第46話 学舎
あの夜から、十日が過ぎた。
その十日のあいだに、お父さんとお母さんは、いったん、ホーニング村に戻られた。
長年暮らしたあのお家から、ぜんぶの荷物を、王宮に運ぶため。
お父さんがいつもお使いになっていた、医学の本。
お母さんが大切になさっていた、薬草の道具。
お兄ちゃんが小さい頃から書きためてきた、革表紙の手帳。
それから、私の小さい頃の人形と、ホーニング村のお家の絵。
ぜんぶ、翼苑宮の、お父さんのお部屋と、お母さんのお部屋に、運ばれた。
ホーニング村のお家が、王宮の中に、丸ごと引っ越してくる。
お父さんとお母さんがお留守の十日、ノエルと皇后陛下の朝のお薬と、陛下の滋養強壮薬は、私がぜんぶ用意した。
毎朝、神様にお祈りを捧げて、神聖力を授かったうえで、煎じる三人分のお薬。
お父さんとお母さんが、私を信じて、任せてくださった。
その十日が、王宮での、私のはじめてのひとり立ちだった。
◇◇◇
そして、お父さんとお母さんが、ホーニング村から、王宮に戻られた、その翌日。
ノエルの身体は、一日、また一日と、元気になっていた。
杖をつかなくても、いつもの廊下を、歩けるようになっていた。
頬の桃色も、もう、もとの色を取り戻していた。
翼苑宮には、お父さん、お母さん、お兄ちゃんの、新しい住まい。
入り口には、陛下直々の衛兵が、守っていた。
ホーニング家の、新しい住まい。
◇◇◇
朝。
三人分の朝のお薬を煎じるのは、毎朝の、いつものお務め。神様にお祈りを捧げて、ことことと、お薬を作った。
あとは、ノエルのお昼の分を銀の水筒に、二人分のお弁当にパンを、詰めるだけ。
支度を終えた頃、王宮の料理人が用意した朝食が、ノエルのお部屋に運ばれてきた。
やわらかく焼けたパンに、温かなスープ。木の実のジャムと、みずみずしい果物。
私とノエルは、お部屋のテーブルで、向かいあって、いただいた。
「ノエル、たくさん食べてね。今日から、学校だもの」
「ーー、わかってる」
ノエルは、ぶっきらぼうに言いながら、パンを、最後のひとくちまで、残さなかった。
呪いに伏せっていた頃には、思いもよらなかったこと。
ノエルが、こうして、朝のパンを、おいしそうに召し上がっている。
その姿だけで、私の胸は、いっぱいになった。
朝食を終えると、ほどなくして、クラリッサ様が、私のお部屋にいらっしゃった。
「リリィ様。本日が、王立アカデミーにお通いになる初日でございます」
「はい、クラリッサ様」
私は、ごくりと、息をのんだ。
ーー、王立アカデミー。
ノエルとご一緒に通う、アーデルハイト王国のいちばんの学び舎。
クラリッサ様が、白いブラウスと、紺青のジャケット、紺青のスカートをお持ちになった。
胸元には、銀の校章。
そして、その隣に、ちっちゃな星形の、聖女の紋章。
「リリィ様にだけ、お付けする、聖女章でございます」
「はい」
クラリッサ様が、私の蜂蜜色の髪を、青いリボンでふんわりと結んでくださった。
ホーニング村の青いリボン。
王宮のお部屋でも、アカデミーでも、お母さんの色が、私のそばにある。
◇◇◇
応接間に出ると、ノエルもすでに制服姿でいらっしゃった。
白いブラウスと、深い藍色のジャケット、紺青のズボン。
胸元には、銀の校章と、王太子候補の藍色のお印。
ノエルの蒼い瞳が、私を見上げた。
「ーー、ふん」
ノエルはそれだけ言って、目線をそらした。
けれど、その目線の先がまた、私の制服姿をちらりと追っていた。
ぶっきらぼうな言葉の奥で、ノエルは私を見てくれている。
私の口元が、ひとりでに、ゆるんだ。
私は、銀の水筒を、ノエルに差し出した。
「ノエル。お昼のお薬、入れておいたよ」
今朝、神様にお祈りを捧げて、朝の分とお昼の分を、いっしょに煎じた。朝の分は、もう飲んでもらった。残りの半分を、この水筒に。
「学校のお昼に、忘れずに飲んでね」
ノエルが、両手で、それを受け取った。
「ーー、ああ」
ずっと昔、お父さんがノエルに贈った、銀の水筒。ノエルが、いまでもいちばん大切にしている宝物だった。
ノエルの指が、その銀を、そっと包んだ。
それから私は、白い布で包んだお弁当を、ノエルに差し出した。
「ノエル。今朝、ノエルのお弁当も、作ったの」
ノエルの蒼い瞳が、ふっと、見開かれた。
「ーー、お前が、作ったのか」
「うん。お口に合うといいな」
ノエルは、なにも言わずに、その包みを受け取った。そして、銀の水筒といっしょに、胸もとに、ぎゅっと抱えた。
「ノエル、行こう」
「ああ、行くぞ」
◇◇◇
王宮の馬車。
私とノエルが並んで座って、その向かいに、クラリッサ様。
馬車の両脇には、陛下直々の衛兵が、馬で並走してくださっていた。
王宮の白い門を出て、王都の朝の通りを、馬車がゆっくりと走った。
ノエルが、窓の外を見つめていた。
「ーー、リリィ」
「うん」
「お前、緊張してるか」
「ううん。ノエルが隣にいるから、大丈夫」
「なんだそれ」
ノエルが、目線を私のほうに向けた。
そして何も言わずに、私の手の上に、自分の指先をちょこんと乗せてくださった。
ーー、ノエル。
私の頬が、桃色に染まった。
◇◇◇
王立アカデミーの正門。
白い大理石の校舎が、しんと並んでいた。
中庭の緑の芝生に、春先の白い陽射しが、しずかに降り注いでいた。
馬車を降りた私とノエルを、フェルディナンド様が、お迎えになった。
「リリィ様、ノエル様。本日より、よろしくお願いいたします」
「フェルディナンド様、よろしくお願いします」
ノエルも、お辞儀をなさった。
中等科1年の教室と、高等科2年の教室は、別の棟。
ノエルが、私を見つめた。
「リリィ」
「うん、ノエル」
「放課後、図書館に迎えに行くからな」
「うん、図書館で待ってる」
ノエルはそれだけ言って、お兄ちゃんのような落ち着いた足取りで、高等科の棟へ向かって歩いていった。
ノエルのご快復は凄まじく、ふつうの生活ができるようになっていた。
私は、しみじみと、嬉しくなった。
◇◇◇
中等科1年の教室。
クラリッサ様は、教室の扉の前まで私をお送りくださって、廊下でお待ちくださることになった。
担任の先生ーー白いお召し物に、銀の校章をつけた、おだやかな目の先生ーーが、私を教壇までお導きくださった。
教室には、もう、たくさんの女の子と、男の子が、席についていた。
みなが、いっせいに、私のほうを見上げた。
ーー、!
頬が、かっと、真っ赤になった。
「皆さん。本日より、こちらのクラスに、新しいお仲間を、お迎えいたします」
先生のお声が、ゆったりと、響いた。
「リリィ・ホーニング男爵令嬢でございます」
「聖女として、わが国がお認めになられた、お方でいらっしゃいます」
教室がしんと、静まった。
みなの目が、私の胸元の聖女章を見つめた。
「リリィ・ホーニングと申します」
私は、深くお辞儀をした。
「皆様、よろしくお願いいたします」
◇◇◇
お席に案内された。
窓際の、おだやかな一席。
私の隣の席に、明るい栗色の髪の女の子。
その後ろに、しっかりとした黒髪の女の子。
そのまた隣に、ふんわりとした金髪の女の子。
そして、午前のご授業が終わった、最初の休み時間。
三人が、そっと、私のお席に集まってくださった。
「リリィ様」
明るい栗色の髪の女の子が、やわらかく微笑んだ。
「わたくし、エミリア・フィッシャーと申します」
「エミリア様、よろしくお願いします」
「ベアトリス・ヴェルナーでございます」
しっかりとした黒髪の女の子が、頭を下げてくださった。
「アマリア・クラインです。よろしく」
ふんわりとした金髪の女の子が、にこっと、微笑んでくださった。
三人のお目に、温かな光が灯っていた。
聖女章を恐れない。
田舎育ちの私を揶揄しない。
ふつうの女の子として、私を見てくれている。
私の目の奥が、じんと、熱くなった。
◇◇◇
お昼休み。
エミリア様、ベアトリス様、アマリア様が、私のお席に集まってくださった。
「リリィ様、よろしければ、ご一緒に、お昼を」
「うん、ありがとう」
四人で、中庭の木のベンチに座った。
私が、今朝、自分でこしらえてきた、お弁当。
お母さん直伝の、ふんわりとした白いパンと、ホーニング村の薬草入りのスープ。
「リリィ様、それ、すごく、おいしそう」
エミリア様のお目が、ぱっと、輝いた。
「これ、ホーニング村のお母さんに教わって、ゆうべ、自分で焼いたパンなの。よかったら、すこし食べてみる?」
「よろしいの?」
「うん、もちろん」
私はふんわりとしたパンを、四つに割って、三人に分けた。
エミリア様、ベアトリス様、アマリア様が、口に運んでくださった。
「おいしい」
エミリア様のお目が、ぱっと、輝いた。
「リリィ様、これ、本当に優しい味」
ベアトリス様のお声が、深かった。
「私、ホーニング村のパンははじめてです。農作物が豊かで美味しいという評判は聞いていましたけれど、ほんとうに、おいしい」
アマリア様も、こくりと頷いて、微笑んだ。
三人とも、私のお料理を、よろこんでくれている。
私の肩から、すっと、力が抜けた。
◇◇◇
中庭のいちばん奥の柱の影から、ひとつの目線が、私たちを見つめていた。
ーー、!
私は、はっと、振り向いた。
そこに、長い赤毛と、きつい目線の、ご令嬢。
中等科3年生のお召し物。
そのご令嬢のうしろに、三人ほどの、取り巻きの女の子。
「あれが、噂のリリィ嬢ね」
ご令嬢のお声がやわらかに、けれど、皮肉めいて、響いてきた。
「田舎の薬師の娘が、聖女章をつけているというのは、本当だったみたい」
エミリア様の眉が、ぴくりと動いた。
「リリィ様、あちらは、シュタイン家のオリヴィア様」
エミリア様のお声が、ちょっと、震えた。
「シュタイン家、というのは」
「王宮の中で、ご重職を担う、古い伯爵家。シュタイン伯爵は、宰相補佐のお役目」
ベアトリス様も、頷いた。
「お気をつけくださいませ、リリィ様」
シュタイン家。
王宮の中の、古い伯爵家。
ーー、なぜか、私の背筋が、ひやりと冷たくなった。
◇◇◇
放課後。
私は、アカデミーの図書館で、ノエルを待っていた。
天井までとどく書架に、古い革表紙のご本が、ずらりと並んでいた。
私は、薬草学のご本を膝にのせて、ページをめくりながら、ノエルを待った。
ほどなくして。
「リリィ」
書架のあいだから、ノエルが歩いてきた。
「うん、ノエル。おつかれさま」
「ーー、ふん」
ノエルが目線をそらしながら、けれど、口の端を、すこし、上げた。
「どうだった、リリィ」
「うん、たのしかったよ。エミリア様、ベアトリス様、アマリア様って、すごく優しいお友達ができたの」
「ーー、ふん」
「あと、ーー、中等科3年生に、オリヴィア・シュタイン様って、ご令嬢がいてね」
ノエルのお目が、すっと、深くなった。
「ーー、シュタイン、か」
「うん」
「ーー、リリィ、あの女には、近づくな」
ーー、!
ノエルのお声が、ふだんよりずっと、ずっと、低く、深かった。
「シュタイン家は、ーー、王宮の中で長く、わが王家とひそかに闘ってきた家だ」
「気をつけろ、リリィ」
「うん、ノエル」
ノエルが、私を、お守りくださっている。
私の胸の奥が、しんと、温かくなった。
そして、二人で、クラリッサ様の馬車に乗って、王宮へと帰った。
◇◇◇
その夕方。
私はクラリッサ様のお部屋で、王妃教育の最初のご授業を、受けた。
ご挨拶のしかた。
お辞儀の角度。
お言葉のお作法。
ご公務の流れ。
そして、王国に古くから伝わる祈祷や、ご儀式のお作法。
聖女として、王妃として、お国の祈りをしずかにお取り次ぎになるための、深いお勉強。
覚えることが、たくさん、たくさん、ある。
けれど、私は、頑張れる。
ーー、ノエルの隣に、立つために。
ノエルも、別のお部屋で、フェルディナンド様の帝王学のご授業を、受けている。
◇◇◇
晩餐の刻。
王宮の、ご家族の食堂。
長いテーブルに、陛下と、皇后陛下。そして、ノエルと、私。
皇后陛下のご快復は、いまも内密。だから晩餐は、ご家族だけの食卓だった。
陛下が、制服姿のノエルを、深い目で、ご覧になった。
「ノエルが、学び舎へ通う日が来るとはな」
長く、床に伏せっていた、わが子。
その子が、いま、こうして、食卓に着いている。
「リリィ。これも、そなたのおかげだ」
「いいえ、陛下。ノエルが、頑張ったからです」
皇后陛下も、やわらかく、微笑まれた。
「リリィ嬢。無理だけは、なさらないでね」
「はい、皇后陛下。ありがとうございます」
ノエルは、なにも言わず、私の隣で、こくりと頷いた。
陛下と、皇后陛下と、ノエルと、私。四人の食卓が、しんと、和やかだった。
ーー、私は、いま、この方々の食卓に、いる。
私の胸の奥が、ゆっくりと、満ちた。
◇◇◇
夜更け。
ノエルと私の応接間。
ノエルが、深く息を吐いて、ソファに腰を下ろした。
帝王学の本を、膝の上に置いて。
「ーー、ふん、お前、ぼろぼろ、だな」
「ノエルも、ぼろぼろ、だね」
二人で、くすっと、笑い合った。
ノエルが、私の隣にそっと座って、私の手を握ってくださった。
「明日も、また、頑張れ」
「うん、ノエル」
ノエルの指のぬくもりが、私の手に、じんわりと伝わってきた。
ーー、ノエル。
忙しい毎日が、これから始まる。
けれど、ノエルは、ずっと私のそばにいてくれる。
私は、しあわせな気持ちで、ノエルの手を、握りかえした。
王宮の窓の向こうで、春先の月が、しんしんと、白く光っていた。




