第35話 ノエルのいない、五度目の冬至
ノエルがいなくなって五年が経った。
長い長い五年だった。
雪の門の前で黒い馬車を見送った、あの七歳の冬。
あの頃のちっちゃな私はノエルといっしょに過ごす毎日がずっとずっと永遠に続くものだとしんじていた。
ノエルのちっちゃな手を握って。
お薬を煎じて。
お庭の青薔薇をふたりで見つめて。
暖炉の前でノエルのちっちゃな声を聞いて。
そのひとつひとつの午後がいつか終わってしまうことなんてぜんぜん信じられなかった。
けれど。
毎日はちゃんと終わっていった。
そして雪の門の前でノエルは黒い馬車に乗って行ってしまった。
◇◇◇
毎年ノエルのお誕生日の冬至が近づいてくると。
朝目を覚ましたときお布団の中でぼんやりと天井を見つめて。
ノエルは今日もお元気にしているかな。
ご飯はちゃんと食べられているかな。
呪いはすこしはゆるんでいるかな。
考えはじめるともう止まらなくなって。
お母さんが二階の階段の下から、
「リリィ、朝ごはん、冷めちゃうわよ」
といつもの声で呼んでくれた時にようやく私は毛布からゆっくりと抜け出すことができた。
◇◇◇
時間は雪解けのように私の知らない間にしずかに流れていって。
気づけば私の身体はお母さんの胸の高さから肩の高さまで伸びていた。
蜂蜜色の髪も肩の下まで伸びて。
雪の朝に井戸の水を汲む時、肩の下の毛先が邪魔になるくらい長くなっていた。
◇◇◇
八歳の春に私はお兄ちゃんと一緒に隣町の医学校の付属の学び舎に通うことを決めた。
「リリィ。薬師の知識に医師の知識が加われば、もっといろんな人を救えるぞ」
お兄ちゃんはその春、私の頭をくしゃっと撫でてそう言った。
お兄ちゃんはその年から隣町の医学校の本科に上がるところで毎週ぼろぼろの荷馬車に私を乗せて行きと帰りをいっしょにしてくれた。
「八歳で医学を学ぶのはたぶんお前が村でいちばんちっちゃいぞ」
「うん。けど、ノエルの力になりたいから」
お兄ちゃんはそれを聞いていつもふっと笑った。
笑いながら何も言わなかった。
お兄ちゃんは私の中のノエルの灯りを消さないようにいつもしずかに見守ってくれていた。
◇◇◇
毎日はほんとうに忙しかった。
週に二度。
夜明け前のまだ星の残る空の下で私はお兄ちゃんと一緒にぼろぼろの荷馬車に乗り込んだ。
がたんがたんと車輪の音を雪道やぬかるみの道に響かせながら二時間。
隣町の医学校のちっちゃな付属の学び舎まで通った。
学び舎の白い髭のおじいちゃん先生が私のような村の子たちのために人の身体のしくみを絵に描いてひとつひとつ教えてくれた。
「ここが肝臓。毒がここでぜんぶこされる」
「ここが心の臓。ぎゅっぎゅっと血を押し出している」
「ここが肺。息を吸って吐いてするところ」
私はおじいちゃん先生の言葉をノートに夢中で書き写した。
学び舎のちっちゃな教室を出ると。
廊下の向こう側には本科の大きな教室がいくつも並んでいた。
休み時間。
廊下を行き来する本科のお兄さんお姉さんたちはみんな白い長いコートをはおって分厚い革表紙の医学書を抱えていた。
「……肝硬変の初期所見と慢性肝炎の見分けは……」
「……解剖実習、明日いよいよ心の臓だ。お前、緊張してる?」
すれ違いざまにちらりと聞こえてくるその言葉のひとつひとつが。
私にはまだ半分もわからない大人の世界の響きだった。
そしてその白いコートの群れのいちばん奥に。
ふとお兄ちゃんの見慣れた後ろ姿が見えた。
廊下の隅で本をひろげて本科のお友達と何か真剣に話しこんでいた。
お兄ちゃんはあの白いコートをはおって勉強しているんだ。
私もいつかあの白いコートを着られるかな。
そう思いながら私は廊下のちっちゃな腰掛けに座って自分のノートの頁をめくった。
◇◇◇
家に戻る日は。
朝ホーニング村のちっちゃな学校で読み書きと算数と地理を習う。
昼、お母さんの薬草畑で。
「リリィ、この葉っぱは根元から爪でぴたっと折るのよ。茎を潰しちゃだめ。お薬の力が抜けていくから」
お母さんは私の隣にしゃがんでその白い指先でお手本を見せてくれた。
夕方、お父さんと二人で家の裏の森に入ってふつうの薬師ではなかなか辿りつけない深い森の薬草のありかを教えてもらう。
「ここの苔の下にひっそりと白い花が咲いているだろう。これが熱をいちばん下げる根なんだ」
お父さんのごつごつとした指が湿った苔をそっとめくった。
夜暖炉の前で。
医学校で習ったことをお母さんの薬草の知識とお父さんの森の知恵とぜんぶひとつのノートに書き写し直した。
肝臓に効く薬草はこれ。
心の臓をおだやかにする煎じ薬はこれ。
肺の咳をしずめる根はこれ。
学び舎の絵とお母さんの草とお父さんの森が私のノートの中で一本の糸になっていった。
ノートはもう何冊にもなっていた。
そのノートのいちばん最初の頁にはいつもいちばん大きな字でこう書いてあった。
ノエルが戻ってきたその日にちゃんとノエルの力になれるように。
それが私の五年間のぜんぶの原動力だった。
◇◇◇
そしていつの間にかふしぎなことが起こりはじめた。
九歳の夏の終わり。
村の隣の家の二歳のトーマス坊やがはじめてのひどい熱を出した。
夜中じゅうお母さんと私で看病した。
お母さんが解熱の煎じ薬をちっちゃな匙で根気よく含ませる、その横で。
私はただトーマス坊やのちっちゃな火のように熱い手を両手でぎゅっと握って。
楽になりますように。
お熱、引きますように。
そう心の中で繰り返しただけだった。
夜明けにトーマス坊やの息がふっとゆるんだ。
ちっちゃな瞼がぱちんと開いた。
「……リリィ、おねえちゃん」
「うん、トーマス。もうだいじょうぶだよ」
その時お母さんが私の手をじっと見ていたのを私は覚えている。
何かをわかっていたような目だった。
◇◇◇
十歳の秋。
森で薪を割っていた白髪のハンスお爺さんが足の骨をぐきっと折った。
お父さんが添え木を当てて。
私はその日から毎朝ハンスお爺さんのしわのあるごつごつした足を両手でふんわりと包んで。
はやくお元気になりますように。
またお孫さんとお散歩できますように。
そう心の中でささやくのが日課になった。
ふつうお年寄りの骨は若い人よりずっとずっとゆっくりしか塞がらないとお兄ちゃんが医学の本で読んでくれた。
けれど。
ハンスお爺さんの足はふた月もしないうちにすっかりもとに戻った。
「リリィちゃんが毎朝来てくれたおかげだなあ」
ハンスお爺さんは新しく削った杖を嬉しそうに握って笑った。
私は自分の手のひらをじっと見つめた。
これはぐうぜんなのかな。
それとも何か別のものなのかな。
考えても答えは出なかった。
◇◇◇
三度目にふしぎなことが起こったその夜。
お母さんが私を暖炉の前に座らせた。
火がぱちんぱちんと薪をはじいていた。
お母さんの青い瞳がその火をしずかに映していた。
「リリィ」
「うん、お母さん」
「あなたはふつうの薬師の娘じゃないかもしれないわね」
「……えっ」
私は思わず息をのんだ。
お母さんはそれからしばらく火をただ見つめていた。
長い長い沈黙。
その沈黙の中にお母さんの私の知らないずっとずっと昔からの何かがふっと揺れた気がした。
「いえ、いいの」
ようやくお母さんはふっと笑った。
「お母さんの独り言よ。リリィ。忘れてちょうだい」
「……お母さん?」
お母さんの瞳はもういつもの優しいお母さんの瞳に戻っていた。
ただその奥にほんのひと粒、私のまだ知らない長い長い時間の影が揺れていた気がした。
私はそれ以上訊くことができなかった。
なぜか訊いてはいけないとその時思ったから。
◇◇◇
その夜私は寝床で自分の両手を月明かりにかざしてみた。
ちっちゃな十歳の女の子の手。
爪の先には薬草をすり潰した緑の汚れが残っていた。
ふつうの薬師の娘じゃないかもしれない。
お母さんの言葉が頭の中で何度もゆっくりと繰り返された。
ふつうじゃないなら。
ノエルを助けられるかもしれないということなのかな。
胸の奥がぽつんと灯った。
その夜私はお布団の中でノエルにこっそり約束した。
ノエル。
私、もしふつうじゃないお力を持っているなら。
絶対、絶対、ノエルを助けるから。
だから待っててね。
月の光が私の手のひらをしずかに撫でていた。
ふつうとふつうじゃないの境目を私が自分でしずかに踏み越えた夜だった。
◇◇◇
ノエルのいない五年のあいだに私にはたくさんの新しい友達もできた。
ホーニング村のちっちゃな学校でいちばんの仲良しはアンナとメイ。
アンナはパン屋さんの長女で髪が私と同じ蜂蜜色。
そばかすが鼻の頭にいっぱい散っていて笑うと八重歯がぴょこんと覗いた。
メイは隣の家の牧場の娘で髪は麦の穂のようなまっすぐの金髪。
牛と山羊を毎朝追いかけているおかげで女の子なのに足が村でいちばん速い。
それから医学校の付属の学び舎でいちばんの仲良しはヘンリック。
二つ年上の隣町のお医者様の息子で私がちっちゃくて本科の高い棚に本が届かないときに。
ふっと横から手を伸ばしてしずかに本を取ってくれるような男の子だった。
◇◇◇
学校がない日には。
私はアンナのパン屋さんのちっちゃな台所にお邪魔した。
「リリィ、来た! ねえ、見てこれ、お父さんが新しく入れた抜き型!」
アンナは目をきらきらとさせて私を迎えてくれた。
ふたりで麦粉を頭にも頬にもいっぱいつけて新しい菓子パンの形を競った。
アンナのお父さんがふぉふぉと笑いながら焼きたての黒パンをちぎって二人の口にぽいっと入れてくれた。
「うちの看板娘が二人になったみたいだ」
学校が終わった夕方には。
私はメイの牧場までまっすぐに走った。
丘のいちばん上でメイと二人で寝そべって夕焼け色の雲を見ることがあった。
「リリィ、見てあの雲、お羊さんに似てる」
「ふふ、ほんとだメイ。お耳まで垂れてる」
ぱくぱくと麦のおにぎりをふたつ分けっこして食べた。
夏には村のちっちゃな小川で三人ですそをたくし上げて足をひんやりとした流れにひたした。
秋の収穫祭では丸太の上を誰がいちばん上手に渡れるかで競争した。
いつもいちばんに走り抜けるのはメイ。
いちばん麦粉だらけで笑っているのはアンナ。
冬は雪だるまをいっしょにこさえてメイの牧場の山羊さんにお土産だと言って抱えて行った。
◇◇◇
医学校の付属の学び舎でヘンリックはいつも私の隣の席にいた。
「リリィ、お前、暗記速いな。ぼく、今日の骨の名前まだ半分しか覚えてない」
「ふふ、ヘンリックは毎晩お父様の診察をお手伝いしているんでしょう? 暗記よりもっと大事なお勉強、してるじゃない」
休みの日にはヘンリックと隣町のちっちゃな市場まで薬草をいっしょに仕入れに行った。
「リリィ、これ、ぼくのお父さんが診察にいちばん使うやつ。新しい入荷だって」
ヘンリックが新しい乾燥ローズマリーの束を私の籠にふっと入れてくれた。
新しい医学書を貸しあった。
ヘンリックは私のノートの薬草の絵が上手なところをいつもしずかに褒めてくれた。
「リリィの絵、本物よりずっと覚えやすい」
私はその褒め言葉がたぶん村のお年寄りに薬草の見分け方をお伝えする時にいちばん役に立っていることを知っていた。
◇◇◇
アンナとメイとヘンリック。
三人ともに私はノエルのことをひと言も話したことがなかった。
話そうとしても上手く説明できる気がしなかったから。
それでも三人は私が村のお年寄りや子供たちの看病にしょっちゅう駆け回っていることをちゃんと見てくれていた。
「リリィ、無理しすぎちゃだめだよ」
「リリィ、これ、うちのパン、持ってきたよ。今日も看病、お疲れさま」
「リリィ、明日ぼくが隣町から新しい医学書、借りてきてあげる」
三人の声は五年のあいだに私の中でふっと暖炉のような温かい場所をしずかにつくってくれていた。
ノエルがいなくても私の毎日にはちゃんと笑い声があった。
麦粉と山羊さんの匂いと薬草の香りといっしょに。
けれど心のいちばん奥にちっちゃなノエルだけの場所がしずかに残っているのもほんとうだった。
それはもう悲しいということではなかった。
ただそういう場所なのだった。
◇◇◇
噂は私が思っているよりずっと早く広がっていたらしい。
最初はホーニング村の井戸端で。
「リリィちゃんがお祈りすると熱が引くらしいよ」
「ハンスさんの足、リリィちゃんが毎朝撫でてくれたから治ったって」
それがいつの間にか隣のエルム村に移って。
その向こうのグレーフェ村にまで届いたらしい。
雪の朝にエルム村のお父さんが四歳の女の子を馬車に乗せてホーニング村の私の家まで連れて来た。
「リリィちゃん、お頼みします。この子、もうふた月も咳が止まらないんだ」
私はまだ十一歳になったばかりで。
それでもその咳の止まらない女の子をしずかに両手で抱いて額に私の額をそっと当てた。
楽になりますように。
お薬と一緒に効きますように。
その晩から女の子の咳はすこしずつゆるんでいったと。
エルム村のお父さんは翌週お礼にと籠いっぱいの林檎を持ってきてくれた。
◇◇◇
そしてホーニング村のちっちゃな白い聖堂。
そこに長くお勤めしている白髪の神父様。
私が看病から帰る夕日の道で。
その神父様がいつも聖堂の門の前に立って。
ふっと目を細めて私をしずかに見ていた。
時々その手元の革表紙の小さな帳面に何かをメモしているような気がした。
「……リリィ、こんにちは」
「……神父様、こんにちは」
すれ違うとき私たちはいつもそれだけの会話をした。
神父様、何を書いていらっしゃるんだろう。
そう思いながらも私はそれ以上深く考えなかった。
まあ、いいか。
神父様のお仕事のことだもの。
私は目の前のひとりひとりをちゃんと看ていれば、それでいいんだから。
そう自分に言いきかせて私は夕日の道を家へと急いだ。
家には毎晩お母さんの温かいシチューが暖炉の上でことこと煮えていた。
お父さんとお兄ちゃんがノートをひろげて私を待っていた。
それでもうじゅうぶんしあわせだった。
ノエルが戻ってきてくれるその日まで私はその毎日をいっしょうけんめいに生きていれば、それでよかった。
そう思っていた。
◇◇◇
そして十二歳の冬至。
ノエルがいなくなってちょうど五年目の十二月二十二日。
朝から空は薄い灰色でふわふわとした粉雪がホーニング村にしんしんと降っていた。
私は伸びた蜂蜜色の髪を青いリボンでひとつに結んで台所のちっちゃな木の椅子にちょこんと腰かけていた。
膝の上にはお母さんから受け継いだ年季の入った木の麺棒。
机の上には麦粉と卵とはちみつを混ぜ込んだふくふくとした生地。
私はその生地をちっちゃな星の形の抜き型でひとつひとつぬいていた。
お星さまのクッキー。
五年前の冬、ノエルに焼いてあげたクッキー。
暖炉の前でノエルがぜんぶ食べてくれたあのクッキー。
私はそれを毎年この日に焼いていた。
◇◇◇
「リリィ、今年もきれいに抜けたわね」
お母さんが台所の入口からしずかに微笑んだ。
「うん。お母さんの、『心のスパイス』もちゃんといれたよ」
「ふふ。よかった」
お母さんは何も訊かなかった。
誰のために焼いているのと。
それでもお母さんは毎年十二月二十二日に私が台所をひとり占めすることをしずかに許してくれていた。
たぶんぜんぶわかっているのだと思う。
オーブンに星を並べた平たい鉄板を入れる。
ぱちんぱちんと薪が弾ぜる音といっしょに。
香ばしいバターとシナモンとはちみつの匂いがふんわりと台所いっぱいに満ちていった。
私は暖炉の前にぺたんと座って両手を火にかざした。
そしてしずかに目を閉じた。
ノエル。
十六歳のお誕生日おめでとう。
実年齢、十六歳。
呪いのせいで身体はまだ止まっているのかな。
それともすこしはお元気になってちゃんと伸びているのかな。
十六歳のノエルってどんな顔しているのかな。
私の知らないノエル。
私の知らない五年間。
もうちっちゃい女の子じゃないんだよ、ノエル。
戻ってきても私のことわかってくれるかな。
胸の奥がちりちりとちっちゃく痛んだ。
けれど五年のあいだに私はもうこの痛みとしずかに暮らせるようになっていた。
涙はもうこぼれなかった。
ふっと目を開けると。
オーブンの中の星たちがほんのりきつね色に焼きあがっていた。
◇◇◇
焼きあがったクッキーはいつもの年と同じように。
お父さんとお兄ちゃんとお母さんと四人で暖炉のそばの丸テーブルに座ってわけて食べた。
「うん。リリィのクッキーは年々上手くなるなあ」
お父さんがごつごつした手で星をひとつつまみあげた。
「お母さんに似てきた。ふふ」
「お父さんてば。リリィの方がもうお母さんよりずっと上手よ」
お母さんが軽くお父さんの肩を叩いた。
お兄ちゃんがふっと笑った。
笑いながら誰のために焼いた星なのかをちゃんとわかっている目で私を見ていた。
毎年毎年。
冬至の十二月二十二日にはお星さまのクッキーを焼く。
それが私の五年間のささやかなちっちゃな儀式だった。
家族でぜんぶわけて食べる。
それでちょうどいい量だった。
リリィ・ホーニング、十二歳の冬至。
ノエルと別れて五年。
呪われた男の子の十六歳のお誕生日に私は五度目のお星さまのクッキーを家族と一緒に焼いた、その日。
家族でぜんぶわけて食べた、しずかな冬至の夜。




