第45話 平穏
翌朝。
ゆうべからの王宮の奥の引っ越しは、まだ細々と続いていたけれど、おおまかなお部屋の配置は、整えられていた。
皇后陛下のお寝室は、もうすっかり、陛下のご寝室の隣のお部屋にお移しされていた。
二つのお部屋の間にある大きな白い扉は、いつでも自由にお出入りができるようになっている。
皇后陛下が、夜中にお目覚めになられても、すぐに陛下のおそばにまいられる。
陛下も、皇后陛下のおそばに、お寄り添いになられる。
長く離れていたご夫婦のお部屋が、ようやく、ひとつにつながった。
胸の奥が、じんと、温かくなった。
◇◇◇
皇后陛下のお部屋の、もうひとつ隣のお部屋。
そこに、看護チームの詰所が、新しく設えられていた。
私の私室と同じく、小さなキッチンと、薬草棚。
奥には、お父さんとお母さんが、交代で休めるよう、最低限の簡易のベッド。
ハインリッヒ先生の椅子と、机。
お兄ちゃんとヘンリックが週末に詰めるための、もうひとつの机。
ここで、お父さん、お母さん、お兄ちゃん、ヘンリック、ハインリッヒ先生が、交代しながら、皇后陛下のご看護をなさる。
そして、詰所と、皇后陛下のお部屋は、続き部屋。
廊下に出ることなく、皇后陛下のお薬を、運べる。
外の目に、晒されることなく。
内通者にも、察知されることなく。
◇◇◇
そして、アーデルハイト王国の中。
王宮のお勤めの方々の間で、噂が流れはじめていた。
ーー、皇后陛下のご病状が、よけいに悪くなられたらしい。
ーー、陛下がホーニング男爵一家を王宮に呼ばれたのは、皇后陛下の最後のお時間が近いから、では。
ーー、薬師として高名な一家を、最後のお手当てのために、招かれたのでは。
噂は、王宮の白い廊下を、すうっと流れていた。
その噂は、もちろん、実際の皇后陛下のご様子とは、まったくちがう。
皇后陛下は、毎日、すこしずつ、お元気になられている。
けれど、それは、内密。
隣国の犯人に、そう思わせておく。
ーー、皇后陛下が、いよいよ最後だ、と。
ーー、リリィの聖女の力で、皇后陛下にご快復のお力を貸しているけれど、もう間に合わないのだろう、と。
陛下と、ノエルと、フェルディナンド様の、深い、深い、策略。
私たちホーニング家も、その策略の一翼を担う。
◇◇◇
朝。
私はノエルの寝室の、大きな天蓋付きのベッドで、目を覚ました。
ノエルは、まだ、静かな寝息を立てていた。
私はそっとベッドを降りて、隣のドアの向こうの、私の私室へ向かった。
衣装部屋と、薬草棚と、木のデスクと、小さなキッチン。
私が、毎日、ノエルの薬を煎じる、お部屋。
薬草棚から、お母さんが調合してくれた、緑の薬草を取り出して、小さなキッチンで、煎じはじめた。
ぐつぐつ、と、薬草の香りが、立ち昇った。
ホーニング村のお母さんの台所と、同じ匂い。
王宮のいちばん奥の部屋の中に、ホーニング村の匂いが、漂っていた。
◇◇◇
朝のお薬は、私が、三人分すべてを煎じる。
ノエルの、朝の薬。
皇后陛下の、朝のお薬。
陛下の、朝のお薬。
毎朝、私は小さなキッチンの前で、そっと目を閉じて、神様にお祈りを捧げる。
神様から、神聖力を、すうっと、授かる。
その神聖力を、お薬に取り次がせていただく。
ーー、神様。
ーー、ノエル、皇后陛下、陛下、お三方が、お元気で、御幸せになりますように。
私の中に、温もりが、灯る。
それを、お薬の中に、移していく。
三つの小さなガラスの瓶を、お盆にのせて、廊下を運んだ。
◇◇◇
まず、ノエルの薬を、ノエルの寝室の枕元に、そっと置いた。
ノエルの長いまつげが、ぴくり、と震えた。
「ーー、リリィ、か」
「うん、ノエル。薬、ここに置いておくね」
「ーー、ふん」
ノエルはそれだけ言って、また目を閉じた。
私はノエルの寝顔を見つめてから、皇后陛下のお部屋へ向かった。
◇◇◇
皇后陛下のお部屋。
お父さんとお母さんが、皇后陛下のお脈を診ていた。
「リリィ、おはよう」
「お父さん、お母さん、おはよう」
「リリィ嬢、おはよう」
皇后陛下のお声が、ふだんよりずっとはっきりと、響いた。
もう、すっかり、ふだんのお声に近づいておられる。
「皇后陛下、おはようございます」
私はお辞儀をした。
皇后陛下が、微笑んでくださった。
「リリィ嬢、朝のお薬、いつもありがとう」
「いいえ、皇后陛下」
私は小さなガラスの瓶を、皇后陛下のお手元にお渡しした。
そして、続きのお部屋の、陛下のお寝室にも、お薬を運んだ。
陛下のご朝食のあとに、お薬をお渡しする。
陛下が、頷かれた。
「リリィ嬢、ありがとう」
「いいえ、陛下」
陛下と皇后陛下が、もう毎日、ご一緒にお会いになられる。
長く離れていたご夫婦が、ようやく、お時間を、ご一緒にお過ごしになられる。
ーー、よかった。
ーー、ほんとうに、よかった。
◇◇◇
お薬は、日に三回。
朝、お昼、夕方。
朝のお薬は、私が、三人分すべてを煎じる。
お昼と夕方のお薬は、看護チームの詰所で、お父さんとお母さんが作ってくれる。
家族のいちばん腕の確かな二人が調合する、お昼と夕方のお薬。
朝のお薬は、神様にお祈りを捧げて、神聖力を授かったうえで作る、三つのお薬。
それぞれが、それぞれの役目で、王宮の中の三人のお身体を、守る。
◇◇◇
その夕方。
ノエルと私の応接間。
ノエルが、本を読んでいた。
帝王学の、分厚い本。
私はノエルの隣に座って、その日のことを、話した。
「ノエル」
ノエルの蒼い瞳が、私の方に、向けられた。
「お父さんがね、今日、皇后陛下のお身体は、もう何ともない、って言ってたの」
ノエルが、本から目線を上げた。
「ーー、母上が、もう、大丈夫だと」
「うん。それでね」
「皇后陛下、御子も、授かれるんですって」
ノエルの蒼い瞳が、見開かれた。
「御子」
「うん。ノエルに、弟か妹が、できるかもしれないの」
ノエルが、その本をテーブルに置いた。
そして、目線を、窓の外の春先の光にやった。
ノエルの蒼い瞳の奥に、何かが揺れていた。
長い、長い、ひとりっ子だったノエル。
その長年の寂しさが、ほどけていく。
◇◇◇
「ねえ、ノエル」
「ノエルに、弟か妹ができたら、素敵よね」
ノエルが、目線を私のほうに向けた。
「ーー、ふん」
「ちょっと身体が弱っているけれど、皇后陛下は毎日、お散歩なさってるの」
「お散歩しながら、王宮のお庭の管理を、なさるんですって」
「お庭の一角には、新しく、薬草園も、お作りになるんですって」
「ホーニング村から持ち込んだ、貴重な薬草も、植えるんですって」
ノエルの蒼い瞳が、揺れた。
「薬草園、か」
「うん。ご自分の手で、薬草を育てて、自分の力で、お身体を、整えていかれる」
「お父さんも、お母さんも、私も、皇后陛下のお手伝いをするの」
「ホーニング家の家族、ぜんぶで、皇后陛下の薬草園を、お支えするの」
「皇后陛下、きっと、すぐに、ふだんのお元気を、すっかりお取り戻しになると思うの」
ノエルが、私の手の上にちょこんと、自分の指先を乗せた。
言葉のない、ノエルの指先。
その指先が、ぐっと、温かかった。
◇◇◇
「ーー、リリィ」
「うん、ノエル」
「ーー、お前のおかげだ」
「ーー、!」
「母上がもう一度、お元気になられるのも」
「ーー、お前のおかげだ」
私の頬を、涙が、ぼろりと、流れた。
「ううん、ノエル。みんなのおかげだよ」
「お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、ハインリッヒ先生も、ヘンリックも、それから、陛下と、皇后陛下、それからノエルも」
「みんなで、一緒に守ってる」
ノエルが、私の手をぎゅっと握った。
「ーー、なんだそれ」
「うん」
ふたりで、笑い合った。




