第17話 王都を喰らう結界
第17話 王都を喰らう結界
公開実験の日、王都中央広場には夜明け前から人が集まっていた。パン屋は焼きたての胡桃パンを籠に積み、果物売りは赤い林檎を布で磨き、見物客へ声を張り上げている。噴水のそばでは、母親に着せてもらった黄色い上着の少年が蜂蜜菓子を握りしめ、肩車をしている父親の髪へ粉砂糖を落としていた。空は薄い雲に覆われていたが雨はなく、各国の使節が乗ってきた馬車の車輪から、乾いた土の匂いが立っていた。
「お父さん、聖女様は空を飛ぶの?」
「飛びはしないだろう。だが、王都を丸ごと守る壁を作るそうだ」
「壁なら見えないんでしょう?」
「今日は特別に、光って見えるようにするらしいぞ」
少年は食べかけの蜂蜜菓子を父親の口へ押し込み、もっとよく見ようと身を乗り出した。広場の中央には白い石で造られた円形の演壇があり、その上へ巨大な結界装置が据えられている。金色に塗られた外枠には翼と麦の穂が彫られ、中央には人間の背丈ほどもある青い魔石が埋め込まれていた。見栄えはよかったが、裏側では何本もの魔力管が絡まり、急いで塗った金色の塗料から油の匂いがしていた。
グランツ公爵は濃い紫色の礼服を着て、演壇の最も高い場所に立っていた。胸には軍務を統括する者だけが着けられる黄金の勲章が並び、磨き上げられた長靴には曇り一つない。朝食に出された子羊の香草焼きをほとんど残したため腹が鳴ったが、公爵は咳払いで音を隠し、各国の使節へ笑顔を向けた。この結界が成功すれば、エルザの研究は中止され、王国の防衛予算はこれまでどおり自分と関係の深い工房へ流れる。
「本日、皆様は王国の新しい時代を目撃することになります」
拡声の魔導具を通した公爵の声が、広場の建物へ反響した。市民たちは話をやめ、使節たちも通訳へ顔を寄せる。公爵は両手を広げ、背後に立つ白いドレスの少女を見せた。
「神託を受けた聖女セシリアが、天より授けられた知識によって完成させた新結界です。この結界がある限り、いかなる魔獣も、いかなる敵国の魔法も、王都へ近づくことはできません」
セシリアは銀糸を縫い込んだ白いドレスを着せられ、髪には青い宝石の冠を載せられていた。昨日こぼした野菜の煮汁の染みは、袖へ新しい刺繍を縫いつけて隠されている。朝から口にできたのは薄い山羊乳を半杯だけで、きつく締められた胴衣の下では胃が縮んでいた。香油を塗られた髪から薔薇の匂いがするたび、礼拝堂の厨房でエルザと食べた塩辛い蕪を思い出した。
「顔を上げろ」
背後に立つ公爵家の魔導技師が、観客に聞こえない声で命じた。セシリアは青い魔石の前へ進み、指定された二つのくぼみへ両手を置く。石は冬の井戸水よりも冷たく、指先に触れた瞬間、細い針を刺されたような痛みが走った。
「怖がる必要はない。祈りの言葉を唱えればよい」
「孤児院へ、今朝の食料は届きましたか」
「この場で尋ねることではない」
「薪と薬も届ける約束です」
「成功すれば、すべて届く。失敗したら、おまえのせいだ」
セシリアは唇を結び、観客席の端を見た。エルザの姿は見えない。王城の兵士、商人、貴族、外国の使節が何重にも並び、色鮮やかな帽子と旗が広場を埋めている。逃げれば孤児院の子どもたちが危険にさらされ、ここへ残れば盗まれた結界の罪を着せられる。それでも、昨日エルザから渡された保護証明の写しが、ドレスの内側で肌に触れていた。
「始めなさい、セシリア」
グランツ公爵の命令を受け、セシリアは息を吸った。石のくぼみへ置いた手から魔力を流すと、足元の回路が青白く光り始める。低い振動が演壇を揺らし、装置の中で歯車が回る音と、金属をこする耳障りな音が重なった。広場に立てられた七本の補助柱が順番に輝き、その光は王都の外周へ向かって走っていく。
「天より授けられし守りの力よ、都を覆い、すべての災いを退けたまえ」
最後の言葉を唱えた瞬間、青い光が空へ噴き上がった。光は高い塔よりも上まで伸び、王都を取り囲むように大きく広がる。半透明の壁が頭上で閉じると、市民から歓声が上がり、何人もの使節が立ち上がった。父親に肩車された少年は、半分になった蜂蜜菓子を掲げ、空に浮かぶ青い膜を見上げた。
「見えた! 本当に壁ができた!」
「聖女様だ!」
「王都が守られたぞ!」
グランツ公爵は口元を緩め、両腕を高く上げた。計画どおり、結界は起動した。エルザが外国の禁術を用いたという噂も十分に広まり、これで平民の研究者へ国防を任せようとする者はいなくなる。公爵は使節たちの驚いた顔を順番に眺め、勝者として声を張り上げた。
「ご覧いただけましたでしょう! これこそ、聖女セシリアが生み出した神聖なる結界です! 王都の防衛は、今日このときをもって完成しました!」
拍手と歓声が広場を満たした。その音に紛れて、結界装置の内部から細い亀裂の走る音がした。セシリアは手を離そうとしたが、指が青い魔石へ吸いつき、動かない。掌の下から伸びた光の線が手首を囲み、皮膚の内側へ熱い糸を通されるような痛みが走った。
「終わりました。手を離してもよいのですか」
「何をしている。早く離せ」
「離れません」
「そんなはずはない。力を抜け」
「抜いています。もう魔力を送っていないのに、装置が勝手に吸っています」
公爵家の魔導技師が制御盤へ駆け寄り、停止用の銀色の取っ手を引いた。しかし取っ手は赤い光を放つだけで、内部の歯車は回り続ける。装置の振動は次第に大きくなり、演壇に置かれた水差しが倒れた。水は白い布の上を流れ、グランツ公爵の磨かれた長靴を濡らした。
「止めろ」
「停止命令を受け付けません」
「もう一度やれ!」
「三度試しました!」
「設計図には安全装置があったはずだ!」
「安全装置の記号がどれか、私どもには……」
そのとき、広場を照らしていた魔導灯が一斉に消えた。昼間なので最初は気づかない者もいたが、灯りを覆っていた硝子の中から、青い魔力の火が吸い出されて空へ昇っていく。光の筋は頭上の結界へ触れ、巨大な壁の一部となった。屋台の加熱石も止まり、鍋で煮ていた肉と豆のスープから、急に湯気が消えた。
「おい、火が消えたぞ」
「肉がまだ生煮えだ。誰か予備の炭を持っていないか」
「うちの屋台だけじゃない。向こうのパン窯も止まっている」
「結界の実験と関係があるのか?」
広場から二つ先の通りにある治療院では、白い前掛けを着た看護師が、朝食用の粥を運んでいた。干した薬草と消毒薬の匂いが残る病室で、回復装置につながれた老人が静かに眠っている。看護師が粥の椀を卓上へ置いた瞬間、装置の緑色の光が消え、呼吸を助けていた魔力管がしぼんだ。
「先生、回復装置が止まりました!」
「予備の魔石へ切り替えろ」
「切り替わりません。予備の魔力まで吸われています」
「手動の器具を持ってこい。寝台を窓際へ移すんだ」
「全部の病室で同じことが起きています!」
医師は白衣の裾を持ち上げて廊下を走り、看護師は粥を床へこぼした。温かい米と薬草茶の匂いが広がったが、誰も片づける余裕はない。治療院の屋根からは、緑色の魔力が糸のように抜け出し、中央広場へ向かって流れていた。
王都北部の共同給水所でも、蛇口から出ていた水が急に細くなった。洗濯桶を抱えた女性たちは、泡の付いた下着や子どもの靴下を手にしたまま、止まった給水設備を見上げる。朝から煮洗いした布は石鹸の匂いを残し、すすぐ前なので触るとぬるぬるしていた。給水塔に埋め込まれた浄化石の光も消え、そこから青い魔力が空へ吸い上げられていく。
「また故障なの?」
「昨日、点検したばかりだよ」
「井戸水をくんでこないと。うちは昼に豆を煮るんだから」
「待ちな、結界を見てごらん。あそこへ光が流れているよ」
女性の一人が濡れた手で空を指した。青い光の壁は先ほどより濃くなり、太陽の光まで遮り始めている。王都を守るはずの結界が、街の灯りと水と治療の力を取り込み、太っていくように膨らんでいた。
城門では、荷馬車を通していた兵士が制御装置の異常に気づいた。開いていた巨大な門扉が途中で止まり、林檎を満載した荷馬車の後部を挟み込む。木箱が傾き、赤い林檎が石畳へ転がった。御者は慌てて馬をなだめたが、驚いた馬は鼻息を荒くし、革の手綱を引きちぎろうとした。
「門を上げろ! 馬車が挟まっている!」
「制御盤が動きません!」
「手回しの鎖を使え!」
「鎖まで固定されています!」
「林檎を先に下ろせ。馬が暴れる前に荷を軽くしろ!」
転がった林檎を兵士たちが拾う間にも、城門の制御装置から魔力が抜けていった。見張り塔の警報具も止まり、外側にいる者へ異常を知らせる鐘さえ動かない。王都の内側では、生活を支えていた魔導具が次々と沈黙していた。
中央広場でも、市民たちの歓声は消えていた。各国の使節は護衛に囲まれ、馬車へ戻ろうとしている。しかし魔力で動く馬車は車輪を固定されたまま動かず、御者たちは予備の馬を連れてくるよう叫んでいた。広場の噴水も止まり、縁から落ちていた最後の水滴が、黄色い上着の少年の靴へ跳ねた。
「お父さん、壁が暗くなっているよ」
「ここを離れるぞ。菓子はしまいなさい」
「聖女様はどうするの?」
「いいから、父さんの首につかまれ」
父親は少年を肩から下ろし、人の少ない横道へ向かおうとした。しかし広場の出口には見物客が殺到し、互いの肩や籠がぶつかっている。パン屋の籠が倒れ、胡桃パンが石畳へ散った。焼けた小麦の匂いを踏みつける靴の音と、泣き出した子どもの声が重なった。
「静まれ! これは一時的な調整だ!」
グランツ公爵が拡声の魔導具へ怒鳴ったが、その魔導具からも光が抜け、声は途中で小さくなった。公爵は道具を床へ投げつけ、装置へ拘束されたセシリアをにらんだ。少女の手首には青い回路が絡みつき、袖の下を這って肩まで伸びている。白いドレスの銀糸も魔力を吸って光り、肌へ張りついていた。
「何をした、セシリア!」
「私は、教えられたとおりにしました」
「祈りの言葉を間違えたのではないか」
「一言も間違えていません」
「ならば、今すぐ止めなさい!」
「止め方など教えられていません!」
セシリアの声が震え、額に浮かんだ汗が白粉を流した。冠から下がった青い宝石も装置につながり、髪を引っ張っている。足を動かそうとすると、床の回路が靴底へ食い込み、焼けた革の匂いがした。
「手が痛い……。腕の中へ何かが入ってきます」
「無理に引き離せ!」
「公爵様、皮膚ごと裂けます」
「構わん。結界を止めるほうが先だ!」
セシリアはその言葉を聞き、魔石に吸いついた指を強く曲げた。公爵にとって、自分は最初から装置の一部にすぎなかったのだと分かった。成功すれば聖女として飾り、失敗すれば偽物として処罰する。昨日の厨房でエルザが言ったことは、一つも間違っていなかった。
「公爵様、この設計図はどこで手に入れたのですか」
「神託によって、おまえが生み出したものだ」
「私は文字も十分に読めません。孤児院では、年下の子に絵本を読むため、夜に少しずつ習っていただけです」
「黙れ!」
「結界を作ったのは私ではありません!」
セシリアの声が広場へ響いた。近くにいた市民が足を止め、使節たちも通訳へ顔を向ける。公爵は演壇の兵士へ少女の口を塞ぐよう命じたが、その瞬間、装置の中央から激しい光が噴き出した。近づいた兵士は胸当ての魔力を吸われ、後ろへ倒れた。
「公爵様、魔力の蓄積量が限界へ近づいています!」
「結界を強制破壊しろ!」
「できません!」
「なぜだ!」
「集めた魔力の逃げ道がありません。いま壁を壊せば、すべての魔力が中央装置へ戻ります!」
「どれほどの爆発になる」
「中央広場だけでは済みません。王城と、その周辺の街区が消し飛びます!」
グランツ公爵は装置から一歩下がった。朝から磨かせた長靴には水と泥が付き、礼服の裾も倒れた水差しの水を吸って重くなっている。自分が立つ演壇の下へ、王都中から吸い取った魔力が集まっていた。勝利を宣言したばかりの場所が、王都を焼き払う爆発の中心になろうとしている。
「設計した技師を呼べ」
「公爵様の工房には、これを設計できる者がおりません」
「レイモンドはどこだ。あの男なら研究所の技師だろう!」
「会場へ来たあと、姿が見えません」
「探し出せ! 家族を捕らえてでも連れてこい!」
「その必要はありません」
人々が振り返ると、広場の南側からエルザが歩いてきた。紺色の作業服の上へ灰色の防護外套を着て、腰には工具と魔力測定器を下げている。髪は後ろで一つに束ねていたが、急いで来たため何本も頬へ張りついていた。その後ろにはノアとレイモンドを含む十二人の技師が並び、分解した補助装置や魔石の箱を手押し車で運んでいた。
「エルザ!」
「道を空けてください。工具箱は見た目より重いのです」
「貴様、この事態を予想していたな!」
「はい。盗まれたのは、内部の魔力を誤って敵と判定する試験用設計図でした」
「それを知りながら、なぜ止めなかった!」
「実験を中止するよう求める報告書を、三度提出しました。公爵閣下は受け取りを拒み、私が聖女の奇跡を妨害しようとしていると評議会へ訴えました」
「口答えをしている場合か! 早く止めろ!」
「まず、広場の市民を避難させます。アルベール殿下、お願いします」
別の通りから王城兵を率いたアルベールが現れ、市民を四方向へ分けて誘導するよう命じた。魔導具が使えないため、兵士たちは旗と肉声で道を示す。転んだ老人を背負う者、迷子になった子どもの手を引く者、石畳へ散らばったパンを端へ寄せる者が動き始めた。黄色い上着の少年は父親に抱かれながら、エルザたちの手押し車を見つめていた。
「お姉さんたちは、聖女様を助けるの?」
「きっと助ける。だから私たちは邪魔にならない場所へ行こう」
「僕の蜂蜜菓子、聖女様にあげたかったな」
「助かったあとで渡せばいい」
エルザは演壇へ上がり、結界装置の状態を確認した。測定器の針は目盛りを振り切り、硝子へ何度も当たって乾いた音を立てている。装置の周囲には熱い空気が渦巻き、焦げた金属と香油の匂いが混ざっていた。セシリアは魔石へ両手を拘束されたまま、歯を食いしばって立っている。
「セシリア、聞こえますか」
「はい」
「指の感覚はありますか」
「少しだけ。でも、右手は熱くて、左手は冷たいです」
「回路が左右から違う性質の魔力を吸っています。無理に動かさないでください」
「私が離れたら、爆発しますか」
「いま引き剥がせば、その可能性があります」
セシリアは唇を震わせたが、逃げようとはしなかった。白いドレスの胸元では、エルザから渡された保護証明が汗で湿り、紙の角が肌へ当たっている。孤児院の子どもたちが王城の保護を受けたことは、今朝レイモンドが届けた短い手紙で知っていた。それでも王都で大勢の人が傷つけば、自分の祈りが原因だと責められるのではないかという考えが、頭から離れなかった。
「エルザ様、私がもっと早く、公爵様の命令を拒んでいれば……」
「あなたが作ったものではありません。ですから、あなたが責任を負う必要もありません」
「でも、私が魔力を注ぎました」
「孤児院への援助を止めると脅されていたのでしょう」
「それでも、この手で動かしました」
「では、その手で生きて帰り、何をされたのか証言してください。責任を負うべき者と、命令に逆らえなかった者を同じ場所へ並べてはいけません」
セシリアは返事の代わりに、小さくうなずいた。頬を流れた汗が顎から落ち、青く光る回路の上で蒸発する。エルザは少女の袖へ触れないよう注意しながら、魔力線が体のどこまで達しているか確認した。
「昨日、二人で逃げると約束しましたね」
「同じ方向へ逃げる約束です」
「覚えていましたか」
「蕪が塩辛かったことも覚えています」
「あれは私のせいではありません」
「水で洗ってまで食べたのは、エルザ様です」
二人の短いやり取りを聞き、近くで補助装置を組み立てていたノアが顔を上げた。こんな状況で蕪の話をしている場合かと言いかけたが、セシリアの肩から少し力が抜けたのを見て口を閉じる。その代わり、工具箱から絶縁用の黒い手袋を取り出し、エルザへ投げた。
「先生、話はあとです。吸収速度が上がっています」
「分かっています。第三測定杭を西へ二歩移動してください」
「そこには公爵家の飾り旗があります」
「抜いてください」
「王家の紋章より大きい、立派な旗ですよ」
「魔力を逃がす役には立ちません」
技師たちは公爵家の旗を引き抜き、代わりに銀色の測定杭を地面へ打ち込んだ。レイモンドは緑色の作業服に革の前掛けを着け、中央装置の裏へ潜り込む。昨日まで仲間の前で顔を上げられなかった青年は、油に汚れた手で配線を一つずつ確認し、盗んだ試験図との違いを叫んだ。
「七番管、異常発熱! 外周へ送るはずの魔力が中央へ戻っています!」
「冷却剤を入れてください!」
「一本では足りません!」
「荷車の下に予備があります。漬物の樽と間違えないでください!」
「どうして漬物を持ってきたんですか!」
「食堂のおばさんが、昼を抜くなと載せたんです!」
ノアが荷車をのぞくと、冷却剤の瓶の隣に胡瓜の塩漬けが入った小樽と、十二人分の黒パンが詰め込まれていた。非常時にも食事を忘れるなという食堂の女主人の紙が貼られ、端には「エルザには必ず二つ食べさせること」と大きく書かれている。ノアは一瞬だけ額を押さえたあと、冷却剤を取り出してレイモンドへ渡した。
「先生、帰ったら黒パンを二つ食べてもらいます」
「帰ってから決めます」
「もう決まっています」
「いまは結界を優先してください」
「食事の話を始めたのは先生です」
魔力の吸収はさらに速くなり、頭上の光の壁が青から紫へ変わった。遠くで建物の窓硝子が震え、広場の石畳には中央装置へ向かって細い亀裂が走る。グランツ公爵は兵士の後ろへ下がりながら、エルザたちの作業を見ていた。自分が集めた工房の技師は装置へ近づくことさえできないのに、十二人の技師は短い指示だけで動いている。
「強制破壊はまだできないのか」
「できません」
「では、魔力を外へ放出しろ」
「一点から放出すれば、王都の外壁を破壊します」
「ならば、どうするつもりだ!」
エルザは中央装置の下へ測定器を置き、十二人の技師を見渡した。正規の分散式結界は翌日に起動する予定であり、七つの中継塔では最終点検が一部残っている。特に北東塔の調整弁は一度交換したばかりで、最大出力に耐えられる保証がなかった。それでも、この場に集まった魔力を七方向へ分散し、王都の外へ流すには、正規の結界を使うしかない。
「先生、予定どおり明日まで待つことはできません」
「分かっています」
「北東塔は、まだ最終試験をしていません」
「起動しながら調整します」
「そんな無茶なやり方、設計書のどこにも書いてありませんよ」
「いま書き加えます」
エルザは腰の鞄から折り畳んだ帳面を取り出した。表紙には昼食のスープをこぼした染みがあり、何度も開いた角は丸くなっている。彼女は演壇へ膝をつき、震える床の上で新しい魔力経路を書き始めた。線が揺れるたびに書き直し、余白がなくなると、先月の食堂の献立が記された頁の裏まで使った。
「また数字が大きすぎます!」
「見やすいでしょう」
「最後の二行が入りません!」
「下へ継ぎ足してください」
「帳面に紙を貼る糊がありません!」
「焼き菓子の蜂蜜ならあります」
「それは朝から見物していた子どものものです!」
ノアが叫んだとき、避難途中の黄色い上着の少年が父親の腕から身を乗り出した。手にはまだ半分残った蜂蜜菓子がある。事情を聞いた父親が止める前に、少年は兵士へ菓子を渡した。
「これ、使って! 聖女様を助けるんでしょう?」
兵士から受け取ったノアは、一度だけ菓子を見つめたあと、蜂蜜を指で取り、継ぎ足した紙を帳面へ貼った。砂糖の粒が計算式へ付いたが、今は気にしていられない。エルザは少年へ片手を上げ、すぐに計算へ戻った。
「ノア、北東塔へこの数値を送ってください」
「通信魔導具は止まっています」
「伝令を走らせます。馬は使えますか」
「普通の馬なら動きますが、通りは避難する人でいっぱいです」
「屋根の上を走れる者がいます」
アルベールが呼ぶと、軽装の王城斥候が三人進み出た。彼らは数値を書いた紙を防水袋へ入れ、建物の屋根と城壁の通路を使って中継塔へ向かう。ほかの四つの塔には狼煙で起動時刻を知らせ、残る二つには鐘の回数で指示を送ることになった。便利な魔導具がすべて止まった王都で、人の足と煙と鐘が再び働き始めた。
「エルザ、本当に起動できるのか」
アルベールが低い声で尋ねた。エルザは帳面を閉じ、黒い絶縁手袋をはめる。手袋の指先には以前の実験で焼けた穴があり、ノアが急いで補修布を巻いた。
「完成度は九十六パーセントです」
「残りの四パーセントは?」
「いま、十二人で補います」
「失敗した場合は?」
「中央装置が爆発する前に、私が吸収回路を切ります」
「それをすれば、君の体へ魔力が流れる」
「だから、失敗しないよう手伝ってください」
アルベールは反論しようとしたが、エルザの目が演壇の周囲にいる技師たちへ向いていることに気づいた。十二人はそれぞれ工具を握り、エルザの次の指示を待っていた。盗みに加担したレイモンドも、壊れかけた冷却管を両腕で支え、顔へ油を付けたまま立っている。誰か一人を英雄に仕立てて王都を守らせるのではなく、各自が自分の持ち場を支えるために作られたのが、分散式結界だった。
「皆さん、聞いてください」
エルザは装置の上へ立ち、十二人の技師へ声をかけた。市民の避難を手伝っていた兵士や、広場に残った各国の使節も彼女を見る。頭上では偽の結界が王都の魔力を吸い続け、青紫色の光が重く垂れ下がっていた。
「試験はまだ終わっていません。調整の済んでいない塔もあります。ですが、この偽の結界を安全に止めるには、吸い取られた魔力を七つの中継塔へ分けて流す必要があります」
「先生、中央接続は私が担当します」
レイモンドが最初に答えた。彼の革の前掛けには冷却剤が染み、片方の袖は熱で焦げている。
「俺が盗んだ設計図です。最後までここに残ります」
「一人で責任を背負わないでください。中央接続には三人必要です」
「なら、僕も残ります」
「私もです。レイモンド一人だと、また昼食を弟妹へ持ち帰って倒れますから」
「今それを言うのか?」
「戻ったら豆料理を食べてもらうためです」
技師たちの声が続き、配置が次々と決まった。ノアは制御盤、レイモンドたち三人は中央接続、残りは七方向の魔力分配を担当する。エルザは最後にセシリアのそばへ立ち、青い魔石へ吸いついた少女の手へ、自分の手袋を重ねた。
「少し熱くなります。私の声だけを聞いてください」
「はい」
「祈りの言葉は必要ありません。息をゆっくり吐いてください」
「エルザ様は、どこへ逃げるのですか」
「あなたと同じ方向です」
「それなら、置いていかないでください」
「置いていきません」
セシリアは目を閉じ、薔薇の香油と焦げた回路の匂いの中で、ゆっくり息を吐いた。エルザは少女の体へ食い込んだ光の線を確認し、切り離す順番を頭の中で数える。一本でも順番を間違えれば、魔力はセシリアの心臓へ流れ込む。それでも、十二人の技師が所定の位置へ着き、七つの中継塔から準備完了を知らせる煙が上がり始めた。
「全員、持ち場を確認してください」
「中央接続、準備完了!」
「第一分配路、準備完了!」
「第二分配路、いつでもいけます!」
「北東塔から赤い煙! 調整弁の固定が終わりました!」
エルザは頭上の結界を見上げた。王都を守ると宣言された光の壁は、市民の暮らしに必要な力を吸い取り、いまにも王都の中心で破裂しようとしている。しかし、その下では盗みを犯した技師も、偽物にされた少女も、研究所の仲間たちも、自分の持ち場から逃げずに立っていた。
「正規の分散式結界を、予定より早く起動します」
エルザが告げると、十二人の技師が一斉に制御器へ手を置いた。王都の七方向で、中継塔の機械式の鐘が鳴り始める。一つ、二つ、三つと重なる鐘の音は、止まった魔導灯の代わりに街路を伝わり、治療院や給水所や城門にいる人々の耳へ届いた。
「全塔接続。魔力経路を外周へ変更します」
「接続確認!」
「吸収された魔力が中央へ戻ります!」
「慌てないでください。戻すのではありません。分けるのです」
エルザはセシリアの手へ絡みついた最初の回路へ指をかけた。装置の青い光が二人の顔を照らし、足元の石が大きく揺れる。グランツ公爵が後ろから何か叫んだが、エルザは振り返らなかった。
「分散式結界、起動!」




