第20話 ノエルが、私に絵本を読んでくれるようになった日
ノエルの頬にほんのり、と血色が戻ってから。
私とノエルの関係はちょっとずつ、変わっていった。
ノエルはもう、ベッドの上にずっといるわけじゃ、なくなった。
立ち上がれる。
応接間まで歩ける。
お庭の薔薇を窓から眺められる。
ふふ。
ノエル、元気になってる。
◇◇◇
その日も私はいつものようにローゼンタール離宮の二階の窓を見上げた。
ノエルの影が見えた。
「ノエルーーー、おはよう」
と。
ノエルのちっちゃな手がぴょこっ、と上がった。
振ってくれた。
ふふ。
ノエル、もう、手を振るのがすっかり、上手になった。
◇◇◇
寝室に入ると私はまず、薬草籠から青い表紙の絵本をそっと取り出した。
星空とちっちゃな船の絵。
銀色の星屑が散らばった、あの絵本。
前にノエルが貸してくれた、いちばん大切な絵本。
「ノエル、これ、返しに来たよ」
「……」
「ぜんぜん、汚してないよ。宝物みたいに大事にしたから」
私は両手で絵本をノエルに差し出した。
ノエルは青い瞳でそれをじっと見て、ゆっくりと受け取った。
「ふん。当たり前だ」
ふふ。
ノエル、ほっとした顔してる。
◇◇◇
「あのね、ノエル」
「なんだ」
「私、この絵本、お母さんに読んでもらったの」
「夜に、お母さんとふたりで、何度も読んだの」
「……そうか」
「星の海をお船でわたる男の子のお話、すごく、すてきだった」
ノエルの耳のふちがじわっと染まった。
「それでね、ノエル」
私は胸をはった。
「私、字、読めるようになったんだよ」
「……」
ノエルの目がまるくなった。
「前は字が読めないって言ったでしょ。でも、この絵本があったから」
「お母さんと毎晩、いっしょに字をおいかけたの」
「そしたら、いつのまにか、ひとりでも読めるようになってた」
「……」
ノエルは何も言わなかった。
けれど、その青い瞳がゆれていた。
「だからね、ノエル」
私はにっこり笑った。
「ありがとう。ノエルの絵本のおかげだよ」
「別に。ぼくは貸しただけだ」
「うふふ、それでも、ありがとう」
ノエルはぷいっと顔を背けた。
けれど、その口元がちょっとだけ、ゆるんでいた。
◇◇◇
「リリィ」
「うん?」
「お前、絵本、好きか」
「うん、大好き」
私が即答すると、ノエルはちょっと迷うような顔をした。
そして、本棚に手をのばした。
ちっちゃな手で一冊の絵本を引き出す。
ちょっと古くて、けれど、綺麗に装丁された絵本。
「ぼくが子供の頃に好きだった、絵本」
「ふんふん」
「……」
ノエルは何か、もごもご、と言いかけて、やめた。
あれ。
「ノエル?」
「別に」
ふふ。
ノエル、何か、言いたいけど、言えないみたい。
なんだろう。
◇◇◇
私はいつものように薬草籠から竹の水筒を取り出した。
「お母さんが煎じてくれた、薬草茶、持ってきた」
「ふん」
「飲んでみて」
ノエルは両手で受け取って、ゆっくりと口に運んだ。
こく、こく、と喉が動く。
すっかり、慣れた、ノエルのお薬の時間。
「ノエル、最近、元気になって、嬉しいな」
「別に」
出た、別に。
ノエルの口癖。
ふふ。
と。
ノエルがぼそりと呟いた。
「リリィ」
……!
私の名前。
ノエル、最近、私の名前を呼ぶのがちょっとずつ、増えてきた。
「うん?」
「絵本、読んでもいいか」
……!
ノエル、絵本、自分から読みたい、って?
胸の奥がぼっ、と熱くなった。
「うん、読んで読んで」
「別にぼくが読みたい、わけじゃ、ない」
「えへへ私が聞きたいって、言ったからね?」
「まあ、そういうことにしておけ」
ふふ。
ノエル、絵本、私に読みたかったんだ。
可愛い。
◇◇◇
ノエルはベッドの上で姿勢をぴしっ、と正した。
絵本を両手で開いた。
そして、ぼそぼそ、と読み始めた。
「昔々、ある所にお姫様が住んでいました」
わぁ。
ノエルの声で聞く、絵本。
なんだか、嬉しい。
私はノエルのベッドの脇にぺたん、と座って、じっと聞いた。
「お姫様はいつもお城の塔の上で窓の外を見つめていました」
ノエルの声は最初はちょっと小さくて、ぼそぼそしている。
けれど、聞いている私にはぜんぜん、聞き取りにくくない。
なんでだろう。
ノエルの声、心地よい。
温かいお湯に浸かっているような気持ちになる。
「ある日、お姫様の城に一人の騎士が訪れました」
「騎士はお姫様を見て、一目で心を奪われました」
ノエルの声に少しずつ、感情がこもっていく。
ノエル、絵本、好きなんだ。
「けれど、お姫様には呪いがありました」
……!
呪い。
ノエルの呪いと同じ。
私はノエルの顔をちらっ、と見た。
ノエルは絵本に集中していた。
けれど、その目がちょっとだけ、寂しそうに見えた。
「騎士はお姫様の呪いを解こうと毎日、お城に通って、ーー」
と。
ノエルの声がふっと止まった。
「……」
「ノエル?」
「……」
ノエルは絵本をぎゅっと抱きしめて、ぼそりと呟いた。
「お姫様は騎士の優しさで呪いが解けた」
胸がぎゅっと痛んだ。
ノエル、自分の呪いと重ねている。
ノエル、私の優しさで呪いが解ければ、いいな、って。
思っているのかな。
私はノエルの絵本を抱きしめているちっちゃな手に自分の手をそっと重ねた。
「……」
ノエルは何も言わなかった。
けれど、ノエルの手が私の手をぎゅっと握り返してくれた。
◇◇◇
「リリィ」
「うん?」
「続き、読むぞ」
「うん、お願いします」
ふふ。
ノエル、絵本、最後まで読んでくれる。
ノエルの声がまた、ぼそぼそ、と続く。
「お姫様と騎士はいつまでも幸せに暮らしました」
「めでたし、めでたし」
絵本が閉じた。
ふぁ。
いい、お話、だった。
「ノエル、ありがとう」
「別に」
「うふふ、ノエルの声、すごく、心地良かった」
「……」
ノエルの耳がまた、真っ赤になっていた。
ふふ。
可愛い。
「リリィ」
「うん?」
「明日も読んでもいいぞ」
……!
ノエル、明日も?
「うん、絶対、聞きに来る」
「別にぼくが読みたい、わけじゃ、ない」
「えへへはいはい」
「……」
ふふふ。
ノエル、絵本、本当は私に読みたいんでしょ。
私にはもう、わかる。
◇◇◇
その時、扉が開いた。
セバスチャンが銀のお盆を抱えて、入ってきた。
「坊ちゃま、紅茶を」
とセバスチャンがノエルの手の中の絵本を見て、ふっと足を止めた。
「坊ちゃま、その絵本は」
「……」
ノエルはぷいっと顔を背けた。
「リリィに読み聞かせていた、それだけだ」
「坊ちゃま」
セバスチャンの目にまた、涙がにじんでいた。
また、泣いてる。
セバスチャン、ちょっとしたことで泣くんだから。
「坊ちゃまが絵本をご自分から読まれるなど、本当に初めて、ございます」
……!
本当に?
ノエル、誰にも絵本を読んだことない?
私はノエルの顔を見つめた。
ノエルはぷいっと顔を背けたまま、ぼそりと呟いた。
「誰にも読まなかった」
「リリィ、だから」
「リリィにだけ、読みたかった」
……!!
胸の奥が跳ねた。
ノエル、私にだけ、絵本、読んでくれたんだ。
私だけの特別な時間。
「ノエル、ありがとう」
「別に」
ふふ。
出た、別に。
けれど、嬉しい。
世界一、嬉しい。
◇◇◇
帰り道。
夕焼けがいつもより優しい橙色に見えた。
私は空の籠をぶんぶん、と振りながら、歩いた。
ノエルの声。
絵本を読んでくれた、ノエル。
私だけの特別な時間。
ふふ。
なんだか、胸の中がぽかぽかして、仕方なかった。
ふと振り返ると二階の窓にノエルの影が見えた。
ふふ。
また、見送ってくれている。
私は両手をぶんぶん、と振った。
ノエルのちっちゃな手もぴょこっ、と上がった。
明日も絶対、行く。
ノエルの絵本、また、聞かせてもらう。
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子に薬草を毎日、運ぶ日々、一ヶ月と数日。
ノエルが私にだけ、絵本を読んでくれた、特別な日。




