第10話 夜明け
第10話 夜明け
エルザは窓辺に立ち、王都の夜明けを眺めていた。
東の空が少しずつ白み始めている。
昨夜まで降っていた雨は上がり、磨かれたような青空が広がろうとしていた。朝露をまとった王宮の庭園では薔薇が咲き誇り、噴水の水音が静かに響いている。
平和な朝だった。
あの日、魔王軍の先遣隊が消滅してから二か月。
王国は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
しかし、エルザの胸の中には不思議な静けさがあった。
嬉しいわけでもない。
復讐を果たした満足感でもない。
ただ長い嵐が終わったような感覚だった。
「もう起きていたのか」
背後から声がした。
振り返るとアルベールが立っている。
今日は公務の前らしく、濃紺の正装を身につけていた。金糸の刺繍が施された上着に白いシャツ。肩には皇太子のマントがかかっている。
「おはようございます」
「おはよう」
アルベールは微笑んだ。
「相変わらず早起きだな」
「研究が好きなので」
「知っている」
彼はそう言って小さなテーブルへ向かう。
そこには朝食が並んでいた。
焼きたてのクロワッサン。
ふわふわのオムレツ。
香草で焼いた白身魚。
果物の盛り合わせ。
そして温かなミルクティー。
湯気とともにバターの香りが広がる。
「少しは食べろ」
「またその話ですか」
「毎日言う」
アルベールは呆れたように椅子へ座った。
「王国最高の魔導師が過労で倒れたら困る」
「そこまで大袈裟ではありません」
「十分大袈裟だ」
エルザは少し笑った。
こんな何気ない会話をする相手がいることに、まだ少し慣れない。
伯爵家では研究の話など誰も聞いてくれなかった。
食卓で何かを相談することもなかった。
だから今の環境は不思議だった。
温かくて。
穏やかで。
少しだけ居心地が良い。
二人は朝食を取りながら話を続ける。
やがてアルベールが真面目な顔になった。
「正式な報告が届いた」
エルザは手を止めた。
「伯爵家の件ですか」
「ああ」
アルベールは頷く。
「最終処分が決まった」
エルザは静かに待つ。
心臓は驚くほど落ち着いていた。
「グランベル伯爵家は爵位剥奪」
「……」
「全財産没収」
「そうですか」
「屋敷も王国管理になる」
予想通りだった。
むしろ当然の結果とも言える。
国家防衛資産を失わせた責任は重い。
「マリアとミナは?」
自分でも意外なほど平静な声だった。
アルベールは少しだけ言いづらそうな顔をした。
「辺境の監視村へ移送された」
「監視村……」
「生涯、王都へ戻ることはできない」
エルザは窓の外を見る。
風が木々を揺らしている。
どこか遠い話のようだった。
かつてなら泣いたかもしれない。
苦しんだかもしれない。
だが今は違う。
胸の中にあるのは憎しみではなかった。
終わったのだという実感だった。
アルベールが静かに尋ねる。
「会いたいか?」
エルザは首を横に振った。
「いいえ」
「そうか」
「もう十分です」
それ以上の言葉はいらなかった。
許すとも言わない。
恨むとも言わない。
ただ終わった。
それだけだった。
その日の午後。
エルザは新しい研究棟へ向かっていた。
完成したばかりの巨大な施設だった。
王国中から集められた魔導技術者たちが働いている。
扉を開くと、多くの研究員が一斉に頭を下げた。
「おはようございます、主任!」
「おはようございます!」
以前のエルザなら慌てていただろう。
だが今は自然に頷ける。
「皆さん、おはようございます」
机の上には巨大な設計図が広げられていた。
王国全土の地図。
山脈。
河川。
街道。
都市。
その全てに複雑な術式が描かれている。
「進捗はいかがですか?」
若い研究員が尋ねた。
エルザは図面を見つめた。
胸の奥が少し熱くなる。
昔の自分なら想像もできなかった。
一つの領地を守るだけで精一杯だった少女が、今は王国全体を守ろうとしている。
「順調です」
エルザは答えた。
「来年には第一段階が完成します」
研究員たちの顔が明るくなる。
「本当ですか!」
「すごい……」
「歴史が変わりますね」
エルザは少し照れた。
歴史を変えるつもりはない。
ただ守りたいだけだ。
誰かの日常を。
誰かの家族を。
誰かの未来を。
かつて自分が守り続けていたように。
夕方。
研究棟の屋上へ出ると、アルベールが待っていた。
空は夕焼けに染まっている。
黄金色の光が王都を包んでいた。
「進んでいるようだな」
「ええ」
エルザは頷く。
「今度は王国全体を守ります」
「君らしい」
アルベールは笑った。
二人は並んで夕暮れを見つめる。
風が吹く。
銀色の髪が揺れる。
長い沈黙の後、アルベールがぽつりと言った。
「今度は壊されないな」
その言葉に、エルザは少しだけ目を見開いた。
そして理解する。
彼はドレスのことを言っているのだ。
あの日。
切り裂かれた結界。
失われた信頼。
失われた日々。
全てを知っているからこその言葉だった。
エルザは空を見上げた。
西の空に一番星が輝いている。
不思議と悲しさはなかった。
もう前を向ける。
そう思えた。
「ええ」
自然と笑みが浮かぶ。
本当に少しだけ。
けれど昔よりずっと柔らかい笑顔だった。
「もう誰にも触れさせません」
その言葉にアルベールは満足そうに頷いた。
やがて夜が訪れる。
そして再び朝が来る。
王都の東の空から昇る朝日は、研究棟の窓を黄金色に染めていた。
エルザは新しい設計図を広げる。
机の上には万年筆。
定規。
術式計算書。
そして湯気の立つ紅茶。
静かな研究室に紙をめくる音が響く。
彼女はペンを取った。
今度は一人のためではない。
一つの領地のためでもない。
王国全体の未来のために。
朝日が窓から差し込む。
その光はどこまでも明るかった。
これは終わりではない。
エルザにとって、本当の始まりだった。




