第2話 静かなる決別
第2話 静かなる決別
その夜、エルザの部屋には静かな雨音が響いていた。
昼間まで晴れていた空はいつの間にか曇り、窓ガラスを細かな雨粒が叩いている。庭の薔薇も雨に濡れ、月明かりの下でうなだれて見えた。
エルザは机の前に座り、切り裂かれた純白の布を膝の上に広げていた。
昼間の光景が何度も脳裏をよぎる。
継母マリアの笑顔。
無邪気に喜んでいたミナ。
そして、ためらいなく振り下ろされた鋏。
布地を撫でる指先に、かつて流れていた魔力の残滓がかすかに残っている。
しかし、それだけだった。
断ち切られた回路はもう戻らない。
何百層にも重ねた術式は崩壊し、魔法構造は完全に死んでいた。
まるで焼け落ちた建物の瓦礫を眺めているような気分だった。
エルザは静かに布を畳む。
涙は出なかった。
不思議なほど心は静かだった。
怒りも悲しみも、昼間のうちにどこかへ置いてきてしまったらしい。
残っているのは理解だけだった。
ここにはもういられない。
ただ、それだけだ。
コンコン、と扉が叩かれた。
「お嬢様」
聞き慣れた声だった。
「入って」
扉が開き、年老いた侍女のクララが姿を見せた。
白髪交じりの髪をきちんとまとめ、黒い使用人服を着ている。
エルザが幼い頃から仕えてくれている人物だった。
クララは部屋の様子を見るなり顔を曇らせた。
「やはり、お休みになっていらっしゃらなかったのですね」
「少し片付けをしていただけよ」
エルザは微笑んだ。
しかしクララは騙されない。
切り裂かれた布の山を見て、目を伏せた。
「お嬢様……申し訳ございません」
「どうしてクララが謝るの?」
「止められませんでした」
「仕方ないわ」
エルザは首を振る。
「クララのせいではないもの」
しばらく沈黙が流れた。
暖炉では薪が静かに燃えている。
雨音が部屋を満たしていた。
やがてクララが小さな声で言った。
「お嬢様は、お屋敷を出られるおつもりですね」
エルザは少し驚いた。
「分かるの?」
「ええ」
クララは苦笑した。
「二十年以上お仕えしておりますから」
エルザも少しだけ笑った。
「そうね」
否定する気にはなれなかった。
「出ていくわ」
クララは目を閉じた。
まるで覚悟していた答えを聞いたようだった。
「引き止めても無駄でしょうか」
「ええ」
「そうですか」
暖炉の火がぱちりと弾けた。
クララはしばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開く。
「お嬢様」
「なあに?」
「本当は皆、知っているのです」
エルザは首を傾げた。
「何を?」
「この領地を守っているのが誰なのかを」
クララの目には涙が滲んでいた。
「庭師も料理人も馬番も、皆知っています」
「……」
「お嬢様が徹夜で研究なさっていることも。領民の病が減ったことも。魔物が寄り付かなくなったことも」
エルザは視線を落とした。
誰にも理解されていないと思っていた。
けれど、そうではなかったらしい。
「ただ、旦那様と奥様だけが見ようとしなかったのです」
その言葉に胸が少し痛んだ。
父は昔は違った。
母が亡くなるまでは優しい人だった。
だが再婚してから変わった。
面倒事を避けるようになり、マリアの言葉に逆らわなくなった。
そしていつしか、エルザを見ることすらなくなった。
「クララ」
「はい」
「私は怒っていないの」
クララは驚いた顔をした。
「怒っていない?」
「ええ」
エルザは暖炉の火を見つめる。
「怒る価値もないのよ」
クララは言葉を失った。
それは怒りよりも重い言葉だった。
期待していなければ失望もしない。
信頼していなければ裏切られもしない。
つまり、エルザはもう家族に何も期待していないのだ。
クララにもそれが分かった。
「お嬢様……」
「もう限界だったの」
エルザは静かに言う。
「今日壊されたのはドレスじゃないわ」
「……」
「信頼だったの」
その言葉は雨音より静かだった。
けれど重かった。
クララは何も言えなかった。
しばらくして夕食が運ばれてきた。
温かな野菜スープ。
焼きたての黒パン。
香草で味付けした鶏肉のロースト。
普段と変わらない食事だった。
だがエルザには、これが最後の晩餐のように思えた。
「クララも一緒に食べましょう」
「そんな」
「お願い」
結局、二人で食卓についた。
湯気の立つスープからは玉ねぎの甘い香りが漂う。
パンは外が香ばしく、中はふんわりしていた。
エルザはゆっくり味わった。
懐かしい味だった。
幼い頃から食べ続けてきた味。
もう二度と食べないかもしれない味。
「美味しいわね」
「ありがとうございます」
クララは泣きそうな顔で笑った。
食事を終えた頃には夜も更けていた。
エルザは小さな旅行鞄を取り出した。
替えの服を数着。
研究ノート。
最低限の工具。
それだけを詰める。
驚くほど荷物は少なかった。
この屋敷に、持ち出したいものなどほとんど残っていなかったからだ。
深夜。
雨は止んでいた。
雲の切れ間から月が顔を覗かせている。
エルザは外套を羽織った。
紺色の質素なワンピースに灰色のマント。
貴族令嬢とは思えないほど地味な格好だった。
だが今の彼女にはそれで十分だった。
玄関ホールには誰もいない。
皆眠っている。
あるいは気づいていても来ないのかもしれない。
エルザは最後に振り返った。
豪華な屋敷。
長い廊下。
大理石の階段。
幼い頃の思い出が詰まった場所。
けれど不思議と未練はなかった。
「さようなら」
誰に向けた言葉でもない。
屋敷に向けた別れだった。
その時だった。
背後から小さな声が聞こえた。
「お気をつけて、お嬢様」
振り返ると、クララが立っていた。
涙を流しながら笑っている。
エルザも微笑んだ。
「行ってくるわ」
「はい」
「元気でね」
「お嬢様も」
エルザは扉を開いた。
夜風が頬を撫でる。
遠くで梟が鳴いた。
月明かりの下へ一歩踏み出す。
その瞬間、胸の奥に張りついていた何かが剥がれ落ちた気がした。
自由だった。
もう誰にも壊されない。
もう誰にも踏みにじられない。
エルザは前を向く。
そして静かに歩き始めた。
その背後で、伯爵家の運命を支えていた最後の守護者が去っていくことに、まだ誰一人として気づいていなかった。




