第20話 ノエルが、私に絵本を読んでくれるようになった日
ノエルの頬に、ほんのり、と血色が戻ってから。
私とノエルの関係は、ちょっとずつ、変わっていった。
ノエルは、もう、ベッドの上に、ずっといるわけじゃ、なくなった。
立ち上がれる。
応接間まで、歩ける。
お庭の薔薇を、窓から、眺められる。
──ふふ。
──ノエル、お元気に、なっている。
◇◇◇
その日も、私は、いつものように、ローゼンタール離宮の、二階の窓を見上げた。
ノエルの影が、見えた。
「ノエルーーー、おはよう」
──と。
ノエルのちっちゃな手が、ぴょこっ、と、上がった。
振ってくれた。
──ふふ。
──ノエル、もう、手を振るのが、すっかり、上手になった。
◇◇◇
寝室に入ると、ノエルは、ベッドの上に座って、何かを、抱えていた。
「ノエル、こんにちは」
「こんにちは」
「あれ、それ、なに?」
ノエルの手の中には、ちょっと古くて、けれど、綺麗に装丁された絵本が、あった。
「絵本、だ」
「うふふ、見ればわかるよ」
「ふん」
──ふふ。
──ノエル、何を、急に、絵本を、抱えているの。
「ぼくが、子供の頃に、好きだった、絵本」
「ふんふん」
「ーー」
ノエルは、何か、もごもご、と、言いかけて、やめた。
──あれ。
「ノエル?」
「別に」
──ふふ。
──ノエル、何か、言いたいけど、言えないみたい。
──なんだろう。
◇◇◇
私は、いつものように、薬草籠から、竹の水筒を取り出した。
「お母さんが、煎じてくれた、薬草茶、持ってきた」
「ふん」
「飲んでみて」
ノエルは、両手で受け取って、ゆっくり、と口に運んだ。
こく、こく、と、喉が動く。
すっかり、慣れた、ノエルのお薬の時間。
「ノエル、最近、お元気になって、嬉しいな」
「別に」
──出た、別に。
──ノエルの、口癖。
ふふ。
──と。
ノエルが、ぼそりと、呟いた。
「リリィ」
──、!
──私の名前。
──ノエル、最近、私の名前を呼ぶのが、ちょっとずつ、増えてきた。
「うん?」
「絵本、読んでも、いいか」
──、!
──ノエル、絵本、自分から、読みたい、って?
胸の奥が、ぼっ、と熱くなった。
「うん、読んで読んで」
「別に、ぼくが、読みたい、わけじゃ、ない」
「えへへ、私が、聞きたいって、言ったから、ね?」
「まあ、そういうことに、しておけ」
──ふふ。
──ノエル、絵本、私に、読みたかったんだ。
──可愛い。
◇◇◇
ノエルは、ベッドの上で、姿勢を、ぴしっ、と、正した。
絵本を、両手で、開いた。
そして、ぼそぼそ、と、読み始めた。
「昔々、ある所に、お姫様が、住んでいました」
──わぁ。
──ノエルの声で、聞く、絵本。
──なんだか、嬉しい。
私は、ノエルのベッドの脇に、ぺたん、と、座って、じっと、聞いた。
「お姫様は、いつも、お城の塔の上で、窓の外を、見つめていました」
ノエルの声は、最初は、ちょっと、小さくて、ぼそぼそしている。
けれど、聞いている私には、ぜんぜん、聞き取りにくくない。
なんでだろう。
ノエルの声、心地よい。
──温かいお湯に、浸かっているような気持ちに、なる。
「ある日、お姫様の城に、一人の騎士が、訪れました」
「騎士は、お姫様を見て、一目で、心を、奪われました」
ノエルの声に、少しずつ、感情が、こもっていく。
──ノエル、絵本、好きなんだ。
「けれど、お姫様には、呪いが、ありました」
──、!
──呪い。
──ノエルの、呪いと、同じ。
私は、ノエルの顔を、ちらっ、と、見た。
ノエルは、絵本に、集中していた。
けれど、その目が、ちょっとだけ、寂しそうに、見えた。
「騎士は、お姫様の呪いを、解こうと、毎日、お城に通って、ーー」
──、と。
ノエルの声が、ふっと、止まった。
「ーー」
「ノエル?」
「ーー」
ノエルは、絵本を、ぎゅっ、と、抱きしめて、ぼそりと、呟いた。
「お姫様は、騎士の優しさで、呪いが、解けた」
胸が、ぎゅっ、と、痛んだ。
──ノエル、自分の呪いと、重ねている。
──ノエル、私の優しさで、呪いが解ければ、いいな、って。
──思っているのかな。
私は、ノエルの、絵本を抱きしめているちっちゃな手に、自分の手を、そっと、重ねた。
「ーー」
ノエルは、何も言わなかった。
けれど、ノエルの手が、私の手を、ぎゅっ、と、握り返してくれた。
◇◇◇
「リリィ」
「うん?」
「続き、読むぞ」
「うん、お願いします」
ふふ。
ノエル、絵本、最後まで、読んでくれる。
ノエルの声が、また、ぼそぼそ、と、続く。
「お姫様と、騎士は、いつまでも、幸せに、暮らしました」
「めでたし、めでたし」
絵本が、閉じた。
──ふぁ。
──いい、お話、だった。
「ノエル、ありがとう」
「別に」
「うふふ、ノエルの声、すごく、心地良かった」
「ーー」
ノエルの耳が、また、真っ赤になっていた。
──ふふ。
──可愛い。
「リリィ」
「うん?」
「明日も、ーー、読んでも、いいぞ」
──、!
──ノエル、明日も?
「うん、絶対、聞きに来る」
「別に、ぼくが、読みたい、わけじゃ、ない」
「えへへ、はいはい」
「ーー」
ふふふ。
──ノエル、絵本、本当は、私に、読みたいんでしょ。
──私には、もう、わかる。
◇◇◇
その時、扉が、開いた。
セバスチャンが、銀のお盆を、抱えて、入ってきた。
「坊ちゃま、紅茶を」
──と、セバスチャンが、ノエルの手の中の絵本を、見て、ふっ、と、足を、止めた。
「坊ちゃま、その絵本は」
「ーー」
ノエルは、ぷいっと、顔を背けた。
「リリィに、読み聞かせていた、それだけだ」
「坊ちゃま」
セバスチャンの目に、また、涙が、にじんでいた。
──また、泣いてる。
──セバスチャン、ちょっとしたことで、泣くんだから。
「坊ちゃまが、絵本を、ご自分から、読まれるなど、本当に、初めて、ございます」
──、!
──本当に?
──ノエル、誰にも、絵本を、読んだこと、ない?
私は、ノエルの顔を、見つめた。
ノエルは、ぷいっと、顔を背けたまま、ぼそりと、呟いた。
「誰にも、読まなかった」
「リリィ、だから」
「リリィに、だけ、読みたかった」
──、!!
──胸の奥が、跳ねた。
ノエル、私に、だけ、絵本、読んでくれたんだ。
──私だけの、特別な時間。
「ノエル、ありがとう」
「別に」
ふふ。
──出た、別に。
──けれど、嬉しい。
──世界一、嬉しい。
◇◇◇
帰り道。
夕焼けが、いつもより、優しい橙色に、見えた。
私は、空の籠を、ぶんぶん、と振りながら、歩いた。
ノエルの声。
絵本を読んでくれた、ノエル。
私だけの、特別な時間。
──ふふ。
──なんだか、胸の中が、ぽかぽかして、仕方なかった。
ふと、振り返ると、二階の窓に、ノエルの影が、見えた。
──ふふ。
また、見送ってくれている。
私は、両手を、ぶんぶん、と振った。
ノエルのちっちゃな手も、ぴょこっ、と上がった。
──明日も、絶対、行く。
──ノエルの絵本、また、聞かせてもらう。
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子に、薬草を毎日、運ぶ日々、一ヶ月と数日。
ノエルが、私にだけ、絵本を読んでくれた、特別な日。




