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第4話 再会

第4話 再会


 王都の朝は伯爵領とは違う匂いがした。


 石畳を洗った水の匂い。焼きたてのパンの香り。市場から流れてくる香辛料の刺激的な香り。人々の活気が混ざり合い、街全体が一つの生き物のように脈打っている。


 エルザは工房の扉を開けながら、小さく息を吐いた。


 王都へ来て二週間。


 借りた工房は古かったが、十分に満足できる場所だった。


 赤茶色の煉瓦造りの建物の一階。店先には小さな看板が吊るされている。


 《魔導具修理・術式工房 エルザ》


 それだけの質素な店だった。


 豪華な研究施設もなければ使用人もいない。


 しかし、今のエルザにはそれが心地良かった。


 誰にも邪魔されない。


 誰にも成果を横取りされない。


 そして何より、自分の技術を理解しようとする客がいる。


 それだけで十分だった。


「エルザさん、おはようございます!」


 店へ飛び込んできたのは近所のパン屋の娘だった。


 十歳くらいの少女で、栗色の髪を三つ編みにしている。


「おはよう、リリ」


「お母さんがパンを届けてって!」


 少女は籠を差し出した。


 中には焼きたての丸パンが入っている。


 まだ温かい。


「ありがとう」


「昨日の魔導オーブ、本当に助かったの!」


「ちゃんと動いた?」


「うん! お店の灯りが全部ついた!」


 少女は嬉しそうに笑う。


 エルザも自然と微笑んだ。


「それなら良かったわ」


「また来るね!」


 元気よく走り去る少女を見送りながら、エルザはパンを机の上に置いた。


 工房の奥には簡易的な台所がある。


 鉄製のやかんに水を入れ、火にかける。


 ほどなくして湯気が立ち始めた。


 紅茶を淹れ、パンを切る。


 朝食はそれだけだ。


 だが焼きたてのパンは香ばしく、十分美味しい。


 窓から差し込む朝日を浴びながら食べる朝食は、伯爵家での豪華な食事よりもずっと心が落ち着いた。


 食事を終えると、さっそく仕事に取りかかる。


 机の上には修理依頼の魔導時計が置かれていた。


 内部回路が損傷している。


 エルザは工具を手に取り、慎重に分解を始めた。


 細い回路。


 小さな魔石。


 複雑に絡み合った術式。


 そのすべてが彼女には美しく見えた。


 集中しているうちに時間はあっという間に過ぎる。


 昼を少し回った頃だった。


 突然、工房の外が騒がしくなった。


「なんだ?」


「軍の人たちだぞ」


「王宮の騎士団じゃないか?」


 人々のざわめきが聞こえる。


 エルザは顔を上げた。


 次の瞬間、工房の前に馬車が止まる音がした。


 そして扉が開く。


 最初に入ってきたのは近衛騎士だった。


 銀色の鎧を身にまとい、剣を帯びている。


 その後ろに立つ人物を見た瞬間、エルザの目が少しだけ見開かれた。


 長い金髪。


 整った顔立ち。


 濃紺の軍服。


 胸には王家の紋章。


 青年は苦笑した。


「やっぱりここにいたか、エルザ」


 懐かしい声だった。


 エルザは工具を置く。


「お久しぶりです、アルベール殿下」


 王国第一皇太子アルベール。


 幼い頃からの知り合いだった。


 いや、知り合いというより数少ない理解者だった。


 他の貴族たちがエルザを変わり者扱いしていた頃から、彼だけは研究内容を真面目に聞いてくれた。


 魔法理論の話を何時間も付き合ってくれたこともある。


 アルベールは店内を見回した。


「ずいぶん質素な暮らしをしているな」


「快適ですよ」


「本当か?」


「ええ」


 エルザは素直に頷いた。


 アルベールはしばらく彼女を見つめた。


 そして小さく息を吐く。


「そうか」


 それだけで何かを理解したようだった。


 彼は近くの椅子に腰掛けた。


 近衛騎士たちは外へ出る。


 工房には二人だけが残された。


 しばらく沈黙が流れた。


 やがてアルベールが口を開く。


「東側の防衛網が消えた」


 その一言で空気が変わった。


 エルザは静かに紅茶を注ぐ。


 そして一杯を彼の前へ置いた。


「どうぞ」


「ありがとう」


 アルベールは一口飲んだ。


 だがすぐに本題へ戻る。


「あれは君の仕事だろう?」


 問いかけというより確認だった。


 エルザは頷く。


「はい」


「やはりか」


「ですが、もう存在しません」


 アルベールの青い瞳が細くなる。


「理由は?」


 エルザは少し考えた。


 怒りを込めるつもりはなかった。


 事実だけを伝えればいい。


「破壊されました」


「誰に?」


「家族によって」


 沈黙。


 窓の外から市場の喧騒が聞こえる。


 遠くで鐘が鳴る。


 しかし工房の中だけは静まり返っていた。


 アルベールは動かなかった。


 まるで言葉の意味を理解するのに時間が必要だったかのように。


「……家族?」


「はい」


「事故ではなく?」


「故意です」


 アルベールの顔がわずかに歪んだ。


 エルザは初めて見る表情だった。


 普段の彼は冷静だ。


 戦場でも動じないと言われている。


 そんな彼が明らかに動揺していた。


「待て」


 アルベールは額を押さえる。


「つまり君は国家規模の防衛術式を完成させた」


「はい」


「それを伯爵家の人間が壊した」


「はい」


「理由は?」


 エルザは少しだけ目を伏せた。


「ドレスが地味だったからだそうです」


 再び沈黙。


 数秒後。


「……は?」


 皇太子らしからぬ声が漏れた。


 エルザは説明する。


「妹が欲しがりまして」


「それで?」


「継母が鋏で切りました」


「それで終わりか?」


「終わりです」


 アルベールはしばらく何も言えなかった。


 そして両手で顔を覆った。


「信じられん……」


 その声には本気の困惑が滲んでいた。


 国家防衛級の術式。


 王宮でも再現不可能な技術。


 それがそんな理由で失われた。


 常識では考えられない。


「君は止めなかったのか」


「止めました」


「説明は?」


「しました」


「信じなかった?」


「はい」


 アルベールは深くため息をついた。


 それから真っ直ぐエルザを見る。


「東部ではすでに被害が出ている」


「そうでしょうね」


「魔物の侵入も確認された」


「予想通りです」


 エルザの声は静かだった。


 感情的にならない。


 ただ事実を述べているだけだ。


 その姿を見て、アルベールは胸が痛くなった。


 彼女は怒っていない。


 怒りを通り越してしまったのだ。


 それが分かった。


「エルザ」


「はい」


「君は今後どうするつもりだ?」


 エルザは少し考えた。


 そして工房を見回す。


 工具。


 術式図面。


 修理中の魔導具。


 穏やかな日常。


「ここで暮らします」


 その答えは本心だった。


 アルベールは静かに頷く。


 しかしその目には別の決意が宿っていた。


 彼は理解していた。


 目の前の女性は、もはや一地方貴族の娘ではない。


 王国そのものを支える技術者だ。


 そして今、その価値を理解しているのは、自分だけなのかもしれなかった。



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