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第14話 エルザを嫌う公爵

第14話 エルザを嫌う公爵


 王国軍務を統括するグランツ公爵は、朝食の皿へ残った半熟卵を銀の匙で何度も潰していた。広い食堂の窓には細かな雨粒がつき、磨かれた床には暖炉の火が赤く映っている。公爵は金糸で蔦模様を刺繍した暗緑色の室内着をまとい、首元には黒い絹の布を巻いていた。


 長机には焼いた腸詰め、茸のバター炒め、蜂蜜を塗った白パンが並んでいたが、公爵が手をつけたのは半熟卵だけだった。皿の端では黄身と白身が混ざり、冷えるにつれて薄い膜を作っている。向かい側に座る妻は香草茶を飲みながら、夫が同じ場所ばかり匙で叩く音を聞いていた。


「卵に罪はありませんよ」


「分かっている」


「では、召し上がるか、潰すのをおやめください。料理長が扉の陰から見ています」


「見たければ見せておけ。今日で職を失うわけではない」


「料理長は失いませんが、あなたは軍務長官の椅子を失いそうなのですか?」


 グランツは匙を止め、食堂の扉を見た。料理長の白い帽子が扉の陰へ素早く引っ込む。妻は何事もなかったように蜂蜜をパンへ塗り、垂れた一滴を指先で拭った。


「分散式結界などというものが完成すれば、軍務省の防衛計画が根本から変わる。国境へ配置した魔導砲も、騎士団の駐屯地も、半分は不要だと言い出すだろう」


「不要なものなら、減らせばよいのではありませんか?」


「女には分からん」


「そう言えば、説明しなくても済みますものね」


「朝から私を苛立たせるな」


「苛立っているのは、半熟卵を見れば分かります」


 妻は食事を終えると、膝へ掛けていた布を丁寧に畳んだ。グランツは潰れた卵を口へ入れたものの、冷えて硫黄の匂いが強くなっていたため、葡萄酒で無理に流し込んだ。今日の評議会でエルザの計画を止めなければならないと考えると、白パンの甘い匂いまで鼻についた。


 公爵家は三代にわたり、王国軍の魔導設備を扱ってきた。北部の監視塔に設置された魔導鏡、西部港湾の警報鐘、南部穀倉地帯を囲む防壁炉は、いずれもグランツ家と関係の深い工房が製造している。設備の維持費は毎年軍務予算から支払われ、その一部は工房を経由して、公爵家が所有する鉱山や運送会社へ流れていた。


「馬車を用意しろ。評議会へ行く」


「かしこまりました。外套は厚手のものになさいますか?」


 老執事が扉の外から尋ねた。グランツは窓を叩く雨の音を聞き、昨冬に仕立てた黒い外套を持ってこさせた。襟元には黒狐の毛皮がつき、雨を弾く油を染み込ませてあるため、少し獣脂の匂いがした。


「それから、軍務省の昨年度報告書を馬車へ積め」


「北部、南部、西部のすべてでしょうか?」


「表紙が青いものだけでよい。赤い帳面は書庫から出すな」


「承知いたしました」


 執事が頭を下げると、公爵はようやく白パンを一口食べた。赤い帳面には、故障した設備と、修理を延期した回数が記録されている。青い報告書には予算どおり整備を実施したとだけ書かれ、実際に動いたかどうかまでは記載されていなかった。


 同じ頃、王宮地下の魔導研究所では、エルザが十二人の訓練生を二組に分けていた。彼女は淡い灰色のブラウスに濃紺の作業着を重ね、黒い革靴の紐をいつもより強く結んでいる。評議会へ出席するため正装へ着替えるよう侍女から言われたが、午後にも訓練があるという理由で断っていた。


 机の上では、ノーラが白い布へ縫い込まれた回路を調べていた。黄色い糸で結んだ三つ編みが肩から落ちるたび、彼女は袖口で押し戻し、計測結果を帳面へ書き込んでいる。隣ではヨハンが小さな歯車を磨き、ガストンは昼食用に持ってきた燻製肉の包みが魔晶石の箱へ紛れ込んだと言って、木箱を一つずつ開けていた。


「ガストン、食べ物を実験道具と一緒に入れないでください」


「同じ箱ではありません。隣の箱です」


「匂いが移ります」


「魔晶石は燻製肉の匂いを気にするのですか?」


「私が気にします」


「先生は玉葱も気にしますね」


「なぜ、私が大きな玉葱を皿の端へ寄せたことが、全員へ伝わっているのですか?」


 十二人は手を動かしたまま、クラウスのいる方向を見た。クラウスは壁際で訓練記録を整理し、口笛を吹いて何も知らない顔をしている。今日の襟のボタンは正しく掛かっていたが、左右で色の違う靴下をはいていることには気づいていなかった。


「エルザ様、評議会のお時間です」


「分かっています。ノーラ、回路の発熱が基準値を超えたら、魔力を止めてください」


「はい。先生がお戻りになるまで、次の段階へ進めてはいけないのですね」


「いいえ。発熱の原因を特定できたら、ヨハンと相談して修正してください」


「先生の確認を待たなくてもよいのですか?」


「あなたたちは私の助手ではありません。安全規則の範囲なら、自分で判断してください」


 ノーラは教本の安全規則を開き、該当する頁へ黄色い糸の切れ端を挟んだ。エルザはその手元を確認してから、評議会用の資料を革鞄へ入れた。朝に焼かれた小さな林檎のパイも机へ置かれていたが、口へ運ぶ時間がなく、布で包んで鞄の隙間へ押し込んだ。


「林檎のパイを、書類と一緒に入れるのですか?」


 クラウスが目を丸くした。エルザは鞄を閉じようとしたが、パイの包みが厚く、留め金が届かなかった。ノーラが見かねて自分の小さな食事袋を差し出した。


「こちらへお入れください。書類へ林檎の汁がついたら、公爵様に笑われます」


「グランツ公爵は、林檎の汁がついていなくても私を笑います」


「でしたら、笑う理由を一つ減らしてください」


「ノーラまでクラウスに似てきましたね」


「光栄です」


「褒めてはいません」


 エルザは食事袋へパイを移し、研究所を出た。石造りの廊下には朝の清掃で使われた石鹸水の匂いが残り、窓際には濡れた雑巾が三枚干されている。地上へ近づくにつれて雨音が大きくなり、評議会室の前では湿った外套を預ける貴族たちが列を作っていた。


 評議会室には長い楕円形の机が置かれ、各席へ軍務省の資料と温かい紅茶が用意されていた。焼いた栗を砂糖で固めた菓子も並んでいたが、湿気を吸った表面が少しべたついている。エルザはアルベールの右側へ座り、鞄から厚い資料を三冊取り出した。


「作業着のまま評議会へ出席するとは、王宮の礼儀も変わったものだ」


 向かい側に座るグランツ公爵が、黒狐の外套を従者へ渡しながら言った。紺色の軍服には勲章が七個並び、袖口の金糸は魔導灯を受けて光っている。公爵が椅子へ座ると、薔薇の香油と濡れた毛皮の匂いが混ざり、机を挟んだエルザの席まで届いた。


「研究所から直接参りました。服装についての審議が必要でしたら、防衛計画のあとにお願いします」


「国防を論じる者が、相手へ敬意を示す服装もできないのか?」


「公爵閣下へ敬意を示すためではなく、国民を守る設備について説明するために参りました」


「聞いたか、殿下。この娘は最初から軍務省を見下している」


「私には、作業着の機能について説明したように聞こえた」


 アルベールは紅茶へ砂糖を一つ入れ、銀の匙でゆっくり混ぜた。今日は深青色の正装に銀色の肩飾りをつけ、王太子として評議会を主宰する顔をしている。エルザの前の紅茶にも砂糖を一つ入れようとしたが、彼女が無言で首を振ったため、自分の受け皿へ戻した。


「会議を始める。最初の議題は、分散式結界の第一期建設予算についてだ。エルザ、計画の概要を説明してくれ」


「はい。第一期では北部、東部、王都周辺の四区域へ制御拠点を設置します。各拠点には三名以上の技術者を配置し、一つの拠点が停止した場合は、隣接する二拠点が担当区域を分けて引き継ぎます」


「技術者には、先日選ばれた平民たちも含まれるのか?」


 グランツは紅茶へ口をつけず、十二人の経歴が記された書類を指先で叩いた。爪は短く整えられていたが、右手の小指にだけ大きな青い宝石の指輪がついている。彼が机を叩くたび、指輪と木が触れて硬い音を立てた。


「訓練と試験に合格すれば含まれます」


「国家機密を平民に教える危険性を、まだ理解していないようだ」


「貴族であれば、機密を漏らさないという証明はありますか?」


「家名を失う危険がある」


「平民にも、仕事や住居や家族があります。失うものがないと思っているのであれば、平民の生活を知らないだけです」


「小娘が、私へ説教をするのか?」


「質問へお答えしました」


 公爵は椅子の肘掛けを握り、背筋を伸ばした。隣に座る軍務次官は資料を開くふりをして視線を落とし、紅茶の表面へ浮いた茶葉を匙で何度もすくっている。窓の外では雨脚が強まり、硝子を流れる水で中庭の樹木がゆがんで見えた。


「そもそも、一人の小娘に国防を任せるなど、あまりに危険です」


「その点については、同意します」


 エルザが答えると、グランツの指が止まった。評議員たちも資料から顔を上げ、アルベールは紅茶のカップを口元で止めた。エルザは分散式結界の構造図を広げ、十二の制御拠点を順番に指した。


「だからこそ、一人に任せない仕組みへ変更しました。設計、運用、監査の権限も分けます」


「言葉をすり替えるな。問題は、君のような経験の浅い娘が軍務へ口を出すことだ」


「では、経験のある軍務省が管理してきた設備について確認しましょう」


 エルザは三冊目の資料を開き、各評議員へ数枚ずつ表を配った。紙には旧式防衛設備の設置年、維持費、故障回数、実戦時の稼働率が記されている。グランツは最初の数字を見た瞬間、右手の小指を曲げ、青い指輪を掌へ隠した。


「北部第一監視塔の魔導鏡は、昨年度だけで金貨八百枚の維持費を使っています。しかし過去四回の魔物襲撃のうち、正常に作動したのは一回です」


「北部は吹雪が多い。設備の故障は避けられん」


「吹雪の多い地域へ、低温で故障する設備を置いた理由は何ですか?」


「設置当時の技術では最善だった」


「それは二十二年前の話です。十年前に交換予算が承認されていますが、設備は交換されていません」


「補修によって使用可能と判断されたのだ」


「では、こちらをご覧ください。半年前の定期試験では、信号を受信してから鏡が起動するまで十四分かかっています。魔物はその間、監視塔の前で待ってくれるのでしょうか?」


 評議員の一人が咳払いをし、資料へ顔を近づけた。別の者は自分の領地にある設備を探し、頁を忙しくめくっている。紙の擦れる音が続くなか、エルザは西部港湾の警報鐘についての表を配った。


「西部の警報鐘は十二基あります。そのうち五基は、海水による腐食で音が鳴りません」


「先月、修理を終えたという報告がある」


「私もその報告書を読みました。そこで昨日、港湾管理官へ確認しました」


「軍務省を通さず、現場へ問い合わせたのか?」


「正常に鳴るかと尋ねただけです。管理官は五基とも足場さえ組まれていないと回答しました」


「現場の者が嘘をついている可能性もある」


「修理を担当した工房から提出された材料購入票も調べました。十二基分の耐食金属を購入したことになっていますが、仕入れ先には三基分の記録しかありません」


 グランツの前に置かれた紅茶から、湯気が消えていた。彼はカップを持ち上げたが、口へ運ばず、受け皿へ戻した。小さな音だったものの、静まり返った評議会室では全員の耳へ届いた。


「何が言いたいのだ、エルザ」


「数字の確認をしています」


「私の家が、不正を働いたとでも言うつもりか?」


「まだ公爵家の名は出していません」


「この設備を製造した工房が、我が家と関係していることは誰もが知っている」


「では、公爵閣下も関係をご存じなのですね」


 軍務次官が咳き込み、紅茶を袖へ少しこぼした。従者が布を持って近づくと、次官は自分で拭くと言って追い返した。袖に残った紅茶から柑橘の香りが広がり、薔薇の香油と混ざった。


「公爵家が関係しているから、設備を疑っているのか?」


「いいえ。設備が作動していないため調べました。その製造元と修理先をたどった結果、公爵家と関係の深い工房が多かったのです」


「旧式設備を廃止し、自分の結界へ予算を移したいだけだろう」


「分散式結界にも監査を入れてください。材料費、製造数、故障率、稼働率をすべて公開します」


「国家機密を公開するというのか?」


「術式の内容ではありません。税金をいくら使い、設備が何回動いたかです」


「数字だけで、国を守れると思うな」


「正常に動かない設備を、報告書の数字だけで動いたことにしてきた方から、その言葉を聞くとは思いませんでした」


 グランツの顔から血の気が引き、次の瞬間には首筋まで赤くなった。彼は机へ両手をつき、椅子を後ろへ押した。重い椅子の脚が床を擦り、湿った木材を引き裂くような音が響いた。


「無礼者!」


「座ってください、グランツ公爵」


 アルベールの声は大きくなかったが、公爵の動きを止めた。王太子は砂糖菓子を一つ割り、指についた粉を白い布で拭っている。穏やかな手つきとは反対に、灰色の目は公爵から離れなかった。


「エルザの言葉遣いについては、あとで私から注意する。しかし、設備の稼働記録については説明が必要だ」


「軍務省には正式な報告書があります」


「いま問題になっているのは、その報告書と現場の状態が一致しないことだ」


「新しい技術を売り込みたい娘が集めた資料です。信用できません」


 エルザは返事をする前に、鞄の横へ置いた食事袋を見た。朝から何も食べていないことを思い出したが、林檎のパイを取り出せる空気ではない。袋の底には焼いた林檎の甘い汁が少し染み、机の上へ丸い跡を作っていた。


「私を信用する必要はありません」


 エルザは資料を閉じた。机の向こうではグランツが口元を固く結び、青い指輪を親指で回している。エルザは林檎の染みへ折った布を置き、その上から手で押さえた。


「ですが、故障した設備まで正常だと言い張る数字を、信用する理由もありません」


「私を犯罪者のように扱うのか?」


「誰が、いつ、どの数字を書き換えたかは分かりません。ですから、監査を行うべきです」


「軍務省の内部へ、外部の者を入れるというのか?」


「軍務省自身の報告に疑いがある以上、軍務省だけで調べても意味がありません」


 評議員たちは互いの顔を見た。北部に領地を持つ伯爵は、作動しなかった監視塔のために村を一つ避難させた経験があり、監査へ賛成すると述べた。西部の商人組合から支援を受けている子爵も、鳴らない警報鐘の修理費を三年続けて支払ったと言い、資料を机へ置いた。


「旧式防衛設備に対する特別監査を提案する」


 アルベールは評議員を見渡し、一人ずつ賛否を確認した。グランツと軍務次官を除き、過半数が賛成へ回った。監査官は王室会計院、地方管理局、独立した魔導技師から選ばれ、軍務省の書庫と契約工房を調査することになった。


「横暴だ。これは軍務省への侮辱だ」


「正常に運用されているなら、監査によって証明できます」


「エルザ、君は自分が何をしているのか分かっているのか?」


「作動しない設備へ、国民の税金を使い続けないようにしています」


「世の中は、設計図どおりには動かない」


「知っています。だから実際に動いたかを調べるのです」


 グランツは資料をまとめず、椅子から立ち上がった。従者が黒狐の外套を肩へ掛けると、濡れた毛皮と獣脂の匂いが再び広がる。公爵はアルベールへ形式だけの礼をし、エルザの顔を見ないまま評議会室を出ていった。


 扉が閉まると、軍務次官も慌ててあとを追った。残された紅茶は一口も飲まれておらず、カップの底へ細かな茶葉が沈んでいる。エルザは評議員から質問を受けながら、机についた林檎の染みを布で何度も拭いた。


「先ほどの言葉遣いは、少し強すぎたな」


 評議員たちが退出したあと、アルベールは向かい側の席へ移った。エルザは反論しようとしたが、食事袋から漂う林檎と肉桂の匂いに気づき、先にパイを取り出した。表面は少し潰れ、端から煮た林檎がはみ出していた。


「どの部分でしょうか?」


「『その言葉を聞くとは思わなかった』というところだ」


「事実です」


「事実でも、言われた相手は怒る」


「事実ではないことを言っても、閣下は怒っていました」


「それもそうだな」


 アルベールは苦笑し、自分の皿に残った砂糖菓子をエルザの前へ置いた。エルザは甘い物が二つも続くと指摘したが、朝食を抜いた者には必要だと言われ、林檎のパイを半分に割った。片方をアルベールへ渡すと、彼は栗の菓子と交換するように受け取った。


「監査が始まれば、グランツ公爵は君をさらに嫌うだろう」


「すでに十分嫌われています」


「警備を増やす。研究所の出入りも、これまで以上に記録させる」


「十二人を閉じ込めることはできません。宿舎と研究所を往復するだけでは、各地の設備を学べません」


「閉じ込めるつもりはない。ただし、一人で出歩かせない」


「ノーラは市場へ糸を買いに行きたがっています」


「護衛を買い物係にするな」


「糸を選ぶには、本人が行かなければ意味がありません」


「分かった。護衛と一緒に市場へ行かせる」


 エルザは栗の菓子を半分かじった。表面の砂糖は湿気で柔らかくなっていたが、中の栗には焚き火で焼いたような香りが残っている。空腹のまま評議会へ来たことを隠そうとしたものの、アルベールは食べる速さを見て、残りも食べるよう菓子の皿を近づけた。


 その日の夕方、グランツ公爵は自邸の書斎へ戻った。雨で濡れた外套は玄関へ置いてきたが、黒狐の毛から落ちた水が軍服の肩まで染みている。暖炉の前には乾かすための靴が二足並び、その隣では公爵家で飼われている老犬が腹を見せて眠っていた。


 執事は濃い珈琲と、朝に残された白パンで作った焼き菓子を机へ置いた。パンへ卵液を染み込ませ、砂糖と肉桂を振って焼いたものだったが、グランツは皿を遠ざけた。濡れた手袋を外し、鍵のかかった机の引き出しから赤い帳面を取り出した。


「監査は、いつから始まりますか?」


 書斎の暗がりに立っていた軍務次官が尋ねた。評議会で紅茶をこぼした袖は乾いていたが、柑橘の匂いだけが残っている。彼は椅子へ座るよう勧められても腰を下ろさず、帽子を両手で握っていた。


「三日後だ」


「書庫の帳面を整理する時間がありません」


「整理とは、何をするつもりだ?」


「誤解を招く記録を、別の場所へ移します」


「帳面が消えれば、かえって疑われる」


「では、どうするのですか? 材料購入票まで調べられれば、工房の請求額と合いません」


「分かっている。声を落とせ」


 グランツは赤い帳面を開いた。修理を行わずに費用だけを受け取った設備の名が、細かな文字で並んでいる。すべてを公爵自身が命じたわけではなかったが、系列工房から利益を受け取っている以上、知らなかったでは済まなかった。


「エルザは、どこまで調べているのでしょう」


「港湾の仕入れ先までだ。放っておけば鉱山の輸送記録にもたどり着く」


「止めなければなりません」


「分散式結界の計画を潰しても、監査は止まらん」


「では、エルザを……」


「余計なことを口にするな」


 グランツは赤い帳面を閉じ、老犬が寝返りを打つ音へ耳を澄ませた。犬の首輪についた鈴が一度鳴り、暖炉では薪が崩れて火の粉を上げる。執事が置いた焼き菓子から甘い匂いが漂っていたが、公爵の口の中には朝の冷えた卵の味が残っていた。


「娘を消せば、王太子が黙っていない。それに、設計図は研究所へ残る」


「設計図を奪うのですか?」


「設計図だけでは動かせないと、エルザ自身が説明していた。必要なのは、術式を組み上げる知識と、魔力を調整する技術だ」


「本人を協力させるのは不可能です」


「本人である必要はない」


 グランツは机の上へ、十二人の訓練生の経歴書を並べた。評議会で配られた写しを、従者へ命じて持ち帰らせていた。名門貴族の子弟は少なく、時計職人の息子、織物工房の娘、元鉱山労働者など、家族や以前の職場を調べやすい者が並んでいる。


「十二人全員が、エルザほど忠実とは限らん」


「買収するのですか?」


「金で動かなければ、家族の借金、工房の経営、過去の罪を調べる。人間には必ず、握られたくないものがある」


「誰から始めますか?」


 グランツの指が、ノーラの経歴書の上で止まった。織物工房の娘で、魔力回路の誤りを最初に発見したと報告されている。工房主と争って賃金を減らされた過去があり、母親と二人で暮らしていた。


「この娘だ。技術を見抜く目があるなら、エルザの代わりに術式を読み取らせる」


「拒んだ場合は?」


「母親の勤める工房へ、軍用布の大口注文を出す。注文を続けるか、取り消すかは、娘の返事を聞いてから決める」


 軍務次官は経歴書を受け取り、帽子の内側へ折って入れた。グランツはようやく焼き菓子へ手を伸ばし、端を一口だけかじった。朝の残り物で作られた白パンは外側が硬く、中には卵液と肉桂の甘さが染み込んでいた。


 その頃、研究所ではノーラが白い布の回路を縫い直していた。エルザは評議会から戻ると上着を椅子へ掛け、ノーラの隣へ座って糸の流れを確かめた。ガストンの燻製肉は無事に見つかり、十二人で薄く切り分けたため、部屋には煙と胡椒の匂いが残っている。


「先生、評議会はどうでしたか?」


「旧式設備への監査が決まりました」


「公爵様は納得したのですか?」


「納得していたようには見えませんでした」


「怒っていましたか?」


「半熟卵を潰したくなる程度には、怒っていたかもしれません」


「なぜ半熟卵なのです?」


「分かりません。朝食を抜くと、関係のない食べ物が頭に浮かぶことがあります」


 ノーラは針を止め、エルザの顔をじっと見た。クラウスから朝食を食べたか尋ねられたエルザは、林檎のパイと栗の菓子を食べたと答えた。ノーラはそれは昼食だと言い、食堂から豆のスープを運んでくるため席を立った。


 研究室の扉の外では、護衛が交代の時刻を帳面へ記入していた。廊下の奥には灰色の外套を着た男が一人立ち、訓練生の出入りを数えている。男はノーラが食堂へ向かうのを見ると、濡れた窓硝子へ顔を向けるふりをしながら、袖の中の紙へ小さな印をつけた。


 エルザはまだ、その男に気づいていなかった。机には十二人が書いた訓練記録が積まれ、その横には縫い直された白い布が置かれている。分散式結界を奪おうとする者は、堅い研究所の扉ではなく、十二人それぞれの暮らしへ手を伸ばし始めていた。



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