は、しんしんと降りつづける。明日は冬至。ノエル十八歳の誕生日で、立太子の儀の日。長かったノエルの旅路の、ひとつの結び目の日。そして、皇后陛下のご懐妊が、ようやく国に知らされる日でもあった。
「リリィ」
頭の上で、ノエルの低い声がした。
「明日は、隣にいてくれ」
「うん、ノエル。ぜったいに、離れない」
降りしきる雪の中で、わたしたちはただ、お互いのぬくもりにつつまれていた。




