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森で見つけた呪われ少年を看病していただけなのに、王太子殿下に溺愛されています  作者: 葉月晴子
第一章 呪われ少年と、ちっちゃな看病係

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第34話 ノエルが私の指に口づけて去った日

朝、私はまだ、ふわふわした、幸せの中で目を覚ました。


きのうの夜、ノエルは私の焼いた、いびつなお星さまのクッキーをぜんぶ、食べてくれた。


「来年も再来年もずっともっと上手に焼く」って、雪の積もった道で私は心に誓った。


──だから今日もいつものように。


──ノエルのところへ行こう。


お母さんが新しい薬草茶を銀の水筒にいっぱい、いれてくれた。残ったクッキーも白いレースの布でもう一度、丁寧に包んだ。


「いってきます」


「気をつけてね、リリィ」


雪はもう、止んでいた。


世界はひと晩のあいだに銀色の絨毯で覆い尽くされていた。


きらきらと朝日に反射する、新しい雪。


私はそのまっさらな雪をいちばんに踏みしめながら、軽い足どりでローゼンタール離宮へ向かった。


その朝が人生でいちばん幸せな朝のひとつだったと知るのは。


──ほんのすこし、あとのことだった。


◇◇◇



ローゼンタール離宮の門の前。


私はぴたり、と足を止めた。


見たことのない、大きな、黒塗りの馬車が雪の上に停まっていた。


四頭の白い、立派な馬。


馬車の扉には金色の――、獅子の紋章。


──、!


──、あの紋章。


──いつか、秋の日に。


──セバスチャンがこらえる顔で握りしめていた、あの封蝋と同じ。


胸の奥で何かがずきり、と嫌な音を立てた。


私は走った。


雪をけって、走った。


抱えていた、薬草の籠が揺れて、銀の水筒がかたかたと鳴った。


◇◇◇



玄関をばたん、と開けた。


セバスチャンが立っていた。


そのしわのある頬をもう、こらえきれない涙がぽろり、ぽろりと伝って、落ちていた。


「セバスチャン……?」


「ーー、リリィ、様」


セバスチャンの声はひどく、かすれていた。


「坊ちゃまがご家族のもとへお戻りになります。お元気になられたので、ーー」


──、!


──、ご家族のもとへ。


──戻る、って?


──ノエルにご家族がいたの?


頭の中がぐらり、と揺れた。


「今日? 今日、戻るの? ーー、いつ、帰ってくるの?」


セバスチャンは答えなかった。


ただ、深く深く、頭を下げた。


それが何より残酷な、答えだった。


◇◇◇



私は寝室の扉をばたん、と開けた。


ベッドはもう、整えられていた。


シーツの皺ひとつ、なかった。


ノエルはベッドではなく、窓辺に立っていた。


いつもの白い寝間着ではなかった。


黒い、長いコート。襟元には銀色の複雑な刺繍。袖口に金色の小さな飾りボタンが整然と並んでいる。


まるで絵本の挿絵のお貴族のお坊ちゃま。


──、ノエル。


──、そんな服、いつから。


「ノエル」


私の声が無様に震えた。


ノエルがゆっくりと私の方を向いた。


その青い瞳は。


夏至の太陽でも初雪の冷たさでもなく。


ただ、ただ、湖の底のような、静かな覚悟の色をしていた。


「リリィ」


「ノエル、どこに行くの? 今日、戻るの? いつ、帰ってくるの?」


ぶつけたかった言葉が堰を切ったように口からこぼれ落ちた。


ノエルはしばらく、私の顔をただ、まっすぐに見つめていた。


そして、ゆっくりと首を横に振った。


「ーー、わからない」


「えっ」


「いつ、戻れるか、ぼくにもわからない」


──、!!


世界が足元からぐにゃり、と歪んだ気がした。


「そんな、ノエル、毎日、私、来てたじゃない。明日も来るんだよ。明後日も来るんだよ。ずっと、ーー」


私の喉がひゅっ、と鳴った。


涙が勝手にぼろぼろとこぼれ始めていた。


「お薬、まだ、持ってきたの。お母さんが新しいのいれてくれたの。クッキーもまだ、残ってるの。ーー、ねえ、ノエル」


ノエルは何も答えなかった。


ただ、一歩、私に近づいた。


そして、私のちっちゃな手を両手ですくうように取った。


◇◇◇



ノエルの手はもう、氷ではなかった。


ふつうの子供の温かい手。


毎日、私が握って、温めて、ふやかして、ようやく、ここまで温かく、なった手。


──私の温度を覚えた、手。


「リリィ」


「うん」


「お前はぼくに世界のぜんぶをくれた」


「ーー、ノエル」


「冷たかった指に温度をくれた」


「うん」


「死にかけていた、ぼくに生きる、理由をくれた」


「ーー」


「ーー、だからぼくは必ず、お前のところへ戻る」


ノエルの声は低くて、震えていたけれど、いつものぶっきらぼうな声よりもずっとずっとまっすぐだった。


「ノエル」


ノエルが私の手をゆっくりと持ち上げた。


そして、自分の唇の前にもって、いった。


私のちっちゃな、人差し指の先に。


ノエルの温かい唇がそっと触れた。


ふわり、とほんの一瞬の。


私だけが知っている、温度。


──、!


頬が燃えるように熱くなった。


「ノ、ノエル……」


「ーー、忘れるな」


きのうのベッドの上でのあの言葉と同じ。


「忘れない」


私の声はもう、ほとんど、声になっていなかった。


「ぜったいにぜったいに忘れない」


「お前はぼくのものだ」


「うん」


「ぼくはお前の、ーー」


そこでノエルは言葉をのみこんだ。


何かを言いたそうにして、最後にふっと息を吐いた。


そして、もう一度、私の指に唇を触れさせた。


二度目の温度。


それははじめてのよりもほんの少しだけ、長かった。


◇◇◇



扉のところでセバスチャンがぼろぼろと泣いていた。


ノエルはゆっくりと私の手を離した。


そして、扉の方へ歩き出した。


歩き出してからもう一度だけ、振り返って、私を見た。


「リリィ」


「うん」


「お前はぼくの太陽だ」


夏至の日に青薔薇の向こうでぼそりともらしてくれた、あの言葉。


それをはっきりと口に出して、ノエルは。


私の太陽は。


行って、しまった。


◇◇◇



雪の門の外で。


ノエルは立派な黒い馬車にふわりと乗り込んだ。


馬車の扉がばたん、と閉まる。


四頭の白い馬が雪をけった。


馬車がゆっくりと動き出した。


私は追いかけようとした、けれど。


セバスチャンが私の肩をそっと両手で押さえた。


「リリィ、様。ーー、坊ちゃまをお見送り、なさいませ」


セバスチャンの声ももう、ほとんど、声になっていなかった。


私は雪の上にぺたん、と座り込んだ。


黒い馬車は雪の道をゆっくりとゆっくりと遠ざかっていった。


ノエルの黒い髪も。


青い瞳も。


ようやく温かくなった、ちっちゃな手も。


もう、見えなかった。


馬車の車輪のしゃり、しゃり、という音だけが雪の上にしんしんと消えていった。


◇◇◇



馬車が見えなくなってからしばらく、私は雪の上で動けなかった。


セバスチャンが私の隣にぺたん、と座り込んでしゃくりあげていた。


七歳の私にはなにが起きたのか、ぜんぶはわからなかった。


ーーノエルのご家族って、どこにいるの。


ーーなんでノエルがこんな、急に。


ーーきのうの夜までいっしょにクッキーを食べていたのに。


問いはいっぱい、あるのに。


答えてくれる人は私の隣でただ、泣いていた。


ただ、ひとつだけ。


──ノエルが行ってしまった。


──私の太陽が行ってしまった。


そのことだけははっきりとわかった。


私はゆっくりと空を見上げた。


灰色の空からまた、ふわり、ふわり、と新しい雪が舞い始めていた。


その雪がノエルがふたつ、口づけてくれた、私の人差し指に。


ぽつ、とひと粒、降りた。


冷たい結晶がふわっと溶けた。


──ノエルの温度がまだ、ここに残っているのに。


──ノエル。


──ノエル。


──必ず、戻ってきて。


──私、待ってるから。


──ずっとずっとずっと待ってるから。


雪がしんしんと私とセバスチャンの上に静かに降り積もっていった。



リリィ・ホーニング、七歳の冬。


呪われた男の子に薬草を運ぶ日々が止まった、その翌日。


ノエルが私の指に口づけて、去った日。


──私の太陽が空からいなくなった日。


──そして、私のいちばん、いちばん、長い、待つ、日々の始まりだった。


──第一部、完。

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