番外編 セバスチャン視点 「ホーニング家の皆様が、ご訪問くださった日」
その日のリリィ様は、いつもより、ほんの少しだけ緊張したご様子でいらした。
「セバスチャン様、あのね、これ、お母さんから」
ちっちゃな手から差し出されたのは、一通の白い封筒だった。受け取って、表書きに目を落とした瞬間、私の足は、ぴたりと止まった。
『セバスチャン様 御侍史』
——御侍史。
それは、貴族の間で用いられる、最も丁寧な脇付けである。市井の薬草師の奥方が、何気なくお使いになるようなものでは、断じてない。
「リリィ様、有り難く頂戴いたします」
「うん!」
リリィ様は、ぴょこっとお辞儀をすると、いつものように坊ちゃまのお部屋へ駆けていかれた。ご自分が今、どれほどのものをお運びになったのか、まるでお気づきでないご様子で。
◇◇◇
応接間に戻り、封を切った。
中の便箋は、上質な白い紙だった。開いた途端、ほのかな薬草の香りが立ちのぼる。文字は、流れるように美しい書体で綴られていた。
『お初に、お便りを差し上げます。
ホーニング家のエマと申します。
娘リリィが、いつもお館の坊ちゃまにお世話になっておりますこと、心より御礼申し上げます。
つきましては、家族一同にてご挨拶に伺いたく、ご都合のよろしき日をお教えいただければ幸いに存じます。お返事は、リリィにお託しくださいませ。
急なお便りにて失礼を、何卒お赦しくださいませ。
ホーニング家 エマ』
私は、便箋を握ったまま、しばらく動けなかった。
これは——ただの薬草師の奥様が書かれる手紙ではない。
御侍史の脇付け。便箋の品。書体の流麗さ。そして、貴族の作法を寸分違えず踏まえた、文面の構え。
長く王家にお仕えし、数えきれぬほどの貴婦人方のお手紙を拝見してきた、この老いた目で見ても、エマ様のお手紙には、申し分のない気品が滲んでいた。
私は机に向かい、丁寧に筆を執った。来週の水曜、午後にお越しいただけるなら、茶を用意してお待ち申し上げる——そうしたためた返書を封じ、リリィ様のお帰りの際にお渡しした。
「お母様に、お渡しくださいませ」
「うん! 何のお返事?」
「ふふ。お母様が、お分かりになりますよ」
リリィ様は、やはり何もご存じないご様子で、ぴょこぴょこと跳ねるようにお帰りになった。
その後ろ姿を見送りながら、私の胸の内では、長年の勘が、静かにざわついていた。——エマ様は、いったい、どのようなご経歴をお持ちの方なのか、と。
◇◇◇
約束の水曜日。
午後の陽が、玄関に柔らかく差し込む頃、馬車の車輪の音が近づいてきた。
息を整え、扉を開ける。降り立たれたのは、三人のお方だった。お父様、お母様、そして、若きご兄上のエリック様。
その瞬間、私の目は、思わず釘付けになった。
お父様の佇まい。背筋の通り方が、まるで長年、剣を握ってこられた方のようだった。平民の薬草師と仰るが、これは——。
お母様のお辞儀。首の傾け方が、王宮の貴婦人と見紛うほどに、見事だった。
エリック様のご挨拶。お若いのに、語り口は落ち着いている。薬師見習いと仰るが、その目には、医師の才がはっきりと滲んでいらした。
——ホーニング家の皆様は、何か、お隠しになっていらっしゃるのではないか。
けれど、私は何も申し上げなかった。長く仕えた執事は、口を噤むことを心得ている。
◇◇◇
応接間にご案内し、茶を出した。
「セバスチャン様、本日は、お忙しいところお時間を頂戴し、有り難く存じます」
エマ様のお声は、お手紙の文字と同じく、上品な響きを湛えていらした。
「いえ、こちらこそ。リリィ様には、坊ちゃまが計り知れぬほどお救いをいただいております」
「ふふ。リリィは、毎日、お館の坊ちゃまのお話で、夢中なのですよ」
ふっと優しく微笑まれる、その笑顔の、なんと品のよろしいこと。
お父様も、ぼそりと口を開かれた。
「坊ちゃまには、これからも、リリィのお友達でいていただきたく」
低く、しっかりとしたお声だった。その言葉の、誠実な響き。間違いなく、私が長年お仕えしてきた方々と、同じ気品である。
◇◇◇
ご一家を、坊ちゃまのお部屋へご案内した。
坊ちゃまは、ベッドの脇の椅子に座って、緊張したご様子でお待ちになっていた。
「こ、こんにちは」
ぼそりと、消え入りそうなご挨拶。
エマ様は、坊ちゃまの小ささに合わせて膝を折り、そっと目線を合わせられた。
「ノエル様。お初にお目にかかります。リリィを、いつも可愛がってくださって、ありがとうございます」
坊ちゃまの青い瞳が、ぱちん、と見開かれた。
——坊ちゃまは、長いこと、誰からも優しい言葉をかけられてこなかった。母上様にも、父上様にも、長らくお会いになれぬまま。見知らぬ方から、こんなにも温かな声で話しかけられるのは、おそらく、初めてのご経験なのだ。
坊ちゃまの瞳が、みるみる潤んでいく。
「……ありがとう、ございます」
その、震える小さなお声に、私の目からも、いつのまにか涙がこぼれていた。
エリック様も、坊ちゃまを丁寧に診てくださった。
「ノエル様。お体は、本当によくなっていらっしゃいます。リリィの薬と、祈りのおかげかと」
「……別に」
いつもの「別に」。けれど、坊ちゃまのお耳は、もう真っ赤だった。エリック様も、笑いをこらえていらっしゃった。
◇◇◇
お帰りの時間。
馬車にお乗りになる前、私は深く頭を下げた。
「本日は、お運びくださり、本当に、有り難うございました。坊ちゃまに、こんなにも温かいご縁が——」
その先を続けようとして、声が震え、出なくなった。
すると、エマ様が、そっと私の手を握ってくださった。
「セバスチャン様。ノエル様のことを、これからも、どうかよろしくお願い申し上げます」
「……勿論で、ございます」
馬車は、夕陽の中へ、静かに消えていった。
◇◇◇
その夜、坊ちゃまのお部屋に茶をお持ちすると、坊ちゃまは窓辺の椅子に座って、暮れていく空を見つめていらした。青い瞳は、まだ、ほんのり潤んでいる。
「セバスチャン」
「はい、坊ちゃま」
「リリィの母上は……温かい人、だった」
「……はい、坊ちゃま」
「ぼくにも、母上は、いるけれど」
お声が、震えた。
「もう、長らく、お会いになれていない」
私の胸が、ぎゅっと痛んだ。
「坊ちゃま。いつか必ず、母上様にお会いになれる日が、参ります」
「……来るかな」
「参ります」
根拠は、何ひとつ、ない。それでも私は、言い切った。長年の勘が、囁いていたのだ。——ホーニング家の皆様は、坊ちゃまの運命を、大きくお変えになるのではないか、と。
◇◇◇
坊ちゃまがお眠りになった後。
私は書斎に戻り、エマ様のお手紙を、もう一度開いた。
『ホーニング家 エマ』。
——エマ様は、いったい、どこのお血筋の方なのか。
問うてはならぬ、という気がした。長く仕えた執事は、お主のお血筋に立ち入らぬことを心得ている。エマ様が平民として暮らしていらっしゃるなら、それには、きっと深いご事情がおありなのだ。
ただ、坊ちゃまとリリィ様のご縁を、見守るだけでいい。
私は、お手紙を丁寧に折り、引き出しの奥にしまった。
いつの日にか、この一通が、何か大切な証になる——そんな気が、ふと、したのだった。
ーーセバスチャン・モリス、ローゼンタール離宮、執事。
坊ちゃまにお仕えして、もう六年とすこし。
ホーニング家の皆様が、初めてご訪問くださった、忘れがたい日。




