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第16話 偽物の聖女

第16話 偽物の聖女


 夜明け前の公爵邸で、セシリアは鏡の前に座らされていた。侍女たちは彼女の細い体へ白絹のドレスを着せ、銀糸で縫われた長い袖を手首まで引き下ろしていく。胸元には大粒の青い宝石が飾られていたが、重さで鎖が鎖骨へ食い込み、息をするたびに冷たい金具が肌をこすった。鏡台には薔薇の香油と白粉の甘い匂いが漂い、その隅には昨夜ほとんど手をつけなかった鶏肉のパイが置かれている。固くなった生地から脂が染み出しているのを見て、セシリアは孤児院で年少の子どもたちと分けた黒パンを思い出し、膝の上で指を組んだ。


「背筋を伸ばしなさい。聖女が猫背では困ります」


 侍女長に肩を押され、セシリアは慌てて顔を上げた。鏡の中にいる少女は、昨日まで灰色の木綿服を着て洗濯桶を運んでいた自分とは別人に見えたが、右手の人さし指には針仕事で作った小さな傷が残っている。どれほど白粉を塗られても、その傷だけは孤児院で暮らしてきた十六年間を知っていた。


「本当に、私が立つだけでよいのですか」


「結界が起動したら、両手を上げて祈りの言葉を唱えるだけです。難しいことではありません」


「もし、起動しなかったら……」


 侍女長は髪をとかしていた銀の櫛を止め、鏡越しにセシリアを見た。廊下では使用人が朝食用の皿を運んでおり、焼きたてのパンと焦がしバターの匂いが扉の隙間から入り込んでくる。セシリアの腹は小さく鳴ったが、侍女長は聞こえなかったふりをして、青い宝石の位置を直した。


「そのときは、あなたの祈りが足りなかったということでしょう。公爵様は孤児院への寄付をお考え直しになるかもしれませんね」


「冬用の薪も、薬代もですか」


「それを決めるのは私ではありません。あなたが失敗しなければ済む話です」


 同じ朝、王城の研究室では、エルザが冷めた豆のスープへ黒パンを浸していた。昨夜から机を離れていないため、いつもの紺色の作業服には白い魔石の粉が付き、まとめた髪からも細い毛束が落ちている。窓の外では雨が石畳を濡らし、荷馬車の車輪が泥水を跳ね上げる音が続いていた。机には結界の測定記録、王都の地図、盗まれた設計図の写しが重なり、その上を行儀の悪い茶色の猫が歩こうとして、助手のノアに抱き上げられた。


「先生、また朝食を忘れましたね。せめて温かいうちに食べてください」


「食べています。パンも二切れ目です」


「一切れ目は猫が食べました」


「では、猫と合わせて二切れです」


 ノアは返事の代わりにため息をつき、猫を床へ下ろした。それから王都で配られていた一枚の紙を、スープの皿を避けて机へ置く。紙には、外国の禁術を使う女研究者から王国を救うため、神託を受けた聖女セシリアが立ち上がったと書かれていた。エルザは指先の粉を布で拭き、少女の肖像を見つめた。豪華な衣装を着た少女は微笑んでいたが、両手は腹の前で強く握られ、右手の爪が左手の甲へ食い込んでいる。


「ずいぶん広まっています。市場では、先生が夜ごと外国の悪魔を呼び出していることになっていました」


「昨夜呼び出したのは、焦げた湯沸かしの匂いくらいです」


「笑い事ではありません。明日、公爵が公開実験を行います。評議会は、あちらの結界が成功した場合、私たちの研究を中止すると決めました」


 エルザは紙を裏返し、乱れた机からグランツ公爵の結界配置図を引き出した。盗まれたのは三か月前の設計図であり、中央制御核から七つの中継塔へ魔力を送る基本構造までは記されている。しかし、その後に判明した魔力逆流の問題と、各中継塔を独立して停止させる安全機構は含まれていなかった。公爵は形だけをまねることはできても、設計変更の理由までは知らない。エルザは冷えたスープを一口飲み、舌に残った豆の皮を噛みながら配置図の一点を爪で押さえた。


「公開実験の会場は大聖堂前広場。観客を集めるそうです」


「失敗すれば、広場にいる人々へ逆流した魔力が流れます」


「では、実験を中止させますか」


「証拠がありません。今止めれば、私が聖女の奇跡を恐れて妨害したことにされます」


「それなら、セシリアを偽物だと告発しますか」


 エルザはすぐには答えず、固くなったパンの端をちぎった。肖像の少女が着けている青い宝石は、装飾品ではなく中央制御核を遠隔操作するための魔導具である。結界が起動する瞬間に少女が両手を上げれば、公爵の部下が地下室から魔力を送り、あたかも祈りによって結界が生まれたように見せるのだろう。何も知らされていない少女が失敗の責任を負わされる場面まで想像し、エルザはパンを皿へ戻した。


「設計図を盗んだ者と、舞台に立たされる者は別です」


「ですが、彼女が自分から公爵へ協力した可能性もあります」


「自分から聖女になりたがった少女なら、新しい靴を見せるように顔を上げます。この子は宝石ではなく、自分の手を見ています」


「肖像一枚で、そこまで分かりますか」


「分かるのではありません。確かめるのです。敵だと決めるのは、そのあとでも遅くありません」


 その日の午後、エルザは修道院へ薬草を届ける商人の荷車に乗り、公爵邸の裏手にある礼拝堂へ向かった。借りた茶色の外套には干し草の匂いが染みつき、頭に巻いた布は少し大きく、歩くたびに片方の目へずり落ちてくる。荷車の御者は道中ずっと、妻が作った蕪の酢漬けは塩が強すぎるとこぼし、エルザへ小瓶まで持たせた。本筋とは関係のない夫婦の愚痴を聞いているうちに肩の力が抜け、エルザは礼拝堂の台所で一人になったセシリアへ近づいた。


「そのドレスで、厨房へ入ってよいのですか」


 驚いたセシリアは、盆に載せていた木の杯を落としかけた。公開実験の練習を終えたばかりらしく、白いドレスの裾には土が付き、硬い靴にこすられた踵から血がにじんでいる。彼女は昼食に出された鹿肉へ手をつけられず、厨房で薄い野菜の煮汁をもらおうとしていた。鍋からは玉葱と月桂樹の匂いが立ち、かまどのそばでは洗った布巾が湯気を吸っていた。


「あなたは誰ですか」


「エルザです。外国の悪魔を呼び出していることになっている女です」


「えっ……」


「実際には呼び出せません。悪魔と知り合う機会がなかったので」


 セシリアは逃げようとしたが、長い裾を踏み、調理台へ手をついた。エルザは彼女を捕まえず、御者から渡された蕪の酢漬けを瓶ごと置いた。蓋を開けると鼻をつく酸っぱい匂いが広がり、セシリアは緊張しているはずなのに、一度だけ小さく笑った。公爵邸の食事より孤児院の台所に近い匂いだったのだろうと考え、エルザは二本の木匙を鍋の横から取った。


「毒は入っていません。御者の奥さんが塩を入れすぎただけです」


「私に何をさせるつもりですか」


「何もさせません。明日の実験で、あなたが何をするよう命じられているのか教えてください」


「話せば、孤児院への援助が止められます。小さい子たちは、冬を越せません」


「では、話さなくて結構です。私が質問しますから、違っていたときだけ首を振ってください」


 エルザは中央制御核、青い宝石、祈りの合図について順番に尋ねた。セシリアの顔は動かなかったが、孤児院への脅迫について触れた瞬間、木匙を持つ指が震え、薄い煮汁が白い袖へこぼれた。セシリアは染みを隠そうと腕を引いたものの、エルザは自分の外套から糸くずの付いた布を取り出し、袖をそっと押さえた。豪華なドレスを汚したことより、孤児院の子どもが困ることを恐れていると分かり、エルザは用意してきた書類を調理台へ広げた。


「これは王立救護院の保護証明です。明日の朝から、あなたの孤児院へ食料と薪を届けます。グランツ公爵の寄付がなくても、子どもたちは追い出されません」


「そんなことをしたら、公爵様が黙っていません」


「ですから、黙らせるための証拠が必要です」


「私に証言しろというのですか」


「いいえ。あなたには予定どおり聖女を演じてもらいます」


 セシリアは匙を置き、初めてエルザの顔を正面から見た。かまどの薪が崩れて火の粉を上げ、外では公爵家の鐘が夕刻を告げている。エルザは公爵の計画を利用し、盗まれた設計図にしか存在しない欠陥を観客の前で証明するつもりだった。ただし、魔力の逆流は自分たちが設置する補助装置で受け止め、セシリアにも観客にも傷一つ負わせない。そのうえで、青い宝石から地下の操作室へつながる魔力線を可視化すれば、奇跡を仕組んだ者が誰なのか明らかになる。


「私が祈れば、公爵様の結界は壊れるのですか」


「壊しません。最初から完成していないことを、皆に見てもらいます」


「それでは、私は偽物の聖女として捕まります」


「あなたは、命じられた言葉を口にしただけです。脅迫の記録も、孤児院への寄付を盾にした契約書も、こちらで確保します」


「どうして私まで助けるのですか。私は、あなたの研究を奪う舞台に立つのですよ」


 エルザは答える前に、蕪の酢漬けを一切れ口へ入れた。御者の言ったとおり塩が強く、思わず眉間へしわが寄ったため、セシリアがまた小さく笑った。誰かに笑うよう命じられた顔ではなく、年相応の少女の顔だった。エルザは水を一口飲み、酸味の残る舌で、聞き間違えようのないようにはっきり告げた。


「あなたを罰しても、盗まれた設計図は戻りません。それに、助けを求められない者へ罪を着せる仕組みを放置すれば、私の結界が守る王都は、ただ壁の内側が安全なだけの場所になります」


「怖くないのですか。明日、失敗したら、あなたもすべてを失います」


「怖いですよ。朝から同じ計算を七回もやり直しました」


「エルザ様でも、そんなことをするのですね」


「します。緊張するとパンをスープへ浸しすぎて、匙ですくわなければ食べられなくもなります」


 セシリアは汚れた袖を見下ろしたあと、青い宝石を両手で包んだ。宝石の奥では、公爵が仕込んだ魔力がかすかに脈打ち、冷たい光が少女の指の間から漏れている。明日の広場では数千人が彼女を見上げ、公爵は成功すれば聖女を利用し、失敗すれば偽物として切り捨てるだろう。それでも、背後にある孤児院が守られ、自分の隣に真実を知る者が立っているなら、命じられた台詞のあとに一言だけ、自分の言葉を加えることはできる。


「祈りの言葉が終わったら、私は何をすればよいですか」


「両手を下ろして、動かないでください。あとは私が引き受けます」


「いいえ。それだけでは足りません」


「セシリア?」


「私も話します。公爵様に何を命じられたのか、孤児院を使ってどう脅されたのか、皆の前で話します。偽物にされたまま助けられるのではなく、自分で終わらせたいのです」


 エルザはすぐに止めようとしたが、セシリアの指はもう震えていなかった。かまどの鍋では煮汁が静かに沸き、窓に当たっていた雨も弱くなっている。白いドレスの袖には薄い染みが残り、磨かれた靴の踵には血が付いていたが、セシリアはそれらを隠そうとはしなかった。エルザは木匙で煮汁をもう一杯すくい、今度は蕪の酢漬けを入れずに少女へ差し出した。


「分かりました。ただし、約束してください。危険を感じたら、途中でも私の後ろへ逃げること」


「聖女が逃げてもよいのですか」


「あなたは聖女ではありませんから」


「それなら、エルザ様も私の後ろへ逃げてください。外国の悪魔を呼べないのでしょう」


「困りましたね。では、二人で同じ方向へ逃げましょう」


 翌日の公開実験を告げる鐘が、雨上がりの王都に鳴り始めた。広場ではすでに巨大な演壇が組まれ、公爵家の紋章が入った旗が何十本も掲げられている。グランツ公爵は、白い衣装を着た少女が自分の命令どおり奇跡を演じ、盗んだ結界が王都を覆う瞬間を疑っていなかった。しかし礼拝堂の小さな厨房では、偽物の聖女と呼ばれるはずの少女が冷めかけた野菜の煮汁を飲み、その向かいでエルザが塩辛い蕪を水で洗っていた。二人は明日の手順をもう一度確かめながら、公爵が用意した舞台を、公爵自身の罪を明らかにする場所へ変えようとしていた。


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