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第3話 守護の消失

第3話 守護の消失


 エルザが伯爵家を去ってから五日が過ぎていた。


 初夏の陽気に包まれていたはずの屋敷には、どこか重苦しい空気が漂っていた。


 朝食の時間。


 伯爵家の食堂には焼きたてのパンの香りが広がっている。銀の皿には厚切りのベーコンと目玉焼き、彩りの良いサラダが並び、紅茶からは湯気が立ち上っていた。


 しかし、その食卓に以前のような華やかさはない。


「最近、パンの味が落ちたわね」


 マリアが不満そうに眉をひそめた。


「申し訳ございません」


 料理長が頭を下げる。


「どうも小麦の状態が良くなく……」


「言い訳はいりません」


 マリアは冷たく言い放った。


「伯爵家の食卓なのよ」


「はっ」


 料理長はさらに頭を下げた。


 ミナはそんな様子を気にも留めず、蜂蜜を塗ったパンを口に運んでいた。


「お母様、今日の午後は街へ行きたいですわ」


「いいわよ。新しいドレスも見ましょうか」


「本当ですか!」


 ミナは嬉しそうに笑う。


 その笑顔を見てマリアも満足げに頷いた。


 エルザのことなど、すでに二人の頭から消えかけていた。


 むしろ面倒な娘がいなくなって清々しているくらいだった。


 だが、その日の昼頃から異変が起き始める。


 庭師の一人が高熱を出して倒れた。


「熱が四十度近くあります!」


「ただの風邪ではないのか?」


「分かりません!」


 屋敷内が慌ただしくなる。


 だが不思議なことに、それは始まりに過ぎなかった。


 翌日には馬番が体調を崩した。


 さらに洗濯係の女性が原因不明の頭痛を訴えた。


 三日後には執事補佐が寝込んだ。


「おかしい……」


 執事長のロイドは青ざめていた。


「一度にこんなに病人が出るなど聞いたことがない」


 屋敷の空気が変わっていた。


 目には見えない。


 だが確実に変わっている。


 窓を開けるたびに妙な湿気が流れ込んでくる。


 夜になると肌寒さが増す。


 廊下を歩いているだけで妙な疲労感を覚える。


 そして庭にも変化が現れ始めた。


「どういうことだ……」


 庭師たちは呆然としていた。


 丹精込めて育てていた薔薇が黒ずみ始めている。


 葉が変色し、花弁が萎れていく。


 つい先日まで鮮やかだった花壇が、まるで秋の終わりのように色を失っていた。


「病気でしょうか」


「違うな」


 老庭師が首を振る。


「何十年も土を見てきたが、こんな枯れ方は初めてだ」


 誰も原因が分からなかった。


 そして最悪の事態は、その翌朝に起きた。


 ミナが倒れたのである。


「きゃあああっ!」


 侍女の悲鳴が屋敷中に響いた。


 マリアが駆けつけると、ミナは寝室の床に倒れていた。


 薄桃色の寝間着姿のまま、苦しそうに胸を押さえている。


「ミナ!」


 マリアは慌てて抱き起こした。


 娘の身体は異様に熱い。


 額には大量の汗が浮かび、唇は青白くなっていた。


「お母様……」


 ミナの声はかすれていた。


「苦しい……」


「どうしたの!? しっかりなさい!」


「息が……」


 ミナは胸元を押さえながら荒い呼吸を繰り返す。


 その姿にマリアの顔から血の気が引いた。


 これは仮病ではない。


 本当に苦しんでいる。


「医者を呼びなさい! 今すぐ!」


 屋敷中が大騒ぎになった。


 一時間後。


 領内で最も優秀な医師が到着した。


 だが診察を終えた彼の顔は険しい。


「先生、娘は!?」


 マリアが詰め寄る。


「原因が分かりません」


「は?」


「熱は高い。脈も乱れている。しかし病気らしい病気が見当たらないのです」


「そんな馬鹿な!」


 マリアは叫んだ。


「なら治してください!」


「私にも限界があります」


 医師は困惑していた。


「これほど奇妙な症状は初めて見ます」


 マリアは激しく頭を振る。


 認めたくなかった。


 娘はずっと健康だった。


 風邪ひとつひかなかった。


 それなのに、なぜ突然こんなことになるのか。


 その夜。


 ミナの容態はさらに悪化した。


 高熱。


 頭痛。


 呼吸困難。


 身体中の倦怠感。


 まるで何かに生命力を吸われているようだった。


「お母様……助けて……」


 涙を浮かべる娘の手を握りながら、マリアは震えていた。


「大丈夫よ」


「お母様……」


「絶対に大丈夫」


 そう言いながら、自分自身が信じられていなかった。


 翌朝。


 さらに悪い知らせが届く。


「奥様!」


 執事長ロイドが飛び込んできた。


「何事です!」


「東側の村で魔物が出現しました!」


「魔物!?」


「はい。村の外周に現れたそうです」


 マリアは目を見開いた。


 その報告は異常だった。


 この領地では長年、大規模な魔物被害が発生していない。


 それが伯爵家の誇りでもあった。


 だがロイドの報告は終わらない。


「さらに北の森でも異常な魔力反応が確認されました」


「そんな……」


「領民たちも不安がっています」


 マリアは椅子に座り込んだ。


 何かがおかしい。


 本当におかしい。


 まるで目に見えない何かが崩れ落ちているようだった。


 その時だった。


 ふと脳裏に浮かんだ顔がある。


 銀色の髪。


 静かな青い瞳。


 いつも地味な服ばかり着ていた娘。


 エルザ。


 そしてあの日の言葉。


『それは国境です』


『そのドレスは伯爵領を守る結界そのものです』


 マリアは首を振った。


「馬鹿らしい」


 そんなはずがない。


 ただのドレスだ。


 ただの布だ。


 そんなものが領地を守るはずがない。


 だが胸の奥に、小さな不安が芽生えていた。


 もし。


 もしも本当だったら。


 その考えを振り払おうとした瞬間だった。


「お母様!」


 ミナの悲鳴が響く。


 慌てて寝室へ駆け込むと、娘は苦しそうに身体を丸めていた。


「痛い……!」


「ミナ!」


「怖い……!」


 マリアは娘を抱き締めた。


 だが何もできない。


 治せない。


 守れない。


 その瞬間、マリアは初めて理解した。


 自分たちは何かに守られていたのだと。


 それが何であれ、今はもう存在しないのだと。


 窓の外では黒く変色した薔薇の花弁が風に散っていた。


 失われた守護は戻らない。


 そして伯爵家の崩壊は、まだ始まったばかりだった。



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