第22話 ノエルが、母上の青薔薇を見せてくれた日
その日は本当にいいお天気だった。
青い青い、空。
薔薇のいい、香り。
鳥の楽しそうな、声。
こんな日にノエル、お部屋にいるのもったいない。
私はローゼンタール離宮の寝室でノエルを見つめた。
「ノエル、今日、お庭、出ない?」
「……」
ノエルの目が揺れた。
約束していた、お庭。
雨の日にいつか一緒に出ようね、って。
「外、出たことない」
「うん、知ってる」
「怖い」
……!
ノエル、初めて「怖い」って、言ってくれた。
いつもツンツンしていたノエルが本心を言ってくれた。
「ノエル、私が一緒にいるから」
「……」
「私の手、握っていいよ」
私はノエルの手を両手で握った。
ノエルの手はもう、ぜんぜん、冷たくなかった。
◇◇◇
セバスチャンが寝室の扉から覗いた。
「リリィ様、坊ちゃま、お庭にお出になるのですか」
「うん、出てみたいって」
私がノエルの代わりに答えた。
ノエルは無言で頷いた。
「坊ちゃま、本当によろしゅうございました」
セバスチャンの目がまた、潤んだ。
もう、泣くの早すぎ。
けど、嬉しいよね、セバスチャン。
「お庭のご準備をいたします」
セバスチャンが急いで出ていった。
◇◇◇
ローゼンタール離宮の大きな玄関の扉がゆっくりと開いた。
初夏の暖かい風がふわり、と私たちを包んだ。
「外、こんなに、ーー」
ノエルは足を止めた。
玄関の敷石を見つめた。
まだ、外に出ていない。
足が震えていた。
「ノエル、ゆっくりでいいよ」
「……」
ノエルはぎゅっと私の手を握った。
そして、小さな足がゆっくりと外に踏み出した。
……!
ノエル、外に出た。
十年間、出たことのない、外。
「……」
ノエルの目がまるくなった。
頬を初夏の風が撫でた。
艶やかな黒髪がふわり、と揺れた。
青い瞳が空を見上げた。
「青、だ」
「うん、青空」
「こんなに青いのか」
「うん、毎日、こんな色」
「……」
ノエルの目尻に僅かに涙がにじんだ。
ノエル、初めての青空。
十年間、本でしか、知らなかった、青空。
胸がぎゅっと痛んだ。
◇◇◇
私たちはお庭の薔薇の前に立った。
白い薔薇。
ピンクの薔薇。
赤い薔薇。
「ノエル、これ、白い薔薇」
「本物、だ」
「うん、本物」
「香り、するのか」
「うん、嗅いでみて」
私は白い薔薇の一輪を優しく、ノエルの鼻に近づけた。
ノエルは目を閉じて、深く、息を吸った。
「いい、香り、だ」
「うふふ、でしょー」
「本ではわからなかった」
ノエルの目がぱあっ、と輝いた。
ノエル、嬉しそう。
初めてのお庭でこんなに嬉しそう。
もっともっと世界を見せてあげたい。
いっぱい、嬉しいことを経験してほしい。
私の目からもなぜか、涙がこぼれた。
「リリィ?」
「うん、ノエル、嬉しくて」
「お前は変な奴、だな」
ふふ。
出た、変な奴。
けれど、ノエルの声はもう、刺じゃなかった。
優しさがにじんでいた。
◇◇◇
「リリィ」
「うん?」
ノエルがそっと赤い薔薇に手をのばした。
「ノエル、自分で取れるの?」
「これくらい、平気だ」
ノエル、ちょっと得意げ。
ふふ、可愛い。
と。
「いっ」
ノエルの指がぴくっと跳ねた。
「ノエル!?」
ノエルの白い指先に、ぷくっと赤い玉が浮いた。
棘が刺さったんだ。
「血、出てる」
考えるより先に、体が動いた。
私はノエルの手をつかんで、その指先をぱくっと口に含んでいた。
ちゅっ、と血を吸う。
「ーー!?」
ノエルの顔が、ぼっと真っ赤になった。
耳まで、首まで、真っ赤。
「お、お前、なにを」
「んー? バイキン、吸い出してるの」
「は、離せ、離せってば」
ノエルがじたばたした。
「だめ、ちゃんと出しきってから」
「だいたい、お前の口のバイキンが、ぼくの傷に入るだろう」
……!
「あ」
そっか。
私の口にも、バイキン、いるかも。
「……えへへ、もう、吸っちゃったもん」
「お前という奴は」
ふふ。
ノエル、すごく慌ててる。
可愛い。
◇◇◇
私はノエルの指から口を離した。
「はい、もう、だいじょーぶ」
「……」
と。
私はノエルの指先を見て、ぱちぱち、とまばたきした。
あれ。
「血、止まってる」
さっきまでぷっくり血が出ていた指先。
それが、つるん、ときれいになっていた。
棘の刺さった跡も、もうない。
「ノエル、痛いの、なくなった?」
「……なくなった」
ノエルも自分の指をふしぎそうに見ていた。
「変なの。私、舐めただけなのに」
「……ぼくにも、わからない」
ノエルが小首をかしげた。
ふふ。
なんでだろう。
ま、いっか。
ノエルの痛いの、治ったから、それでいい。
◇◇◇
お庭のすみに、ひときわ目をひく一画があった。
青みがかった、薄いラベンダー色の薔薇。
ノエルの瞳と、同じ色。
「ノエル、あれ」
私が指さすと、ノエルの足がぴたりと止まった。
青い瞳がその薔薇に吸い寄せられていく。
「……青薔薇」
「うん。前にお部屋に飾った、あれと同じだね」
この青薔薇はノエルのお母さんが特に好きだった、珍しい薔薇。
前にセバスチャンが、そう教えてくれた。
ノエルはふらりと青薔薇に近づいた。
そっと花びらに指を触れる。
「母上が」
「母上が、育てた薔薇だ」
……!
ノエルのお母さん。
長いこと会えていない、お母さん。
ノエルの声が震えていた。
「ぼくが小さい頃、母上はよくここで、この薔薇を切っていた」
「ぼくを膝にのせて、絵本を読んでくれた」
ノエルの声はいつもよりずっと静かだった。
「でも、もう会えない」
「どうして?」
私はそっと聞いた。
ノエルはしばらく黙っていた。
そして膝の上できゅっと手を握った。
「ぼくの呪いが、母上にうつったんだ」
……!
「ぼくが生まれてすぐ、母上は倒れた」
「ずっと目を覚まさない」
「みんな言うんだ。ぼくの呪いのせいだって」
ノエルの肩が小さく震えていた。
「ぼくが、母上を……」
ノエルはそこで言葉を飲み込んだ。
青い瞳に涙がいっぱいたまっていた。
これが、ノエルの秘密。
ずっとひとりで抱えてきた、秘密。
お部屋から出られなかったのは呪いのせいだけじゃ、なかった。
自分のせいで母上が倒れた、っていう重たい気持ち。
それをずっと、たったひとりで。
胸がぎゅうっと苦しくなった。
◇◇◇
「ノエル」
私はノエルの手を両手で包んだ。
「ノエルのせいじゃないよ」
「でも」
「ノエルは何も悪くない」
「赤ちゃんが生まれてお母さんが病気になるなんて、ノエルのせいなわけない」
「……」
「きっと、別の理由があるよ」
ノエルは私を見た。
涙でぬれた青い瞳。
「ほんとうに、そう思うか」
「うん。ぜったい」
私は大きく頷いた。
「それにね、ノエル」
「お母さんが目を覚ましたら、いちばんに会いたいのはノエルだよ」
「……」
「だってノエルは、お母さんの大切な子供だもん」
ずっとこらえていた涙が、ノエルの頬をぽろっと伝った。
私はその涙をそっと指でぬぐった。
「いつか、ぜったいお母さんに会えるよ」
「私もいっしょにお祈りする」
「毎日毎日、お祈りするから」
「……リリィ」
ノエルが私の手をぎゅっと握り返した。
何も言わなかった。
でも、その手がぜんぶ伝えてくれた。
◇◇◇
帰り際、ノエルは私の手を握ったまま、ぼそっとつぶやいた。
「リリィ、ありがとう」
……!
ノエル、「ありがとう」って、言った。
初めて、聞いた。
「うふふ、また明日もお庭、出ようね」
「考えておく」
ふふ。
絶対、出るって、意味。
私にはわかる。
ノエルの小さな手が私の手をぎゅっと握り続けた。
お庭の薔薇が二人を優しく、見守っていた。
リリィ・ホーニング、六歳の初夏。
呪われた男の子に薬草を運ぶ日々、約二ヶ月。
ノエルが初めて、お庭に出た日。




