第8話 崩壊
第8話 崩壊
その日の空は異様だった。
朝だというのに太陽は雲に隠れ、空全体が鉛色に沈んでいる。
伯爵領の人々は不安そうに空を見上げていた。
最近は妙なことばかり起きていた。
農作物の不作。
家畜の病気。
原因不明の体調不良。
そして魔物の出現。
長年平和だった土地とは思えないほど状況は悪化している。
領民たちは薄々気づいていた。
何かが壊れたのだと。
何か大切なものが失われたのだと。
だが、その正体を知る者はほとんどいない。
伯爵家の屋敷ではさらに深刻な事態が進行していた。
大広間の暖炉には火が入っていない。
厨房も静かだった。
かつて二十人以上いた使用人は半数以下になっている。
辞めたのだ。
給金が払えなくなったから。
未来が見えなくなったから。
皆、自分と家族を守るために去っていった。
今朝の朝食も質素だった。
黒パン。
薄い野菜スープ。
塩漬け肉が少し。
以前の豪華な食卓とは比べものにならない。
マリアは食卓を見つめたまま動かなかった。
食欲がない。
何を食べても味がしないのだ。
「奥様……」
執事長ロイドが声をかける。
「ミナ様がお呼びです」
マリアは重い身体を引きずるように立ち上がった。
娘の部屋へ向かう。
扉を開けると薬草の匂いが鼻を刺した。
ベッドにはミナが横たわっている。
かつて美しかった金色の髪は艶を失い、顔色も悪い。
頬は痩せこけ、手首は折れそうなほど細くなっていた。
「お母様……」
弱々しい声だった。
「ミナ」
マリアはベッド脇に座る。
「今日はどう?」
「苦しい……」
それは毎日聞いている言葉だった。
しかし良くなる気配はない。
むしろ悪化している。
マリアは娘の手を握る。
冷たい。
恐ろしいほど冷たかった。
「大丈夫よ」
「嘘……」
ミナはかすかに首を振った。
「私……分かるの」
涙が頬を伝う。
「死ぬかもしれない」
「そんなこと言わないで!」
マリアは思わず叫んだ。
「絶対に助けるから!」
「お姉様……」
その名前を聞いた瞬間、マリアの顔が強張る。
「エルザお姉様なら……」
続く言葉は聞かなくても分かった。
だがエルザは来ない。
もう伯爵家の人間ではない。
助ける義務もない。
その現実がマリアの胸を締め付けた。
その時だった。
突然、外から鐘の音が響いた。
カン! カン! カン!
警鐘だ。
尋常ではない速度で鳴り響いている。
「何!?」
マリアは立ち上がった。
部屋の外から慌ただしい足音が聞こえる。
数秒後、ロイドが飛び込んできた。
顔面蒼白だった。
「奥様!」
「どうしたの!?」
「魔物です!」
マリアの血の気が引く。
「また!?」
「違います!」
ロイドは叫んだ。
「今までの魔物とは規模が違います!」
窓の外から悲鳴が聞こえる。
マリアは急いでバルコニーへ出た。
そして絶句した。
遠くの平原。
黒い影が大量に見える。
何百。
いや、何千。
地平線を埋め尽くすほどの魔物の群れだった。
「そんな……」
膝が震える。
ありえない。
こんな規模の魔物軍など聞いたことがない。
ロイドが唇を震わせた。
「王都からの報告です」
「……」
「魔王軍の先遣隊だそうです」
その言葉にマリアは息を呑んだ。
魔王軍。
昔話の中だけの存在だと思っていた。
だが今、現実になっている。
しかも真っ直ぐこの領地へ向かってきていた。
「防衛隊は!?」
「応戦しています!」
「なら――」
「無理です」
ロイドは首を振る。
「数が違いすぎます」
遠くで爆発音が響く。
黒煙が上がる。
防衛砦の一つが落ちたのだ。
領民たちの悲鳴が風に乗って聞こえてくる。
マリアはその光景を見ながら思い出していた。
エルザの言葉を。
『それは国境です』
『そのドレスは伯爵領を守る結界そのものです』
あの時は笑った。
大げさだと思った。
だが今なら分かる。
本当だったのだ。
あの結界があったから魔王軍すら近づけなかった。
今は何もない。
何も守ってくれない。
その時だった。
轟音とともに屋敷全体が揺れた。
窓ガラスが砕け散る。
「きゃああっ!」
使用人たちの悲鳴が響く。
魔物の一団が外壁へ到達したのだ。
屋敷の中は一瞬で混乱に包まれた。
「逃げろ!」
「南門が破られた!」
「助けて!」
人々が走り回る。
使用人たちは荷物を抱えて逃げ出した。
誰も責められない。
命がかかっている。
忠誠心より生存本能が勝つのは当然だった。
マリアは呆然と立ち尽くす。
かつて華やかだった伯爵家が崩れていく。
文字通り音を立てて。
そして彼女は気づく。
誰も助けに来ない。
王都は遠い。
軍も各地の対応で手一杯だ。
そしてエルザは――いない。
自分たちが追い出した。
自分たちが切り捨てた。
その結果が今なのだ。
再び轟音が響く。
屋敷の一角が崩れ落ちた。
土煙が舞い上がる。
泣き叫ぶ声。
助けを求める声。
崩壊の音。
その全てを聞きながら、マリアは初めて理解した。
伯爵家が終わるのではない。
もう終わっていたのだ。
あの日、鋏を振り下ろした瞬間に。
今起きているのは、その結果に過ぎない。
そして窓の外では、黒い軍勢がゆっくりと伯爵家へ迫っていた。




