第10話 お兄ちゃんが、ノエル様を診察してくれた日
ノエル様と、お友達になってから(私が勝手にそう思っているだけだとしても)、私の毎日は、もっと、もっと、楽しくなった。
毎朝、ローゼンタール離宮へ向かう、足が、軽い。
二階の窓で、手を振ってくれるノエル様を、見るのが、嬉しい。
「リリィ」と呼んでくれる声を、聞くのが、ーー、たまらない。
◇◇◇
そんなある日。
その日、お兄ちゃんが、隣町の学校から、村に帰ってきていた。
お兄ちゃん──エリック・ホーニング。
私より、八つ年上の、十四歳。
隣町の学校で、学問と、薬師の修行を、両方やっている。
村でも、「エリックは末は立派な薬師様だ」と評判の、自慢のお兄ちゃんだった。
朝ごはんの席で、私は、おずおずと、切り出した。
「お兄ちゃん」
「なんだ、リリィ」
「あのね、ーー、お願いが、あるの」
「うん」
「ーー、ノエル様を、ーー、診てほしいの」
お兄ちゃんは、スプーンを置いて、私を見た。
「その、ノエル様、というのは、ーー、お前が、毎日通っている、館の」
「うん」
「リリィ」
「うん?」
「お前、本当に、毎日、楽しそうだな」
「えへへ」
お兄ちゃんは、ふっ、と笑った。
「いいぞ。今日は、休みだ。一緒に行ってやる」
「ほんと?」
「薬師の見習いとして、ちゃんと、診てやる」
──、わぁい。
◇◇◇
村を抜けて、森を抜けて、ローゼンタール離宮へ。
お兄ちゃんは、私の薬草籠を、ひょい、と担いでくれた。
「リリィ。その、ノエル様という子は、ーー、どんな子だ」
「あのね、ーー、最初は、ツンツンしてたの」
「ツンツン」
「『来るな』とか、『放せ』とか、いっぱい、言うの」
「ふは」
「でもね、本当はね、ーー、すっごく、優しいの」
「ふん」
「耳がね、真っ赤になるの。わかりやすいの。あとね、『別に』って言うときは、だいたい、嬉しいとき、なの」
「リリィ」
「うん?」
「お前は、ーー、人のいいところを、見つけるのが、本当に、上手だな」
──ふふ。
お兄ちゃんに褒められると、ちょっとだけ、くすぐったい。
◇◇◇
離宮の門の前。
呼び鈴を鳴らすと、セバスチャンが出てきた。
「リリィ様、ようこそ──、おや」
セバスチャンは、お兄ちゃんを見て、目を丸くした。
「もしや、ーー、あの日の、ご兄上では」
「はい。エリック・ホーニングです。あの日は、ご挨拶も、できませんで」
──、あの日。
お兄ちゃんが、倒れたノエル様を、館まで運んでくれた、日。
「坊ちゃまを、お運びくださった、ーー、あの日の、ご恩人」
セバスチャンの目に、じわ、と、涙がにじんだ。
──、ふふ。
セバスチャン、また、泣いている。
◇◇◇
寝室の扉を開けると、ノエル様は、窓辺の椅子に座って、本を読んでいた。
「ノエル様、おはよう」
「もう、昼だ」
「あ、そっか、こんにちは」
──と。
ノエル様の青い瞳が、お兄ちゃんを見つけて、すっ、と細くなった。
「ーー、誰だ、その、男」
──出た。
ノエル様の、全力警戒モード。
「私の、お兄ちゃん。エリック」
「兄」
「うん。ノエル様を、館まで運んでくれた、お兄ちゃん」
ノエル様は、本を、ぱたん、と閉じて、お兄ちゃんを、じーっ、と、睨んだ。
──、警戒。
──、ぜんりょくで、警戒。
◇◇◇
お兄ちゃんは、ノエル様の前に、片膝を、ついて、目線を、合わせた。
「はじめまして、ノエル様。ぼくは、エリック。リリィの、兄で、薬師の、見習いです」
「知らん」
「少しだけ、ーー、お加減を、診せていただけませんか」
「断る」
「ノエル様──」
「リリィ。ぼくは、ーー、知らない人間に、触られるのは、嫌だ」
──、ああ。
ノエル様、緊張、してるんだ。
私は、ノエル様の隣に座って、その手を、握った。
「大丈夫だよ、ノエル様」
「ーー」
「お兄ちゃんは、絶対、こわくない」
「ーー」
「私が、ずっと、ここに、いるから。ね?」
ノエル様は、しばらく、黙ってから、ぼそりと、呟いた。
「ーー、リリィが、いるなら、少しだけ、だぞ」
──ふふ。
お兄ちゃんは、ノエル様の細い手首に、そっと指を当てた。
脈を、数えている。
それから、瞼の裏の色を見て、舌の色を見て、背中に耳を当てて、呼吸の音を、聞いた。
お兄ちゃんの手つきは、迷いがなくて、なんだか、本物のお医者さんみたいだった。
ノエル様は、むすっ、としながらも、ちゃんと、診察を、受けていた。
──、えらい、ノエル様。
◇◇◇
「ーー、なるほど」
お兄ちゃんは、うん、と、頷いた。
「ノエル様。正直に、申し上げます」
「言え」
「ぼくには、ーー、呪いのことは、わかりません」
「ーー」
「ぼくは、ただの、薬師の見習いですから。呪いを診る力は、ありません」
「ーー」
「けれど、ーー」
お兄ちゃんは、にっこり、笑った。
「お体は、確かに、よくなっています」
ノエル様の青い瞳が、ぴくっ、と揺れた。
「脈は、しっかり打っています。息の音も、きれいだ。顔色は、ーー、ひと月前とは、まるで、別人のようです」
「ーー」
「エルダーフラワーとカモミールのお茶。リンデンの湿布。ペパーミントの塗り薬。どれも、ちゃんと、効いています」
そう言って、お兄ちゃんは、私の方を見た。
「リリィ」
「うん?」
「お前、ーー、本当に、よく頑張ったな」
──!
「毎日、毎日、雨の日も、風の日も、ーー、薬草を運んで」
「ーー」
「ノエル様を、ここまで、元気にしたのは、リリィ、お前のおかげだ」
──私の胸の中が、ぽわん、と、あたたかくなった。
「えへへ」
「お父さんも、お母さんも、きっと、誇りに思うぞ」
◇◇◇
その時。
ノエル様が、ぼそりと、呟いた。
「ーー、おい、兄」
「はい、なんでしょう」
「お前、ーー、なかなか、利口だな」
──、ぶは。
ノエル様、お兄ちゃんを認めた。
お兄ちゃんは、きょとん、としてから、ふっ、と、笑った。
「ありがとうございます、ノエル様」
「礼は、要らん」
「ふは。では、ありがたく、頂戴します」
「ーー」
──、ふふ。
ノエル様の耳が、ちょっとだけ、赤い。
ノエル様、本当は、お兄ちゃんのこと、気に入ったんでしょ。
「えへへ。私のお兄ちゃん、頭、いいんだから」
「リリィ。お前が、自慢するな」
「だって、私のお兄ちゃん、だもん」
◇◇◇
帰り際。
お兄ちゃんは、ノエル様に、深く、頭を下げた。
「ノエル様。また、休みの日に、診させてください」
「勝手に、しろ」
「ありがとうございます」
「ーー、おい、兄」
「はい」
「リリィを、ーー、ちゃんと、家まで、送れ。森は、危ない」
──、!
ノエル様、私のこと、心配してくれた。
「うふふ。ノエル様、ありがとう」
「別に。お前の、ためじゃ、ない」
──ふふ。
ノエル様の「別に」は、いつだって、あったかい。
◇◇◇
帰り道。
夕焼けが、空を、燃えるような橙色に、染めていた。
「リリィ」
「うん?」
「ーー、いい、お友達が、できたな」
「うん」
お兄ちゃんは、私の頭を、ぽん、ぽん、と、撫でた。
──と、思ったら。
お兄ちゃんが、ぽつりと、呟いた。
「けれど、リリィ、ーー、ノエル様、ーー、結構、ツンツンしておられたな」
──え。
「えっ?ノエル様、すっごく、優しいよ?」
「ーー、ふは」
お兄ちゃんは、ふっ、と苦笑した。
「そうか」
──ふふ。
お兄ちゃんも、ノエル様のこと、気に入ったみたい。
──けれど。
ノエル様の本当の優しさは、ーー、もしかしたら、ーー、私だけが、ちゃんと、わかってる、のかもしれない。
──ふふ。
それは、なんだか、嬉しい。
私の大好きなお兄ちゃんと、私の大好きなノエル様。
二人が、仲良くなってくれたら。
それは、世界で、いちばん、素敵なこと。
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子に、薬草を運ぶ日々の、二週間と六日目。
私の大好きなお兄ちゃんが、ノエル様を、診てくれた、特別な一日。




