表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/11

第2話 静かなる決別

第2話 静かなる決別


 その夜、エルザの部屋には静かな雨音が響いていた。


 昼間まで晴れていた空はいつの間にか曇り、窓ガラスを細かな雨粒が叩いている。庭の薔薇も雨に濡れ、月明かりの下でうなだれて見えた。


 エルザは机の前に座り、切り裂かれた純白の布を膝の上に広げていた。


 昼間の光景が何度も脳裏をよぎる。


 継母マリアの笑顔。


 無邪気に喜んでいたミナ。


 そして、ためらいなく振り下ろされた鋏。


 布地を撫でる指先に、かつて流れていた魔力の残滓がかすかに残っている。


 しかし、それだけだった。


 断ち切られた回路はもう戻らない。


 何百層にも重ねた術式は崩壊し、魔法構造は完全に死んでいた。


 まるで焼け落ちた建物の瓦礫を眺めているような気分だった。


 エルザは静かに布を畳む。


 涙は出なかった。


 不思議なほど心は静かだった。


 怒りも悲しみも、昼間のうちにどこかへ置いてきてしまったらしい。


 残っているのは理解だけだった。


 ここにはもういられない。


 ただ、それだけだ。


 コンコン、と扉が叩かれた。


「お嬢様」


 聞き慣れた声だった。


「入って」


 扉が開き、年老いた侍女のクララが姿を見せた。


 白髪交じりの髪をきちんとまとめ、黒い使用人服を着ている。


 エルザが幼い頃から仕えてくれている人物だった。


 クララは部屋の様子を見るなり顔を曇らせた。


「やはり、お休みになっていらっしゃらなかったのですね」


「少し片付けをしていただけよ」


 エルザは微笑んだ。


 しかしクララは騙されない。


 切り裂かれた布の山を見て、目を伏せた。


「お嬢様……申し訳ございません」


「どうしてクララが謝るの?」


「止められませんでした」


「仕方ないわ」


 エルザは首を振る。


「クララのせいではないもの」


 しばらく沈黙が流れた。


 暖炉では薪が静かに燃えている。


 雨音が部屋を満たしていた。


 やがてクララが小さな声で言った。


「お嬢様は、お屋敷を出られるおつもりですね」


 エルザは少し驚いた。


「分かるの?」


「ええ」


 クララは苦笑した。


「二十年以上お仕えしておりますから」


 エルザも少しだけ笑った。


「そうね」


 否定する気にはなれなかった。


「出ていくわ」


 クララは目を閉じた。


 まるで覚悟していた答えを聞いたようだった。


「引き止めても無駄でしょうか」


「ええ」


「そうですか」


 暖炉の火がぱちりと弾けた。


 クララはしばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開く。


「お嬢様」


「なあに?」


「本当は皆、知っているのです」


 エルザは首を傾げた。


「何を?」


「この領地を守っているのが誰なのかを」


 クララの目には涙が滲んでいた。


「庭師も料理人も馬番も、皆知っています」


「……」


「お嬢様が徹夜で研究なさっていることも。領民の病が減ったことも。魔物が寄り付かなくなったことも」


 エルザは視線を落とした。


 誰にも理解されていないと思っていた。


 けれど、そうではなかったらしい。


「ただ、旦那様と奥様だけが見ようとしなかったのです」


 その言葉に胸が少し痛んだ。


 父は昔は違った。


 母が亡くなるまでは優しい人だった。


 だが再婚してから変わった。


 面倒事を避けるようになり、マリアの言葉に逆らわなくなった。


 そしていつしか、エルザを見ることすらなくなった。


「クララ」


「はい」


「私は怒っていないの」


 クララは驚いた顔をした。


「怒っていない?」


「ええ」


 エルザは暖炉の火を見つめる。


「怒る価値もないのよ」


 クララは言葉を失った。


 それは怒りよりも重い言葉だった。


 期待していなければ失望もしない。


 信頼していなければ裏切られもしない。


 つまり、エルザはもう家族に何も期待していないのだ。


 クララにもそれが分かった。


「お嬢様……」


「もう限界だったの」


 エルザは静かに言う。


「今日壊されたのはドレスじゃないわ」


「……」


「信頼だったの」


 その言葉は雨音より静かだった。


 けれど重かった。


 クララは何も言えなかった。


 しばらくして夕食が運ばれてきた。


 温かな野菜スープ。


 焼きたての黒パン。


 香草で味付けした鶏肉のロースト。


 普段と変わらない食事だった。


 だがエルザには、これが最後の晩餐のように思えた。


「クララも一緒に食べましょう」


「そんな」


「お願い」


 結局、二人で食卓についた。


 湯気の立つスープからは玉ねぎの甘い香りが漂う。


 パンは外が香ばしく、中はふんわりしていた。


 エルザはゆっくり味わった。


 懐かしい味だった。


 幼い頃から食べ続けてきた味。


 もう二度と食べないかもしれない味。


「美味しいわね」


「ありがとうございます」


 クララは泣きそうな顔で笑った。


 食事を終えた頃には夜も更けていた。


 エルザは小さな旅行鞄を取り出した。


 替えの服を数着。


 研究ノート。


 最低限の工具。


 それだけを詰める。


 驚くほど荷物は少なかった。


 この屋敷に、持ち出したいものなどほとんど残っていなかったからだ。


 深夜。


 雨は止んでいた。


 雲の切れ間から月が顔を覗かせている。


 エルザは外套を羽織った。


 紺色の質素なワンピースに灰色のマント。


 貴族令嬢とは思えないほど地味な格好だった。


 だが今の彼女にはそれで十分だった。


 玄関ホールには誰もいない。


 皆眠っている。


 あるいは気づいていても来ないのかもしれない。


 エルザは最後に振り返った。


 豪華な屋敷。


 長い廊下。


 大理石の階段。


 幼い頃の思い出が詰まった場所。


 けれど不思議と未練はなかった。


「さようなら」


 誰に向けた言葉でもない。


 屋敷に向けた別れだった。


 その時だった。


 背後から小さな声が聞こえた。


「お気をつけて、お嬢様」


 振り返ると、クララが立っていた。


 涙を流しながら笑っている。


 エルザも微笑んだ。


「行ってくるわ」


「はい」


「元気でね」


「お嬢様も」


 エルザは扉を開いた。


 夜風が頬を撫でる。


 遠くで梟が鳴いた。


 月明かりの下へ一歩踏み出す。


 その瞬間、胸の奥に張りついていた何かが剥がれ落ちた気がした。


 自由だった。


 もう誰にも壊されない。


 もう誰にも踏みにじられない。


 エルザは前を向く。


 そして静かに歩き始めた。


 その背後で、伯爵家の運命を支えていた最後の守護者が去っていくことに、まだ誰一人として気づいていなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ