第39話 奪われたファーストキス
ノエルのお部屋の隣のちっちゃな客間が私の新しい、お部屋になった。
ちっちゃな木のベッド。
木の机。
壁には薬草を吊るすための棚がいくつも用意されていた。
窓からは雪を頂いた、王宮の銀色のお庭が見える。
私はお母さんから預かった、薬草ノートを机にひろげた。
お父さんがこしらえてくれた、新しい薬草籠を机のいちばん見やすい場所に置いた。
お兄ちゃんからもらった、医学書をベッドの枕元にぜんぶ、積み上げた。
ーー、家族のぬくもりが、この部屋にぜんぶ詰まっている。
ーー、それだけで、私の心はしずかに、強くなれる気がした。
◇◇◇
毎朝。
夜が明けるか、明けないか、のちっちゃな青い時間に。
私は王宮のちっちゃな台所をお借りして、お湯を沸かした。
お母さんに教わった、いちばん、おだやかな薬草をひとつ、ひとつ、煎じた。
カモミール、リンデン、それからお父さんが籠にぜんぶ、入れてくれた、深い森の白い根、ひとつまみ。
香ばしい、お薬の匂いがふんわりと台所いっぱいに満ちた。
ーー、ホーニング村の家の台所と同じ匂い。
ーー、それだけで私はすこし、強くなれる、気がした。
◇◇◇
ノエルのお部屋の重い扉がぎぃ、と開く。
私は煎じたお薬の湯気をつれて、ノエルのベッドの脇にすべりこむ。
「ノエル、おはよう」
「今日もお薬、持ってきたよ」
ノエルは目を閉じたまま。
長いまつげがほんのすこしだけ、震えるだけ。
額に私の手を当てる。
熱い。
毎朝、同じ、熱さ。
王宮のお抱えのお医者様方は、
「ーー、呪いに由来するご発熱は通常の解熱剤も薬草の煎じ薬もまったく作用いたしません」
「お力添えに感謝、申し上げます。ーー、ただ、ご無理はなさいませんように」
と最初の三日間、深くお辞儀をして、しずかに首を振っていた。
「リリィ様、お疲れになりませんように」
廊下ですれちがう、その白衣の方々はおだやかなけれど、ちっちゃな諦めの息を漏らしていた。
ーー、けれど。
私はひと匙、ひと匙、根気よく、ノエルの唇に煎じ薬を含ませた。
そして、ノエルの手を両手でふんわりと包んで。
ーー、楽になりますように。
ーー、息がもうすこし、深く、なりますように。
ーー、お熱がほんの少しだけ、引きますように。
心の中で繰り返した。
ーー、毎朝。
ーー、毎昼。
ーー、毎晩。
それが私の新しい、毎日になった。
◇◇◇
四日目の朝。
王宮のいちばん、ご年長のお医者様、ハインリッヒ先生がノエルの脈を診ていた。
その白い指先がふっと止まった。
「ーー、これは」
「ハインリッヒ先生?」
「脈がすこし、深く、なって、おる」
「!」
私の胸の奥がぎゅっと熱く、なった。
「呼吸のひゅうひゅうという、笛のような音がほんのすこしだけ、丸く、なって、おる」
ハインリッヒ先生の深い目が私をしずかに見つめた。
「リリィ様。ーー、お続けになってください」
「はい」
私は深く深く、頷いた。
ーー、もしかしたら。
ーー、ほんとうにちょっとだけ、私のお祈り、効いてるのかもしれない。
ーー、ノエル。
ーー、もうすこし。
ーー、もうすこしだけ、待っててね。
◇◇◇
セバスチャンは毎日、ノエルのお部屋の入り口にしずかに立って。
私がノエルを看ている、姿を白い髭の下でずっと見守って、くれていた。
時々、温かいお茶をノエルの脇の机に運んできてくれる。
「リリィ様。ーー、お休みもなさってください」
「うん、セバスチャン、ありがとう」
「リリィ様」
「うん?」
セバスチャンはベッドの脇にしゃがんでノエルの青白い頬をしずかに見つめた。
「坊ちゃまは坊ちゃまはリリィ様のことを五年間、ずっとお忘れになりませんでした」
「!」
「ご熱のお苦しみで薄目をお開けになられる、ほんのわずかな時に」
「ぼそぼそとリリィ、とお呼びになる、ことがございました」
セバスチャンのしわのある目からぼろぼろと涙がこぼれた。
「ーー、いま、そのリリィ様が坊ちゃまのお脇にいてくださる」
「ーー、こんな奇跡があるのか、と私は毎日、神様に感謝、ばかり、しております」
私の目からぽろり、と涙が零れた。
ーー、ノエル。
ーー、私のこと忘れずにいてくれてたんだね。
◇◇◇
一週間が過ぎた、ある朝。
私がいつものようにノエルの手を両手で包んでお祈りを繰り返していた、その時。
ノエルの長いまつげがふっと震えて。
うっすら、と目が開いた。
夜空に星屑が散ったような、蒼い瞳。
その瞳が私の方をしずかに見た。
「ーー、リ、リィ」
「!」
「ノエル」
私はぐっとノエルの手を握り直した。
「ノエル、私、ここにいるよ」
ノエルの蒼い瞳がしずかに私を見つめた。
けれど、その瞳の奥にふっと何かひんやりとしたものがよぎった。
「なんで」
「ノエル?」
「なんでお前がここにいる」
ノエルの声には戸惑いとなぜか少し冷たいものが混じっていた。
「ノエル、私、ノエルを助けに来たの」
「ーー」
ノエルはそれ以上、何も答えなかった。
ふっとふたたび、長いまつげを閉じてしまった。
ーー、ノエル?
なんでそんな顔するの?
私の胸の奥がちっちゃく痛んだ。
ーー、けれど。
ノエルが五年ぶりに私の名前を確かに呼んでくれた。
それだけでいまはいい。
私はしっかりと頷いて、ノエルの手をもう一度、両手で包み直した。
◇◇◇
その日から。
ノエルはすこしずつ。
ほんとうにすこしずつだけ。
ーー、お薬とお粥を口に含むことができるようになっていった。
私が暖かい、はちみつ入りのハーブティーを匙でふくませると。
ノエルの唇がふっとちっちゃく、動いた。
「ーー、う、う」
「ノエル?」
「ーー、あ、ーー」
ノエルはそれ以上、声にならなかった。
ーー、けれど。
蒼い瞳がしずかに私を見つめた。
何か、を伝えたい、目、だった。
「うん、ノエル。お話、しなくて、いいから」
「ーー、ゆっくり、休んでね」
私はしずかにノエルの手をもう一度、両手で包み直した。
ノエルの瞳からぽろりと涙が零れて、枕の白いカバーにちっちゃな染みをつくった。
◇◇◇
ノエルが薄目を開けて、いる、その時間が。
すこしずつ、すこしずつ、長く、なっていった。
「ーー、雪?」
「うん、ノエル。しんしんと降ってるよ」
「ーー、青薔薇」
「ローゼンタール離宮の?」
「うん」
「雪の中で来年の春にまた咲くためにしずかに眠ってるよ」
「ーー、そう」
ノエルがふっとちっちゃな笑みを浮かべた。
「ーー、また、見たい」
「うん、ノエル。きっと一緒に見ようね」
「うん」
ノエルのちっちゃな声に。
ふっと希望の色が混じった、気がした。
◇◇◇
十日目の朝。
ハインリッヒ先生がノエルの脈を診ながら、目を見開いた。
「リリィ様、ご覧、ください」
「はい」
「お熱がほんの半度。ーー、けれど、確かに引いて、おります」
「!」
「呼吸が五年間でいちばん、深いとお見受け、いたします」
ハインリッヒ先生の深い目にふっと潤いが揺れた。
「リリィ様のお持ちになられた薬草が確かに坊ちゃまに効いて、おります」
私の目からもう、涙がぼろりと零れた。
ーー、ノエル。
ーー、よかった。
ーー、ほんとうによかった。
ノエルの手をぎゅっと握り直した、その時。
ノエルのちっちゃな唇がふっと動いた。
「リリィ、ありがとう」
それがその日のノエルからのいちばんの贈り物、だった。
◇◇◇
その翌日の夕方。
私がいつものようにノエルのベッドの脇で煎じ薬を匙でふくませようとした、その時。
ノエルの長いまつげがふっと震えて、蒼い瞳がしずかに開いた。
「リリィ、か」
「うん、ノエル。私だよ」
ノエルの唇がごにょごにょと何かを呟いている。
声があまりにちっちゃくて、私の耳にはぜんぜん届かなかった。
「ノエル? 何?」
私はもっとよく聞こうとノエルの顔にふっと近づいた。
その瞬間。
ノエルの手がぐっと私の頭の後ろをつかんだ。
そしてぐいと自分の唇まで強引に引き寄せた。
!
私の唇に熱い熱いノエルの唇が押しつけられた。
頭の中がまっしろになった。
息もできない。
数秒の永遠のような瞬間。
ノエルの唇がふっと離れた。
「お前」
「ノエル?」
「もう、帰れ」
ノエルの声がしんと冷たくなった。
「!」
「俺に近づくな」
「ノエル、なんで」
「あっちに行け」
ノエルの長いまつげがふっと閉じた。
そしてもう、ノエルはしずかな寝息に戻ってしまった。
!
私はベッドの脇でぼうぜんと立ちつくしていた。
唇にまだ、熱いノエルの感触が残っていた。
ノエル、なんで。
なんで急にこんなこと。
頭がぐらぐらと揺れた。
ーー、けれど。
ノエルが男のような低い強い声で私を突き放した、その荒々しい声に。
私の胸がなぜかどきんどきんと跳ねていた。
突き放されたのになんで私こんなにドキドキしているの?
頬がふいにぽっと熱くなった。
ーー、けれど。
「もう、帰れ」「近づくな」と私を突き放した、その声。
それはきっとノエル本人の意志じゃない。
ノエルはきっと呪いが私にうつるかもとこわがっているんだ。
だから私をわざと突き放した。
胸の奥がぎゅっと絞られた。
ーー、ノエル。
私、絶対に離れないよ。
何を言われても絶対に絶対にノエルのそばにいる。
私はしずかにノエルの手をもう一度、両手で包み直した。
唇に残った熱をしずかにしずかにしまいこんで。
◇◇◇
ーー、けれど。
二週間目のその夜。
突然、全てが変わったしまった。
私がノエルのお部屋を出て、自分の客間に戻る、その前。
最後のお薬をノエルに含ませて、
「ノエル、おやすみ」
と囁いた、その時。
ノエルの手がふっと私の指先をつかんだ。
「お前、まだいたのか」
「うん、ノエル?」
「別にいてとは言ってない」
「ノエル?」
「なんだか嫌な感じがする」
「!」
ノエルの蒼い瞳がぼんやり、と奥の方で揺れていた。
熱がふっとまた、ぐぐっと上がりはじめていた。
「ノエル、私、いるよ」
「リリィ、俺、ねむい」
「うん、寝ていいよ。ーー、私、ずっとここにいるから」
「ーー、ありがとう」
ノエルの長いまつげがゆっくりと閉じた。
◇◇◇
そのわずか、一刻、後。
ノエルのお部屋からぱしゃんと軽い、何かが落ちる音が聞こえた、気がした。
私は「はっ」と客間の椅子から立ち上がって。
ノエルのお部屋に駆け込んだ。
ノエルのお部屋の空気が急にしん、と冷たく、なっていた。
ベッドの上のノエル。
その頬がいつもの熱で赤い、色じゃ、なかった。
ーー、白い。
ーー、紙のようにしろい。
呼吸がひゅう、ひゅう、ではなく、ぜぇぜぇと奥からもう、絞り出されるような、苦しい、音、だった。
「ノエル、!」
私はベッドの脇に飛び込んでノエルの手をつかんだ。
ーー、冷たい。
ーー、びっくりするくらい、冷たい。
ぜんぜん、温かく、ない。
「ノエル、!」
ノエルの長いまつげはもう、震えなかった。
「ノエル、ノエル、ーー」
私の声がしんとした、王宮のいちばん奥のお部屋の中で空しく、響いた。
◇◇◇
ハインリッヒ先生が駆けつけて、来た。
ノエルの脈を診た、その手がふっと止まった。
そして、しばらく、しばらく、動かなかった。
「ハインリッヒ、先生」
ハインリッヒ先生の深い目がしずかに私を見上げた。
「リリィ様、ーー」
「はい」
「ーー、今夜が峠でございます」
「!」
「呪いが最後の力を振り絞って、おります」
「!」
「リリィ様の薬草とご献身で、呪いがいよいよ追い詰められております。けれどその最後の発作が、ノエル様のお命を奪い去ろうとしているのです」
「ハインリッヒ、先生」
ハインリッヒ先生の声がふっと震えた。
「ーー、もし、明日の朝までにお熱が引かなければ」
「!」
私の指先から足の先までぜんぶの血が引いた。
ーー、ノエル。
ーー、ノエル、お願い。
ーー、お願いだから、ーー、置いていかないで。
◇◇◇
セバスチャンがノエルのベッドの脇にしゃがみこんで両手で自分の口を押さえていた。
その肩がしんしんと震えていた。
王宮のお抱えのお医者様方が何人も何人もノエルのお部屋に駆けつけて、来た。
けれど、誰も何もできなかった。
呪いの熱はふつうのお薬では絶対に引かないからだ。
雪が王宮の大きな窓の向こうでしんしんと降り続いていた。
私はノエルのちっちゃな冷たい手を両手でしっかりと握り直した。
ーー、お父さんの声が頭の中で響いた。
ーー、こうと決めたら、絶対に弱音を吐くな。
ーー、苦しんでいる、その人をお救いできるよう、力を尽くす。
ーー、薬師や、癒し手というのはそういう、役割、なんだ。
ーー、私は。
ーー、私は絶対にノエルをひとりにさせない。
私の中にしずかに火が灯った。
リリィ・ホーニング、十二歳の冬。
ノエルと再会して、二週間と数日。
ノエルがすこしずつ、私の声に応えてくれるようになった、その先で。
──呪いが最後の力を振り絞って、ノエルの命を攫って、いこうとした、その夜。
──私はノエルの手をしっかりと握ったまま、これから長い長いいちばん、深い夜を迎えようとしていた。




