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第9話 降臨

第9話 降臨


 伯爵家の屋敷は地獄と化していた。


 黒煙が空へ立ち昇る。


 砕けた石壁。


 崩れた塔。


 燃え広がる庭園。


 かつて色鮮やかな薔薇が咲き誇っていた花壇は踏み荒らされ、黒い瘴気に覆われていた。


 魔王軍の先遣隊は容赦がなかった。


 巨大な狼型魔物が門を破壊し、翼を持つ魔獣が空から襲いかかる。


 兵士たちは必死に戦っていたが、数が違いすぎる。


「南棟が落ちた!」


「防衛線が突破されます!」


「退避しろ!」


 怒号と悲鳴が飛び交う。


 負傷者のうめき声が響く。


 鉄と血の臭いが風に混ざっていた。


 マリアはミナを抱きかかえながら地下避難室へ向かっていた。


 豪華なドレスは泥と灰で汚れている。


 髪も乱れ、かつての伯爵夫人の面影はなかった。


「お母様……」


 ミナが弱々しく呟く。


「大丈夫よ」


 マリアは必死に言った。


「もう少しだから」


 だがその声に自信はなかった。


 助かる見込みなどない。


 それを誰よりも理解していた。


 轟音が響く。


 屋敷の一部が崩れ落ちる。


 天井から砂埃が降ってきた。


「きゃっ!」


 ミナが怯える。


 マリアは娘を抱きしめた。


 涙が止まらない。


 どうしてこうなったのだろう。


 答えは分かっている。


 自分のせいだ。


 全部。


 あの日。


 あの鋏。


 あの笑い声。


 エルザの警告。


 今なら全て理解できる。


 だが遅かった。


 あまりにも遅すぎた。


 その時だった。


 外から兵士の叫び声が聞こえた。


「な、なんだあれは!?」


「空を見ろ!」


「光だ!」


 人々のざわめきが広がる。


 マリアも思わず顔を上げた。


 次の瞬間。


 空が裂けた。


 正確には、そう見えた。


 厚い黒雲の中心に巨大な光の亀裂が生まれたのだ。


 まるで天そのものが割れたようだった。


 眩い白銀の光が大地へ降り注ぐ。


 魔物たちが一斉に動きを止めた。


 空気が変わる。


 瘴気が震える。


 大地が共鳴する。


 その光景に誰もが息を呑んだ。


 そして光の中心から、一人の女性が降り立った。


「まさか……」


 マリアの唇が震える。


 その姿を見間違えるはずがない。


 銀色の髪。


 澄んだ青い瞳。


 エルザだった。


 だが以前とは全く違う。


 かつての質素なワンピースではない。


 純白のドレスでもない。


 彼女の身体を包んでいるのは白銀の魔導装甲だった。


 まるで無数の魔法陣が立体化したような美しい鎧。


 透明な光の回路が幾重にも展開されている。


 背中には翼のような術式環が浮かび、空中に複雑な幾何学模様を描いていた。


 神々しい。


 誰もがそう思った。


 兵士たちも。


 領民たちも。


 魔物たちですら。


 その場にいた全員が圧倒される。


「王宮魔導師長……」


「エルザ様だ……」


「本当に来てくださった……」


 歓声が上がる。


 だがエルザは静かだった。


 ただ戦場を見渡している。


 崩壊した屋敷。


 傷ついた兵士たち。


 泣いている子供たち。


 そして迫り来る魔王軍。


 その光景を見つめる瞳には怒りも憎しみもない。


 ただ責任感だけがあった。


 彼女の後方から声が響く。


「エルザ!」


 アルベールだった。


 王国軍を率いて到着している。


 軍服姿の皇太子は苦笑した。


「派手にやるな」


「緊急事態ですので」


「まあいい」


 アルベールは剣を抜く。


「任せてもいいか?」


「もちろんです」


 エルザは頷いた。


 その瞬間だった。


 魔王軍の指揮官と思われる巨大な魔族が咆哮する。


 黒い翼を持つ巨体。


 全身から濃密な瘴気を放っている。


「人間ども!」


 雷鳴のような声が響く。


「今さら何をしようと遅い!」


 魔物たちが一斉に突撃を開始した。


 大地が揺れる。


 黒い津波のような軍勢だった。


 数千。


 いや、万を超えているかもしれない。


 普通なら絶望する光景だった。


 しかしエルザは動じない。


 静かに右手を持ち上げる。


 そして呟いた。


「術式展開」


 空気が震えた。


 次の瞬間。


 空一面に巨大な魔法陣が出現する。


 あまりにも巨大だった。


 伯爵領全体を覆い尽くすほどの規模。


 兵士たちは言葉を失った。


 魔導師たちも呆然と見上げる。


「なんだ……あれは……」


「国家級術式だ……」


「いや……国家級どころじゃない……」


 誰も理解できない。


 理解できるのはエルザ本人だけだった。


 彼女は静かに宣言する。


「瘴気浄化開始」


 その声は穏やかだった。


 しかし結果は圧倒的だった。


 光が降る。


 優しい光だった。


 温かな春の日差しのような光。


 それが戦場全体を包み込む。


 そして。


 一瞬だった。


 魔物が消える。


 瘴気が消える。


 黒雲が消える。


 まるで最初から存在しなかったかのように。


 痕跡すら残らない。


 傷ついた大地だけが残された。


 静寂。


 誰も動けなかった。


 理解が追いつかない。


 数千の魔物。


 魔王軍先遣隊。


 その全てが一瞬で消滅したのだ。


 やがて歓声が上がる。


「勝った!」


「助かった!」


「エルザ様だ!」


 人々は泣きながら叫んだ。


 兵士たちは武器を掲げる。


 誰もが彼女を見上げていた。


 英雄を見るように。


 救世主を見るように。


 その光景を、マリアも見ていた。


 崩れた石壁の前で。


 涙を流しながら。


「エルザ……」


 声が震える。


 かつて自分が見下していた娘。


 地味だと笑った娘。


 価値がないと思っていた娘。


 今、その存在は王国そのものだった。


 自分たちを守っていたのは権力ではなかった。


 財産でもなかった。


 エルザだった。


 ずっと。


 最初から。


 そして今、彼女は誰のものでもない。


 王国の守護者として空に立っている。


 マリアはようやく理解した。


 失ったのはドレスではない。


 娘ですらない。


 未来そのものだったのだと。



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