第31話 ノエルと、お庭を歩けるようになった、秋の日
夏が終わり、季節は秋になった。
ローゼンタール離宮の薔薇園は夏のあいだ咲き乱れていた花を散らし、かわりに金木犀の甘い香りが風に乗って、漂うようになった。
そして、ノエルは。
「リリィ、見ろ」
私の手も借りずに自分の足ですたすたとお庭の小道を歩いていた。
「ノエル、すごい! もう、こんなに歩けるんだ」
「当たり前だ」
ノエルはふん、と得意げに鼻を鳴らした。
──出会った頃は。
──森の中で息も絶え絶えに倒れていたノエル。
──氷みたいに冷たかった、指。
──立つこともできなかった、体。
それが今は。
落ち葉をさくさくと踏みしめて、私の隣を歩いている。
頬にはほんのり、と血の色がさして。青白かった肌はもう、健康な子供のそれだった。
「ノエル、本当にお元気になったね」
「ーー、お前のおかげだ」
ぼそりとそう言って、ノエルはぷいっと顔を背けた。
落ち葉の上に二人ぶんの影が並んで伸びていた。
◇◇◇
お庭のベンチに二人で腰かけた。
金木犀の香りがふわり、と鼻をくすぐる。
「ノエル、この匂い、好き?」
「ーー、悪くない」
「ふふ、ノエルの『悪くない』は、『好き』って、ことだもんね」
「うるさい」
ノエルの耳がほんのり、赤くなる。
私たちはしばらく、何も言わずに秋の空を見上げていた。
高く、高く、澄んだ、青い空。
──ずっとこうしていられたら、いいな。
──ノエルと毎日、薬草を摘んで絵本を読んでお庭を歩いて。
──ずっとずっとこんな日が続けば、いいな。
その時の私はまだ、知らなかった。
そんな、当たり前の毎日が永遠じゃ、ないことなんて。
◇◇◇
その日の帰り際。
玄関でセバスチャンが一通の手紙を手に立ち尽くしていた。
「セバスチャン?」
声をかけてもセバスチャンはすぐには気づかなかった。
その手紙には見たこともない、立派な封蝋が押されていた。
金色の獅子の紋章。
「セバスチャン、それ、なに?」
セバスチャンははっと顔を上げた。
そして、いつもの優しい笑顔を作った。
けれど、その笑顔はなんだか、無理をしているように見えた。
「ーー、なんでもございませんよ、リリィ様」
「ほんと?」
「ええ。お気をつけて、お帰りなさいませ」
──セバスチャン。
──いつもすぐ泣く、おじいちゃん。
──今日は泣くのをぐっとこらえているような、顔をしていた。
なぜだろう。
胸の奥にちくり、と小さな棘が刺さったような、気がした。
◇◇◇
帰り道。
秋の夕日が長い影を地面に落としていた。
金木犀の香りがまだ、髪に残っている。
ふと振り返ると二階の窓にノエルの影が見えた。
私が手を振るとノエルもちゃんと手を振り返してくれた。
──ふふ。
──また、明日。
──明日も明後日もずっとノエルに会いに行く。
そう、信じて、疑わなかった。
あの金色の獅子の紋章が何を意味するのか。
それを知るのはもう少し、先の冬のこと。
リリィ・ホーニング、七歳の秋。
呪われた男の子に薬草を運ぶ日々、約五ヶ月。
ノエルが自分の足でお庭を歩けるようになった日。
──そして、遠い場所から見えない手が静かに伸び始めた日。




