番外編 ノエル視点 「ノエルの一ヶ月」
その日も、リリィは来た。
薬草茶を淹れて、絵本を聞いて、ぼくの頬が赤くなるのを見つけては、けらけら笑って。そして夕方になると、いつものように帰っていった。
扉が閉まる。廊下をぴょこぴょこ駆けていく足音。玄関で、セバスチャンと何か楽しそうに話す声。
それが遠ざかると、館の中は、しん、と静かになる。
ぼくはベッドに戻って、天井を見上げた。
リリィがいる間、あんなに賑やかだった部屋が、嘘みたいに静まりかえる。世界からひとり、取り残されたみたいに。
——もう慣れたはずの静けさが、最近は、やけに長く感じる。
◇◇◇
一ヶ月前、ぼくは森で死にかけていた。
外の世界が見たくて、こっそり館を抜け出した。それだけのことだったのに、ぼくの体は、塀の外を少し歩いただけで音を上げた。すぐに息が続かなくなって、苔の上に倒れた。
ああ、これで終わりか、と思った。
不思議と、こわくはなかった。むしろ、ちょうどいいとさえ思った。誰にも迷惑をかけず、誰にも呪いをうつさず、ひっそり消えていける。呪われたぼくには、それがいちばん似合いの幕引きだと思っていた。
——けれど、ぼくは終わらなかった。
冷たい頬を、温かい手のひらが、ぱしっと挟んだのだ。
「大丈夫ーーー?」
ありえないくらい、明るい声だった。
目を開けると、緑の瞳がのぞき込んでいた。蜂蜜色の、ふわふわした髪。ぼくと同じくらいの背丈の、けれど、たぶんずっと幼い女の子。
——そうだ。ぼくは、本当はもう十歳なのに。
呪いのせいで、四つの頃から体が止まったまま。この子はおそらく六つくらいで、年下のはずなのに、ぼくのほうが小さく見えるかもしれない。そんなことを、薄れかけた頭の隅で、ぼんやり考えていた。
ぼくは咄嗟に、いつもの言葉を吐いた。
「なんだ、お前」「あっちへ行け」「近づくな。ぼくの呪いが、お前にもうつる」
十年近く、誰にも明かさなかった本音だった。人に近づけば、その人が苦しむ。だからぼくは、ずっとひとりで終わるつもりだった。
なのに、その子は、にっこり笑ってこう言った。
「うつったって、いいよ」
——息が、止まった。
うつったって、いい。ぼくの呪いがうつっても、かまわない、と。何を言っているんだ、こいつは。
けれど、その緑の瞳は、ふざけている色を、ひとつも含んでいなかった。
「二人で頑張る! 二人で、呪いを治す!」
胸の奥が、ぐらりと揺れた。
誰かが、ぼくのために頑張ろうと言ってくれた。生まれて初めてのことだった。
◇◇◇
それから、リリィという名のその変な奴は、本当に、毎日ぼくの館へ来た。
雨の日も、風の日も、晴れの日も。ちっちゃな薬草籠を抱えて、いつもにこにこしながら、ぼくの寝室の扉を叩く。
最初は、すぐに来なくなるだろうと踏んでいた。ぼくがツンとして追い返しても、わざと冷たくしても、こんな呪われた子供のところへ、好きこのんで通う理由なんて、あるはずがない。
ところがリリィは、追い返した次の日にも、けろりとした顔で扉を叩いた。冷たくした翌朝にも、にこにこ笑って、また来た。
——変な奴だ。本当に、変な奴。
リリィはぼくのために薬草茶を淹れ、リンデンの湿布を当て、いびつなクッキーを焼いた。毎日、毎日、何かしらをしてくれた。
ぼくは戸惑っていた。誰かに何かをしてもらうことが、ぼくの人生には、あまりに少なすぎたから。嬉しいという感情の名前さえ、いつのまにか忘れていた。
それでも、リリィが扉を叩くたび、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
ああ、これが「嬉しい」だったのか、と、ぼくはようやく思い出した。
◇◇◇
ある日、リリィは自分の兄を連れてきた。
エリックという、八つ年上の兄。知らない男に体を触られるのは、正直、いやだった。ぼくは反射的に身を固くした。
すると、リリィが「だいじょうぶだよ」と、ぼくの手を握ってくれた。
それだけで、固まっていた肩から、すっと力が抜けた。リリィがいるなら、まあ、少しは許してやってもいい。そんな気になった。
エリックの診察は、丁寧だった。脈を診て、瞼を返して、息の音を聞く。その手つきは、ぼくが長年診てもらってきた王宮医師の誰よりも、確かだった。
そして、エリックは優しく笑って言った。
「お体は、確かによくなっています」「リリィのおかげです」
——リリィのおかげ。
その通りだ、と思った。けれど、ぼくの口から出たのは、まるで違う言葉だった。
「おい、兄。なかなか利口だな」
本当は、こう言いたかった。リリィの兄上、ぼくの命を救ってくださって、ありがとうございます、と。
なのに、ぼくの口は、どうしても素直になれない。
◇◇◇
もう一日、本心と反対のことを言ってしまった日がある。
リリィが、こう聞いてきた日だ。
「私とノエル様って、お友達、だよね?」
ぼくは固まった。
お友達。その言葉を、ぼくは本でしか知らない。そして、本で読んだ「お友達」では、リリィを言い表すには、まるで足りなかった。
リリィは、お友達なんかじゃない。もっと——もっと、特別な、何か。けれど、その「何か」が何なのか、ぼくはまだ知らない。
だから、ぼくはこう答えてしまった。
「お前を、友達と思ったことはない」
リリィの顔が、しょんぼりとしぼんだ。
その瞬間、ぼくの胸がぎゅっと痛んだ。しまった、と思った。言い方を、完全に間違えた。
ぼくが伝えたかったのは、お友達なんかじゃ足りない、もっと大切な存在だ、ということなのに。ぼくの貧しい語彙では、それをうまく形にできない。
必死で別の言葉を探して、ようやく辿り着いたのが——「変な奴」だった。
リリィは、ぼくの世界にいなかった種類の子だ。ぼくの知るどんな相手とも違う。だから、変な奴。本当の気持ちは、その言葉のずっと奥にある。
リリィは、ぼくの不器用な「変な奴」を、嬉しそうに受け取ってくれた。
「お友達じゃないけど、『面白い変な奴』って、なんだか、もっと嬉しい」
ぼくは目をぎゅっと閉じて、何も言えなくなった。頬は、きっと真っ赤だったと思う。
この子は、ぼくの不器用な言葉の、奥のほうまで、ちゃんとわかってくれている。ぼくが本当はもっと特別なことを伝えたかったのだと、見抜いてしまっている。
——心の奥まで見られたのも、たぶん、生まれて初めてのことだった。
◇◇◇
もう、夜だ。
ベッドの中で、ぼくは天井を見上げている。
リリィに会ってから、ひと月。ぼくの世界は、すっかり変わってしまった。
薬が効くようになった。自分の足で、少しだけ立てるようになった。本以外のもので、笑うようになった。そして——誰かを、毎日待つようになった。
全部、リリィのおかげだ。
変な奴。いや、違う。お友達じゃない、もっと、もっと特別な、何か。
その「何か」を、いつかちゃんと言葉にできる日が来るだろうか。
来てほしい、と思った。ぼくは生まれて初めて、未来というものを、自分から望んだ。
◇◇◇
目を閉じる。
明日も、リリィは来てくれるだろうか。
来てくれるはずだ。リリィは毎日来る。雨の日も、風の日も、晴れの日も。
——けれど、もしも。
もしも、来てくれない日があったら。
ぼくは、たぶん、耐えられない。
もう、リリィのいない世界には戻れない。あの静けさの中に、ひとりで沈んでいくことには、もう、戻れないのだ。
リリィ。
明日も、来てくれよ。
必ず、来てくれよ。
ーーノエル・アーデルハイト、実年齢十歳の春。
呪いで体は四つのまま止まり、胸の内にだけ、十年分の孤独を抱えていたぼく。
その孤独の世界に、初めて、リリィという陽が差し込んだ、ひと月目の夜。




