第5話 価値の再定義
第5話 価値の再定義
アルベールが工房を訪れてから三日後の朝だった。
王都は快晴だった。
石畳の通りには露店が並び、焼き立てのパンや果物を売る商人たちの声が響いている。馬車が行き交い、人々が忙しそうに歩いていた。
エルザは工房の作業机に向かい、小型魔導灯の修理をしていた。
細かな回路を繋ぎ直していると、窓の外から聞き慣れた蹄の音が響く。
やがて扉が開いた。
「やはり仕事をしていたか」
入ってきたのはアルベールだった。
今日は近衛騎士を二人だけ連れている。
前回よりも表情は厳しい。
「おはようございます」
「おはよう」
アルベールは椅子に腰掛けた。
そのまま数秒、黙ってエルザの作業を見つめる。
「見事な手際だな」
「慣れていますので」
「その技術を修理屋で終わらせるのは惜しい」
エルザは苦笑した。
「またその話ですか」
「もちろんだ」
アルベールは即答した。
「私は諦めが悪い」
その返答に思わず小さく笑ってしまう。
昔から変わらない。
彼は一度決めたことを簡単には諦めない性格だった。
アルベールは懐から封筒を取り出した。
分厚い羊皮紙が入っている。
「まずはこれを見てほしい」
エルザは受け取った。
そこにはここ数日の被害報告が記されていた。
東部の村での魔物被害。
街道沿いで発生した瘴気汚染。
農作物の枯死。
体調不良者の急増。
ページをめくるごとに被害は増えている。
エルザは静かに読み進めた。
予想していた内容だった。
だが現実として数字になると重みが違う。
「予想以上ですね」
「私もそう思う」
アルベールは苦々しい顔をした。
「東部防衛隊の負担が急増している」
「でしょうね」
「魔導省も原因調査に追われている」
エルザは羊皮紙を閉じた。
「でも結論は分かっています」
「ああ」
アルベールも頷く。
「結界の消失だ」
窓の外では子どもたちの笑い声が聞こえていた。
平和な王都の風景。
しかし国の東部では確実に異変が広がっている。
それを思うと胸が重くなる。
アルベールはしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「エルザ」
「はい」
「私は正式な調査を行った」
その声は皇太子としてのものだった。
「君の研究記録も確認した」
「そうですか」
「魔導省の上級研究員十七名に分析させた」
エルザは少し驚いた。
かなり大規模な調査だ。
「結果は?」
アルベールは真っ直ぐ彼女を見る。
「全員が同じ結論に達した」
そこで一度言葉を区切った。
「君のドレスは衣服ではない」
エルザは黙って聞く。
「国家防衛資産だ」
静かな声だった。
だが重みがあった。
エルザは目を伏せる。
自分自身ではそう考えていなかった。
ただ必要だから作っただけだった。
領民を守るため。
魔物被害を減らすため。
それだけだった。
アルベールは続ける。
「王国全体で見ても同等品は存在しない」
「……」
「一地方領主が保有していい技術ではなかった」
エルザは苦笑した。
「今さらですね」
「その通りだ」
アルベールも苦笑する。
「私ももっと早く動くべきだった」
珍しく後悔の色が見えた。
だがエルザは首を横に振る。
「殿下のせいではありません」
「そう言ってくれると助かる」
アルベールは深く息を吐いた。
そして最も重要な質問を口にする。
「再現は可能か?」
工房の空気が変わった。
エルザは少し考える。
そして首を横に振った。
「不可能です」
アルベールは目を閉じた。
予想していた答えだったのだろう。
「理由を聞いてもいいか」
「もちろんです」
エルザは棚から小箱を取り出した。
中には銀色に輝く糸が一本だけ残されていた。
月光を閉じ込めたような美しい糸だった。
「これが聖獣の糸です」
アルベールが目を見開く。
「それが?」
「はい」
エルザは頷く。
「絶滅したとされる聖獣フェンリスの毛から作られた特殊素材です」
「残っていたのか」
「一本だけ」
エルザは静かに笑った。
「ドレス一着を作るのに全て使いました」
つまり。
もう存在しない。
アルベールも理解した。
「世界に一着だけか」
「そうなります」
沈黙が落ちる。
窓から吹き込む風が図面を揺らした。
遠くで鐘が鳴る。
王都の日常は変わらない。
だが二人が話している内容は国家の根幹に関わる問題だった。
やがてアルベールは背筋を伸ばした。
その表情から迷いが消える。
「ならば結論は一つだ」
皇太子の声だった。
エルザは彼を見る。
「君を王宮へ迎える」
「……」
「王宮直属の魔導師として」
工房が静まり返る。
その言葉の意味は大きい。
王宮魔導師。
王国最高峰の研究者たちが所属する組織。
名誉も権限も資金も与えられる。
だが同時に自由も減る。
エルザはすぐに返事をしなかった。
窓の外を見る。
王都の街並み。
市場。
人々。
工房。
ようやく手に入れた穏やかな生活。
失いたくない気持ちもあった。
「迷うか?」
アルベールが尋ねる。
「少しだけ」
正直に答えた。
アルベールは頷く。
「当然だ」
「自由は好きです」
「知っている」
「研究も好きです」
「それも知っている」
エルザは思わず笑った。
本当に昔から変わらない。
アルベールは続ける。
「だからこそ来てほしい」
「どうしてですか?」
「王国には君が必要だからだ」
その言葉に嘘はなかった。
打算もなかった。
ただ真実だけがあった。
「東部だけではない」
アルベールは言う。
「北も西も危険だ」
「……」
「君の技術なら救える人がいる」
エルザは目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは領民たちの顔だった。
庭師。
農民。
子どもたち。
クララ。
病に苦しむ人々。
守れたはずの人たち。
もし王宮へ行けば、もっと多くの人を守れるかもしれない。
それは確かだった。
しばらく考えた後、エルザはゆっくり顔を上げた。
「条件があります」
アルベールが笑う。
「聞こう」
「研究への干渉は禁止」
「認める」
「成果の横取りも禁止」
「当然だ」
「予算は十分に」
「財務大臣を泣かせるくらい出そう」
思わず吹き出してしまった。
「殿下」
「なんだ?」
「それは少し楽しそうですね」
「だろう?」
二人は笑った。
そしてエルザは改めて姿勢を正した。
迷いは消えていた。
「お受けします」
アルベールの表情が明るくなる。
「本当か」
「はい」
エルザは静かに頷いた。
「王宮魔導師の任をお受けします」
その瞬間。
王国の未来は大きく動き始めた。
そして遠く離れた伯爵家では、まだ誰一人として、自分たちが切り捨てた娘の価値を理解していなかった。




