第48話 内密
私とノエルの婚約式から、九ヶ月。
王宮の春先の朝。
私の私室の窓の向こうで、白いライラックの花が、ふくらんでいた。
私の十四歳の誕生日が、あと三ヶ月。
◇◇◇
皇后陛下は、お母さんとお父さんの細やかな看病のおかげで、もうずいぶん、お元気になられていた。
王宮の薔薇園を、ご自分の足で、ゆっくりとお歩きになる。
ノエルも、本来の十六歳の青年のお姿に近づき、声も低く、太くなりはじめている。
杖がなくとも、長い廊下を、まっすぐにお歩きになる。
私の毎日は、朝の六時から、夜の十一時まで、隙間がない。
王立アカデミー、王妃教育、皇后陛下のご看病、神聖力のお祈り、ノエルの薬。
けれど、応接間でのちいさな会話、薔薇園のお散歩、友達三人とのお昼ご飯。
その小さな幸せが、私を支えてくれていた。
◇◇◇
その日の夕方。
王立アカデミーから王宮へ戻る、長い回廊。
夕日が、白い大理石の柱を、橙色に染めていた。
私の足音が、こつ、こつ、と響く。
と。
回廊の陰に、ふいに、ちっちゃな影。
メイドの白いお召し物の、見慣れた背中。
「メイ?」
私は呼びかけた。
ぴくり、と、その背中が震えた。
ふり返ったのは、皇后陛下お付きメイドの、私の幼馴染、メイ。
ホーニング村の牧場のお嬢さん。
ふだんは、ぴょこぴょこと跳ねるように歩く、明るいメイ。
けれど、いまのメイは、ちがった。
頬がやつれて、目がぼうっと、どこかをさまよっている。
「リリィ! ーー、あ、なんでもないの」
メイの声が、ふだんよりずっと、空っぽに聞こえた。
メイ。
ふだんのメイじゃない。
◇◇◇
「ねえ、メイ、何があったか、教えて」
私はメイの両手を、そっと握った。
「私はメイの友達だよ」
メイの目が、ぼんやりと、私を見つめた。
その瞳の奥に、ふしぎな影が、ゆらり、と揺れている。
「内緒にして、欲しいんだけど」
メイの声が、ささやくように、ちっちゃくなった。
「幸運のアイテムを、皇后陛下のお部屋に、置きたいの」
「幸運の?」
私の胸の奥が、すうっと、冷たくなった。
「けれど、どこに置いたらいいか、分からなくて」
はっ、とした。
これは、あの時の、魔道具と、同じ。
メイは、誰かに、ふしぎなお力をかけられている。
◇◇◇
私はメイの両手を、ぎゅっと、握りしめた。
神様。
メイを、お救いください。
メイ、正気に戻って。
いつものメイみたいに、笑って。
そして、メイを、両腕で、ぎゅっと抱きしめた。
私の中の聖女のお力が、すうっと、メイの中に流れていく。
メイの身体が、ぴくり、と震えた。
そして、メイの目から、ふしぎな影が、ふわっと、抜けていく。
「リリィ?」
メイの声が、ふだんのメイの声に、戻った。
「私、いま、何、ーー」
メイの瞳が、ふだんのメイの色に、戻った。
ぱちぱち、とまばたきをしながら、メイは、私の顔をじっと見つめている。
「リリィ、ここ、どこ?」
「メイ、大丈夫。私のそばだよ」
私は、メイの背中を、ぽんぽん、と叩いた。
◇◇◇
メイは、思い出したように、ぽつり、ぽつり、と話しはじめた。
「いつも王宮に出入りしている、商人さん」
「明るくて、優しくて、すごい、イケメンで」
「何度かお話したことがあって、その方が、ーー」
「『幸運のアイテムを、皇后陛下の枕元に置くと、皇后陛下がお元気になるはずだよ』って、教えてくれたの」
「誰にも言っちゃダメ、って」
「明日、また、その方に、ちゃんと置いたかどうか、教えることに、なってる」
メイのドレスのポケットから、ふしぎな模様の刻まれた、藍色のちっちゃな石。
息が、止まった。
皇后陛下のお部屋から見つかった、あの、魔道具と、同じもの。
私の指先が、ぴくり、と震えた。
ノースランドの呪い。
また、王宮の中に、入り込んできた。
◇◇◇
「メイ」
私はメイの肩に、両手を添えた。
「この石は、私が、預かっておく」
「明日、商人さんには、『ちゃんと置いた』と、伝えて」
「お願い」
メイは、ぱちぱちと、まばたきをした。
そして、こくり、と頷いた。
「はい、リリィ」
メイは、悪くない。
騙された、だけ。
私はメイの背中を、もう一度、ぽんぽん、と叩いた。
そして、メイから受け取った藍色の石を、白いハンカチで、そっと包んだ。
◇◇◇
その夜。
私はお父さんとお母さんに、ぜんぶ、話した。
お父さんの瞳が、見開かれた。
「もう一度の、工作」
お母さんの瞳が、揺れていた。
「信頼のおける、けれどお力の入りやすい娘を、操ろうとした」
お父さんとお母さんは、すぐに、陛下とノエルのもとへ、急いだ。
アーデルハイト王国の王宮の中に、まだ、ノースランドの手が、伸びている。
◇◇◇
陛下のご執務室。
陛下、ノエル、お父さん、お母さん、フェルディナンド様、ハインリッヒ先生、それから、私。
七人が、楕円のテーブルを囲んだ。
陛下の蒼い目が、見開かれた。
「ノースランドは、まだ、諦めて、おらぬ」
陛下の声が、ずしりと響いた。
フェルディナンド様が、銀の鍵の徽章を、ちらりと光らせた。
「商人を消したのは、その魔術師でございましょう」
「自分の痕跡を、消し去る、徹底ぶり」
ノエルの蒼い瞳が、私を、まっすぐに見つめた。
「リリィ」
「うん、ノエル」
「お前、メイに、何かされなかったか」
ノエルの声が、ふだんよりずっと、低く、太かった。
「ううん、ノエル。私は大丈夫」
ノエルが、息を吐いた。
「ーー、なんだ、それ」
ふだんの、愛想のない言葉。
けれど、ノエルの手が、私の肩を、ぐっと握った。
その手が、ふだんよりずっと、温かかった。
◇◇◇
翌日。
フェルディナンド様のご指揮で、王宮の衛兵が、ひっそりと、準備をしていた。
メイが商人と会う場所は、王宮の裏の、ちっちゃな小道。
私、お兄ちゃん、それから黒装束の衛兵が、五人。
商人を、尾行する。
商人は街を抜け、王都の城門を出て、森の中へと進んでいった。
樹々の奥の、奥。
太い樫の樹の根元に、別の人物が、立っていた。
異国の魔術師。
フードを目深に被った、痩せた老人。
長い灰色のお召し物に、深い藍色のマント。
腰に、ちっちゃな銀のベル。
私たちは、樹の影に、身を潜めた。
◇◇◇
商人と魔術師が、樹の根元で、やり取りをしていた。
商人「はい、メイドの娘が、ちゃんと、置いたと、申しております」
魔術師の声が、しゃがれていた。
「よくぞ、ご苦労、であった」
魔術師の細い手が、すっと、商人の額に、伸びた。
そして、額の真ん中に、そっと、触れた。
商人が、よろり、と、揺れた。
そして、すうっと、樹の根元に、崩れ落ちた。
息を、引き取っている。
自分の手駒を、跡形もなく、消した。
私の口元から、ちっちゃな悲鳴が、漏れそうになった。
お兄ちゃんが、私の口元を、両手で、押さえた。
「リリィ、しっ」
お兄ちゃんの声が、私の耳元で、ささやいた。
◇◇◇
「捕えよ!」
衛兵たちが、樹々の影から、飛び出した。
けれど。
魔術師の身体が、霧のように、消えた。
目を、疑った。
霧のような、ふしぎなお力。
衛兵たちが、森の樹々のあいだを、駆け回った。
けれど、魔術師の姿は、もう、どこにもなかった。
ぐったりと、樹の根元に倒れた、商人の亡骸だけが、そこに残っていた。
◇◇◇
王宮に戻ったあと。
陛下のご執務室で、ふたたびの会議。
陛下の蒼い瞳が、暗く、揺れていた。
「相手は、思っていたよりも、ずっと、手強い」
陛下の声が、低かった。
フェルディナンド様が、頷いた。
「自分の手駒を、跡形もなく消す」
「次の手は、もっと、慎重に、打ってまいりましょう」
ノエルが、ぐっと、テーブルに身を乗り出した。
「父上、私は、ご提案いたします」
ノエルの蒼い瞳が、まっすぐに、陛下を見つめていた。
「隣国には、成功したと、思わせておきましょう」
陛下の目が、ノエルを見据えた。
「もし、失敗を知らせれば、隣国は、次の手を、すぐに打ってまいります」
「けれど、成功した、と、思わせれば、隣国は、しばらく、油断、いたします」
「その間に、こちらは、ノースランドの本当の動きを、ひそかに、探り、アーデルハイト王国を守ることができます」
ノエルの声が、低く、太かった。
陛下が、頷いた。
「ノエル、それは、まことに、賢い、考え、であろう」
お父さんが、頷いた。
「皇后陛下のお具合いも、表向きは、悪化、と、見せかけることに、いたしましょう」
私は、思わず、息を呑んだ。
「けれど、ご快復のお喜びを、無理に、お隠しに、なられるのは」
私の声が、震えた。
ノエルが、私のほうに、目を向けた。
「しばらくだ、リリィ」
「しばらくだけ、隠す」
陛下が、頷いた。
隣国には、成功したと、思わせておく。
そして、こちらは、ひそかに、次の手を、打つ。
私の胸の奥が、きゅっと、絞られた。
◇◇◇
その夜。
私の私室。
「リリィ」
扉の向こうから、ちっちゃな声。
メイの声。
「メイ、入って」
メイが、扉をそっと開けて、入ってきた。
メイの瞳に、ふだんのメイの、温かい色が、戻っていた。
「リリィ、ごめんなさい」
メイが、ぼろぼろと、涙をこぼした。
「私、商人さんの言葉に、ぜんぶ、騙されて、ーー」
私は、メイを、両腕で、抱きしめた。
「ううん、メイ。メイのせいじゃないよ」
「お力を、かけられていたから、メイは、悪くない」
「商人さんは、もう、いない」
メイの目が、はっと、見開かれた。
「メイ、これからも、私の友達でいてね」
「はい、リリィ」
メイの頬を、涙が、ぼろりと、流れた。
◇◇◇
翌朝。
お父さんが、私の私室に、訪ねてこられた。
「リリィ」
お父さんの声が、低く、響いた。
「うん、お父さん」
「アンナとメイを、これより、王都の看護・助産師の学校に通わせようと思う」
私は、息を呑んだ。
「メイがお力をかけられた、ということは、隣国は、王宮のメイドの中から、お力の入りやすい娘を、狙ってくる」
「もう一度、メイ、もしくはアンナが、同じように狙われる可能性がある」
「いまの王宮の中では、二人の安全が、保てない」
私の胸の奥が、ぎゅっと、絞られた。
お父さんの言うとおり。
「学校なら、王宮の外。毎日の出入りも、王宮ほど、スパイに目をつけられにくい」
「それに、看護師・助産師の知識を身につければ、これから皇后陛下のご出産、いずれリリィのご出産、家族のいちばん大切な瞬間に、二人の腕が、必ず役に立つ」
お父さんの瞳が、温かく、私を見つめていた。
「うん、お父さん。お願いします」
◇◇◇
その日、お父さんが、アンナとメイに、お話をした。
二人とも、はっとした顔で、お父さんを見上げた。
そして、こくり、と、頷いた。
「リリィのために」
「ノエル様のために」
「これから、しっかり、学んでくる」
二人の声が、ふだんよりずっと、しっかりと、響いていた。
◇◇◇
数日後。
アンナとメイは、王都の看護・助産師の学校へ、旅立った。
寮に住み込み、王宮との接触は、最小限に。
いずれ。
卒業した二人が、皇后陛下の双子のご出産、私の将来のご出産で。
ふたたび、王宮に、戻ってくる。
◇◇◇
王宮の外では、春先の桃の花が、ふくらみはじめていた。
皇后陛下のご快復は、しばらく、内密。
隣国には、成功したと、思わせておく。
そのあいだに、こちらは、ノースランドの本当の動きを、ひそかに、探り、アーデルハイト王国を守る。
私の十四歳の誕生日まで、あと、三ヶ月。
夏至の、聖女リリィの、新しい日々。
王宮の奥で、ひそかに、力をたくわえる。
ノエルの蒼い瞳が、私のほうを、まっすぐに見つめていた。




