第36話 家族と過ごす、最後の夜
外の雪が夕方になって、ますます、しんしんと深くなった頃。
ふいに窓の外から聞き慣れない、車輪の音が聞こえた。
がらん、がらん、とふだん、ホーニング村ではぜったいに聞かない、おもみのある、立派な、響き。
──、!
私は思わず、窓辺に駆け寄った。
家の前に見たことのない、立派な、二頭立ての馬車が雪の中にしずかに停まっていた。
馬車の扉には銀色の十字の紋章。
──、!
──、村の人の馬車じゃ、ない。
──、誰、なんだろう。
胸がどきん、と嫌な音を立てた。
ホーニング村に馬車のお客様が来ることはめったにないのに。
私はふっと振り返って、お父さんとお母さんとお兄ちゃんを見た。
三人ともふっと目を見合わせた。
その目に私の知らない、何かがほんの一瞬、揺れた、気がした。
◇◇◇
玄関の扉をノックする音がこん、こん、としずかに響いた。
お父さんがゆっくりと立ち上がって、扉を開けた。
冷たい、雪の風といっしょに。
白い、聖職者の長いローブをまとった、銀色の髪の初老の男の人がしずかに玄関に立っていた。
胸には銀色の十字の紋章。
──、王都の大聖堂のお方。
「失礼、いたします」
おだやかな、けれど、なぜか、家のいちばん奥まで見透かしているような、声、だった。
「私は王都の大聖堂から参りました、フェルディナンドと申します。リリィ・ホーニング様にご家族、ご一緒のところでお話をさせていただきたく」
私の名前をその方が口にした、瞬間。
お母さんとお父さんがふっともう一度、目を見合わせた。
その目の中にまるでいつか、こうなる日が来ることを長く、ずっとずっと知っていた、ような、何かが揺れて、いた。
「ーー、どうぞ、お入りください」
お父さんがしずかに頷いて、その方を暖炉の前へとお通しした。
私も自分の椅子にちょこんと腰をおろした。
暖炉の薪がぱちんと弾ぜた。
◇◇◇
「リリィ様」
フェルディナンド様は白い、ふくよかな手を膝の上で組んだ。
「ホーニング村の聖堂の神父様より大聖堂にご報告が上がってきまして、ね」
──、!
──、神父様、やっぱり、ぜんぶ、大聖堂に報告、していたんだ。
「リリィ様のお祈りで村の人々のお熱が引く。骨折の治りも人よりずっと早い。ーー、そういった、お話がもう、何件も何件も届いて、おります」
「ーー、私、特別なことしているつもりはないんです」
「ふふ、それでよいのです、リリィ様」
フェルディナンド様はおだやかに微笑んだ。
それからふっとお母さんとお父さんの方に目を移した。
「奥様、ご主人。ーー、リリィ様のお力のことはもちろん、お気づきでいらっしゃいましたね」
お母さんが。
お父さんが。
ふっとほんの一瞬、目を伏せた。
──、!
──、お父さん。
──、お母さん。
──、知ってた、の?
──、私のことを?
「はい」
お母さんがようやく、ひと言、答えた。
その声がいつもの明るいお母さんの声ではなかった。
「ふふ。やはり、でございますか」
フェルディナンド様の目がふっと深くなった。
その目の奥に。
私の知らない、長い、長い、時間のような、何かが揺れていた、気がした。
◇◇◇
「実は大聖堂からリリィ様にひとつ、お願いがございます」
「お願い、ですか?」
「ええ。ーー、ある方を看ていただきたいのです」
「どなた、ですか?」
「ーー、それは王都にお越し、いただいてからお話、いたします」
「ーー、王都」
私の唇が自然にその言葉をなぞった。
王都。
ノエルが五年前に連れて、行かれた、街。
「それは家族と離れて、王都へ行くということ?」
「ええ、よくわかって、おります。ですからしばらく、大聖堂でお勉強しながら、その方のお力になれるよう、整えていただければと考えております」
「お、お勉強?」
「リリィ様のその不思議なお力はまだ、まったく、整理されておりません。きっとご自身でもお分かりになっていないでしょう」
「はい」
「大聖堂には長く、お祈りで人を癒してきた、知識の蓄積がございます。リリィ様のお力をご自分で上手く、使えるようにお手伝いいたします」
私は隣のお父さんを見た。
お父さんはまっすぐにフェルディナンド様の方を見ていた。
唇を固く、結んで。
──まるでいつか、こうなる日が来ることを知っていた、ような、目で。
「ーー、その方は」
私は思わず、尋ねた。
「ーー、どんな、ご病気の人、なんですか?」
フェルディナンド様はしばらく、黙っていた。
そして、おだやかにけれど、はっきりと言った。
「ーー、長らく、どんな、お薬も効かない、お方でございます」
──、!
──、お薬の効かない、人。
──、私のお祈りでもしかして、楽になるかもしれない、人。
胸の奥で何かがちりちり、と灯った。
そう感じた瞬間。
私はもう、頷いて、しまっていた。
「ーー、私でお役に立てるなら、行きます」
「リリィ、!」
お兄ちゃんが思わず、声を上げた。
「お前、まだ、十二歳だ、ぞ。家族と離れて、たったひとりで王都に行くなんて、あんまりだ」
「ーー、お兄ちゃん」
お兄ちゃんはぐっと私の肩を両手でつかんだ。
「リリィ、聞いてくれ。ぼくも来春、王都の医学校に行く」
「うん」
「今通ってる本科で首席を取って、すぐにリリィのところに行く。だからそれから一緒に行こう」
「ーー、お兄ちゃん」
私はお兄ちゃんの手の上に自分の手をそっと重ねた。
「ーー、ありがとう、お兄ちゃん」
「うん」
「ーー、けど、フェルディナンド様」
私はお兄ちゃんの手の温かさを感じながら、しずかにフェルディナンド様の方を向いた。
「そのお方はいま、苦しんでいらっしゃるん、ですよね」
「ええ」
「命の危険はおありなのですか?」
フェルディナンド様のおだやかな目がふっと深くなった。
「ーー、はい。今のままではもう、長くはないと王宮のお医者様方がおっしゃって、おります」
「!」
お兄ちゃんが息をのんだ。
「大聖堂は長年、癒しのお力を発現された、お方を各地でお探しして、まいりました」
「神聖力という、奇跡のお力です。お薬の効かない、お方をお救いできる、唯一の可能性」
「リリィ様のご報告が神父様より上がった、その日、私どもはようやく、お会いできた、と震えました」
私の胸の奥がぎゅっと固まった。
──、私のちっちゃな、お祈りでもしかしたら、繋げられる、かもしれない、命。
「お兄ちゃん」
私はお兄ちゃんをまっすぐに見上げた。
「私、行きたい。だって、そのお方はもう長くはないかもしれないのだもの」
お兄ちゃんはぐっと唇を噛んだ。
それからしずかに私の頭の上に手をのせて、くしゃっと撫でた。
「ーー、リリィ」
「うん、お兄ちゃん」
「ぼくもすぐに王都に行くから」
「うん」
「そしたら、一緒に暮らそう」
「うん」
「それまで頑張れ」
「うん」
「ーー、でもリリィはひとりじゃ、ないからな」
「ーー、お兄ちゃん」
「いつも俺たち、家族がリリィのこと応援してる、から」
「ーー、うん。うん、お兄ちゃん」
◇◇◇
「リリィ」
ずっと黙って、聞いていた、お父さんが。
低い声で私の名前を呼んだ。
私ははっとお父さんの方に向き直った。
お父さんのごつごつとした、温かい手が私の両肩にしずかにおかれた。
「リリィ、いいか」
「うん、お父さん」
「こうと決めたら、絶対に弱音を吐くな」
「はい」
「お前はお父さんとお母さんの自慢の娘だ。何があっても弱気になるな」
「はい」
お父さんの深い目がしずかに私を見つめた。
「リリィ。すべては神様のお導きだ」
「うん」
「けれど、我々、民草にもちゃんと選択肢は与えられている」
「ーー、選択肢」
「お前はいま、その自分の人生の選択肢をひとつ、自分で選んだ。お父さんはそれを誇りに思うぞ」
「ーー、お父さん」
「神様のご加護を信じて、苦しんでいる、その人をお救いできるよう、力を尽くす」
「うん」
「薬師や、癒し手というのはそういう、役割なんだ。リリィ、覚えて、おきなさい」
「うん、お父さん」
私は何度も何度も頷いた。
お父さんの目に。
涙が揺れていた。
私が生まれてから見たことのない、お父さんの涙だった。
「ーー、覚悟、できた、のか」
「うん、お父さん」
「ーー、わかった」
お父さんはそれだけ、言って、深く深く、頭を下げた。
◇◇◇
その隣で。
お母さんがしずかに立ち上がって、まっすぐに私のところまで歩いて、来た。
そして、ぎゅっと強く、強く、両腕で私を抱きしめた。
お母さんのいつものお日さまとハーブの温かい、匂い。
「リリィ」
耳元でお母さんの声がほんのすこしだけ、ふるえていた。
「お母さん、いつかはこういう日が来るんじゃないかって、思っていたわ」
「ーー、お母さん」
「リリィ、あなたが決めた道を進んでいいのよ。あなたの人生なのだから」
「うん」
「でもね、リリィ。あなたはいつでもいつでも我が家に戻ってきてもいいのよ。覚えておいて」
「ここはあなたのお家なのだから」
「うん、お母さん」
お母さんは私の頬を両手でふっくらと包んだ。
その青い瞳がぎりぎりまで潤んでいた。
潤んだ、ひと粒、ひと粒をお母さんは必死に必死に堪えていた。
私の前でこぼさないように。
私の覚悟を揺らがせないように。
お母さんはいつも私のためにいちばん、強い顔を見せて、くれる。
私はお母さんの温かい手のひらに頬を押し当てて、しずかに頷いた。
お兄ちゃんがその後ろでこぶしをぐっと握って、肩をふるわせていた。
◇◇◇
「リリィ様」
フェルディナンド様がゆっくりと立ち上がった。
「お返事は急ぎません。ご家族でもう一度、お話しになってから、ーー」
「いえ」
私は首を振った。
「もう、決めました」
「ーー」
「明日、馬車を出してくれたら、私、王都の大聖堂にまいります」
フェルディナンド様のおだやかな目が私をまっすぐに見つめた。
そして、ゆっくり、深く、頭を下げた。
「ーー、お預かり、いたします」
フェルディナンド様はもう一度、深く、頭を下げて、立ち上がった。
「では明朝、ふたたび、馬車をお迎えに上がります」
「はい」
「ご家族とおだやかな、最後の夜をお過ごしください」
雪の中、フェルディナンド様の銀の十字の馬車がしずかに家の前から離れて、いった。
ホーニング村の雪道の上に車輪の跡が二本、長く、伸びていた。
その跡が夕日の中でゆっくりと青い影に染まっていく、のを。
私は玄関先に立って、ずっとずっと見つめていた。
◇◇◇
その夜。
家族の最後の夜。
お母さんは暖炉の前で新しい、ふかふかの白い毛糸を編んでいた。
「リリィ、王都はホーニング村よりも寒いそうよ」
「うん、お母さん」
「これ、間に合わせるからね」
お母さんの細い指が編み針をかちゃ、かちゃ、としずかに動かしていた。
お父さんは暖炉の横で新しい、革張りの薬草籠を自分の手でこしらえていた。
「リリィ。これにお前のいちばん、大事な、薬草をぜんぶ、入れて、いきな」
「うん、お父さん」
お父さんのごつごつとした指が革紐をひと結び、ひと結び、丁寧に編んでいた。
お兄ちゃんは二階から自分の宝物の医学書を何冊も抱えて、降りてきた。
「リリィ。これ、王都の医学校でいちばん、評判の薬学の本。ぼくの書き込みもぜんぶ、ついてる」
「ーー、お兄ちゃん、これ、お兄ちゃんの大事な、ーー」
「いいから。リリィの方がいま、もっと必要、だろ」
お兄ちゃんの手はすこしだけ、ふるえていた。
私はその本をぎゅっと胸に抱きしめた。
◇◇◇
最後の晩ごはんはお母さんのいつものシチューだった。
ごろり、とお野菜がたっぷり、入った、温かい、シチュー。
四人で丸テーブルを囲んでしずかに匙を運んだ。
「リリィ、おかわり、する?」
「うん、お母さん」
私がおかわりをするたびにお母さんが嬉しそうに笑った。
その笑顔の奥に毎晩、四人で囲んだ、この丸テーブルが明日からひとり、欠けることへのちっちゃな、ちっちゃな、痛みがしずかに隠れていた、気がした。
お父さんもお兄ちゃんもいつもより少しだけ、たくさん、シチューをおかわりした。
ーー、誰も明日のことを口に出さなかった。
ーー、ただ、いつものいつものホーニング家の晩ごはんを四人でゆっくり、ゆっくり、味わった。
◇◇◇
その夜、お布団に入ってから。
私は毛布の中でしずかに目を閉じた。
ーー、ノエル。
ーー、私、明日、王都に行く。
ーー、お薬の効かない、お方をお看しに行く。
ーー、ノエルはきっと王都に近い、街にいるんだよね。
胸の奥にふっと温かいものが灯った。
ーー、王都に行ったら、もしかしたら、ノエルに会える、かもしれない。
ーー、いや。
ーー、たぶん、会えない。
ーー、ノエルは貴族のお子様だから私みたいな、村の薬師の娘とはもう、お会いできる、場所がちがう。
ーー、けれど。
ーー、同じ、王都の空の下で息をしている、と思うだけで。
ーー、私はもう、それだけで頑張れる、気がする。
ふっと目尻から温かいものがひと粒、こぼれた。
ーー、けれど、それは悲しい涙、じゃ、なかった。
ーー、もうすぐ、新しい一歩を踏み出す、ちっちゃな、ちっちゃな、覚悟の涙、だった。
◇◇◇
下の階から。
ふとちっちゃな、すすり泣きが聞こえた、気がした。
ーー、お母さん。
それからお父さんの低い、ぼそ、ぼそ、という声。
それからお兄ちゃんのぐっと息をこらえる、音。
私の家族もそれぞれ、最後の夜をしずかにしずかに過ごして、いた。
私は毛布を頭まで引き上げて。
ーー、明日、ぜったいに強く、笑って、馬車に乗ろう、と決めた。
そして、しずかに目を閉じた。
◇◇◇
雪がしんしんと外で降り続いていた。
ノエルのいない、五度目の冬至。
私の世界にもう一つ、知らない、扉がゆっくりとひらいた、その日だった。
リリィ・ホーニング、十二歳の冬至。
ノエルと別れて、五年。
呪われた男の子の十六歳のお誕生日に私は五度目のお星さまのクッキーを家族でぜんぶ、わけて、食べた。
──そして、その夕方、王都の大聖堂が私にまだ知らない、誰かの看病を頼みに家まで来て。
──両親の表情に私の知らない、長い、長い時間が初めて、ほんの少しだけ、揺れた、その日。
──私の世界の扉がしずかにもう一枚、開いた、その日だった。




