第13話 選ばれた十二人
第13話 選ばれた十二人
王宮の北棟にある臨時選考室には、王国各地から届いた応募書類が山のように積まれていた。窓の外では三日ぶりに雨が上がり、濡れた石畳を荷馬車が通るたび、車輪の下から水が細く跳ねている。エルザは灰色のハイネックブラウスに濃紺の作業着を重ね、後頭部で束ねた髪が落ちてこないよう、銀色の留め具を二本使っていた。
机の端には、朝食として運ばれた蕪のスープと薄切りの黒パンが置かれていた。スープの表面には冷えた脂が白い膜を作り、黒パンには一口だけかじった跡が残っている。エルザは応募書類の一枚へ赤い印をつけたあと、隣の机で胡桃を割っているクラウスへ顔を向けた。
「クラウス、その音を止めてください。書類を読むたびに、殻が割れる音が聞こえます」
「手を動かしていないと眠くなるのです。それに、これは昼食のための胡桃です。エルザ様も召し上がりますか?」
「まだ朝食も終わっていません」
「自覚があるなら、先に食べてください。スープが煮こごりのようになっています」
クラウスは淡い緑色の上着の袖を肘までまくり、割れた胡桃の中身を小さな布袋へ入れた。今日も襟のボタンは一つずれていたが、エルザは指摘するより先に、冷えた蕪のスープを匙ですくった。塩味は薄く、柔らかく煮られた蕪には土の匂いが少し残っていたが、空腹の胃へ入ると体の内側がゆっくり温まった。
「応募者は全部で三百八十七名です。このうち、魔導学院の卒業者が二百四十二名、貴族の推薦を受けた者が九十八名でした」
「残りの四十七名は?」
「学院へ通っていない者です。時計職人、織物職人、鉱山労働者、薬師、農具の修理工などがいます」
「国家防衛の技術者を選ぶのですよね。時計を直せても、魔物を追い払えるとは限りません」
「魔物と戦う者を選ぶのではありません。壊れる前の小さな異常を見つけられる者を選びます」
エルザは一枚の応募書類を持ち上げた。北部の町で時計職人をしている父親のもと、十二歳から歯車を磨いてきた青年の書類だった。魔力量は学院の入学基準に届かなかったが、髪の毛より細い振り子の軸がわずかに曲がっていることを、指先の感触だけで見つけた経験が記されていた。
「この者を呼びます」
「魔力量は基準値の三分の一しかありません」
「結界杭へ魔力を注ぐのは魔晶石です。技術者自身の魔力量は、計測器を動かせる程度で足ります」
「学院の教授たちは反対するでしょうね」
「教授たちが十二人を選ぶのであれば、私を選考責任者にした意味がありません」
次にエルザが選んだのは、西部の織物工房で働く十九歳の少女だった。名はノーラといい、幼い頃から母親と一緒に染めた糸を干し、十二歳になる前には一日に千本以上の縦糸を点検していた。提出された布見本の端には薄い油染みがあり、包み紙からは乾燥させたラベンダーと羊毛の匂いがした。
「この布、一か所だけ織り方が違いますね」
クラウスは窓辺へ布を持っていき、朝の光へ透かした。青と白の糸で細かな菱形が織られているが、一つの角だけ、白い糸が青い糸の下を通っている。よく見なければ気づかない違いだった。
「応募者本人が間違えたのでしょうか?」
「いいえ。添えられた手紙に、見つけられた者だけ裏面を読むよう書かれています」
「裏に何かあるのですか?」
「『お客様から預かった布に同じ誤りがあり、工房主へ報告したところ、黙って納品するよう命じられました。私は納品前に織り直し、一週間分の賃金を失いました』とあります」
「工房主に逆らったのですね」
「間違いを隠す命令に従わなかったのです。この者も呼びます」
二週間後、第一次選考を通過した四十八人が王宮へ集められた。絹の外套を着た侯爵家の三男もいれば、肘へ継ぎ布を当てた上着で来た農具修理工の娘もいた。王宮の玄関で泥のついた靴を脱ごうとする者と、従者へ外套を預ける者が同じ列に並び、受付を担当する侍従たちは何度も名簿を確認していた。
選考会場には長机が八台置かれ、それぞれの席へ歯車、銀糸、魔晶石、壊れた計測器が並べられていた。焼いた林檎と肉桂の匂いが廊下から流れてきたため、早朝から馬車に揺られてきた応募者たちは、試験道具より先に扉の外を見た。クラウスは小さな焼き菓子を一つずつ配ろうとしたが、エルザに試験終了まで待つよう止められ、自分の分だけを上着の内ポケットへ隠した。
「これより、分散式結界の技術者選考を行います。最初の課題は、目の前にある計測器を修理することです」
「制限時間は、どのくらいでしょうか?」
最前列に座った金髪の青年が手を挙げた。伯爵家の次男で、王立魔導学院を首席で卒業したと応募書類に書かれていた。銀糸で家紋を刺繍した青い上着をまとい、机に座ってから一度も周囲の平民を見ていなかった。
「一時間です。ただし、修理できないと判断した場合は、理由を書いて提出してください」
「修理を諦めてもよいのですか?」
「壊れた箇所を理解せずに触る者より、分からないと報告する者のほうが役に立ちます」
「国家技術者を選ぶ試験で、諦めを評価するのですか?」
「諦めることと、判断できない状態を報告することは違います。それが分からないのであれば、課題を始める前に退室しても構いません」
青年は口を閉じ、目の前の計測器を強く引き寄せた。ほかの応募者たちも道具を手に取り、蓋を開けたり、魔晶石へ弱い魔力を流したりした。室内には歯車の擦れる音と、工具が机へ触れる硬い音が重なり、誰かが緊張して噛んでいる薄荷の葉の匂いまでエルザの席へ届いた。
一時間後、計測器を完全に直した者は七人だった。しかし、その七人のうち三人は、正常な部品まで新しいものへ交換していた。エルザは修理の速さだけでは判断せず、取り外された部品と、作業中に書かれた記録を一つずつ確認した。
「なぜ、この歯車を交換したのですか?」
「古くなっていたからです」
「摩耗の許容範囲は調べましたか?」
「新品へ替えれば、問題はないでしょう」
「戦場の近くで、同じ規格の新品がなかった場合は?」
「王都から取り寄せます」
「届くまで結界を止めるのですか?」
伯爵家の青年は答えず、唇を横へ引いた。彼の計測器は見た目だけなら新品に近くなっていたが、本来交換すべきではない歯車まで外したため、魔力の測定値がわずかにずれている。エルザは不合格の印をつけ、その隣に置かれた古い計測器へ手を伸ばした。
時計職人の息子であるヨハンは、計測器を完全には直していなかった。褐色の作業着には小さな油染みがいくつもあり、短く切った爪の間にも黒い油が残っている。彼は壊れた軸を外して布へ包み、交換部品が届くまで計測器を使わないよう、赤い札を結びつけていた。
「修理できなかった理由を説明してください」
「軸に細い亀裂があります。いま動かせば数値は出ますが、二十回ほど使えば折れると思います」
「なぜ、二十回だと?」
「父の工房で同じ金属を使っています。亀裂の深さと、歯車が一周するときにかかる力から考えました。ただし、魔力が金属へ与える影響は分からないので、正確ではありません」
「分からない部分を、なぜ記録したのですか?」
「分かったふりをしたら、次に使う人が困ります」
「合格です」
ヨハンは目を丸くし、油のついた指を慌てて作業着で拭いた。すぐにその手を止め、今度は机の上にあった布で一本ずつ指を拭き直した。隣の席にいた鉱山労働者の青年が小声で祝いの言葉をかけると、ヨハンは何度も頭を下げた。
第二の課題では、応募者たちを四人ずつの組に分け、魔力回路の模型を組み立てさせた。必要な部品は、わざと一つだけ足りなくしてあった。貴族出身者ばかりの組は互いに指示を出そうとして作業が進まず、一人が不足した部品を隣の組から黙って持ち去ったため、その場で全員が失格となった。
「私は取っていません。彼が勝手にしたことです」
「見ていたでしょう」
「止める責任まで、私にあるのですか?」
「結界の部品が盗まれるところを見ても、自分の担当ではないと言う者には任せられません」
「私は侯爵家の推薦を受けています」
「推薦状は読みました。立派な羊皮紙でしたが、結界杭は推薦状では動きません」
昼食には、王宮の厨房から玉葱と燻製肉の煮込み、丸パン、塩漬けの小魚が運ばれた。身分に関係なく同じ皿が配られたため、銀の食器に慣れた応募者の一人は、木の匙を何度も裏返して見ていた。鉱山で働いていたガストンは小魚を三尾ともパンへ挟み、隣に座ったノーラから、骨を取らなくてもよいのかと尋ねられた。
「鉱山では休憩が短かったんだ。骨を取っているうちに、鐘が鳴っちまう」
「喉へ刺さりませんか?」
「一度刺さった。親方に抜いてもらった」
「それでも骨ごと食べるのですか?」
「親方の指より、小魚の骨のほうが清潔だからな」
ノーラは返事に困り、自分の皿へ視線を落とした。彼女は生成り色のブラウスに、工房から着てきた焦げ茶色のスカートを合わせ、腰には糸切り鋏の入った小さな革袋を下げていた。三つ編みの先を黄色い糸で結んでいたが、食事の途中で糸がほどけたため、小魚の骨を避けながら片手で結び直していた。
エルザは離れた席から応募者たちの食べ方や会話も見ていた。道具を独占する者、食事の皿を片づける給仕へ礼を言う者、同じ組の失敗を笑う者は、試験中とは違う顔を見せている。クラウスは焼き菓子を配りながら、自分の内ポケットに入れていた一つが潰れていることに気づき、割れた部分をこっそり口へ入れた。
「食事の様子まで選考に使うのですか?」
クラウスは口元についた粉砂糖を袖で拭きながら尋ねた。エルザは残っていた煮込みへパンを浸し、柔らかくなったところを小さくちぎった。玉葱の甘みと燻製肉の塩気が染み込んでいたため、朝の黒パンより食べやすかった。
「食べ方で合否は決めません。ただし、自分の使った皿を他人の席へ押しつける者が、壊れた結界杭の責任だけは引き受けると思いますか?」
「なるほど。ところで、エルザ様は玉葱を皿の端へ寄せていますね」
「大きすぎるのです」
「食べ方で合否は決めないのでしたね」
「私は応募者ではありません」
最終選考まで残ったのは十二人だった。時計職人の息子ヨハン、織物工房の娘ノーラ、元鉱山労働者のガストン、農具修理工の娘ミラのほか、下級貴族の四男、薬師見習い、硝子職人、元兵士など、育った場所も身分も異なっている。魔導学院の卒業者は三人だけで、残る九人は王宮の訓練施設へ足を踏み入れることさえ初めてだった。
十二人の名が発表されると、王宮の評議会ではすぐに反対の声が上がった。選考会議の長机には高価な葡萄酒と砂糖菓子が並んでいたが、誰も手をつけず、窓から差し込む午後の日差しで菓子の表面が少しずつ溶けていた。エルザは十二人の経歴書を革の鞄から取り出し、評議員たちの前へ一冊ずつ置いた。
「国家機密を平民に教えるなど、正気ではない」
白い口髭をたくわえた公爵が、ノーラの経歴書を指先で押し返した。濃い紫色の礼服には金糸の刺繍が入り、胸元からは薔薇の香油の匂いが漂っている。彼は織物工房という文字を見ただけで、次の頁を開こうとしなかった。
「この娘は学院で魔導学を学んでいない。父親は染色職人、母親は織り子だ。王国の防衛を何だと思っているのだ」
「糸の流れを見分ける仕事です」
「布を織る仕事と結界は違う」
「純白のドレスは、布と糸で作りました」
「それは君に特別な才能があったからだ」
「布へ触れたこともない者が、ノーラより優れていると判断する根拠は何ですか?」
公爵は口髭を撫で、隣に座る侯爵へ目を向けた。侯爵はヨハンの経歴書を開いていたが、魔力量の項目を見つけると、鼻から短く息を吐いた。葡萄酒の杯を持ち上げたものの飲まず、赤い液体を揺らしてから机へ戻した。
「このヨハンという男は、魔力量が最低基準にも届いていないではないか」
「計測器を動かすには十分です」
「魔力の少ない者に、強大な結界を任せるのか?」
「強大な魔力だけで結界を守れるなら、技術者は必要ありません。魔晶石を十二個並べておけばよいでしょう」
「言葉を慎みたまえ」
「では、質問にお答えください。規定どおりの魔力量を持ち、異常を隠す者と、魔力は少なくても亀裂を報告する者のどちらへ、国民の命を預けますか?」
評議会室には、暖炉で薪のはぜる音だけが残った。アルベールは上座に座り、黒い正装の袖口を整えながら、エルザと評議員たちのやり取りを聞いている。彼の前の皿には砂糖菓子が二つ残り、一つは書類を読みながら無意識に割ったらしく、細かな粉が経歴書の端へ落ちていた。
「十二人の選考責任者はエルザだ。人選を覆すのであれば、経歴ではなく、試験結果に問題があることを証明してもらいたい」
アルベールが口を開くと、公爵は背もたれへ体を預けた。侯爵は杯の葡萄酒をようやく一口飲み、苦い薬でも飲んだように眉をしかめた。エルザは十二冊の経歴書を一冊ずつ閉じ、革の鞄へ戻した。
「彼らへ国家機密のすべてを初日から教えるわけではありません。技術の習得度と人格を確認しながら、段階的に権限を与えます」
「一人でも裏切れば、どうする?」
「貴族なら裏切らないのですか?」
「少なくとも、家名を背負っている」
「家名を守るために失敗を隠す者を、私は選考で何人も見ました」
「君は、平民を信用しすぎている」
「いいえ。誰であっても、最初から信用してはいません。だから一人へすべてを任せない仕組みを作るのです」
評議会は日が傾くまで続いた。窓辺へ置かれた砂糖菓子は形を崩し、葡萄酒の底には小さな澱が沈んでいる。最終的に十二人の任命は認められたが、三か月ごとの適性審査と、技術情報を持ち出さないという誓約が条件として加えられた。
訓練初日の朝、十二人は王宮地下の魔導研究所へ集まった。全員へ支給された濃紺の作業着はまだ布が硬く、袖や裾の長さが合っていない者もいる。ガストンの上着は肩がきつく、反対に小柄なノーラの袖は指先を半分隠していたため、彼女は廊下の隅で袖口を二度折り返していた。
研究室の中央には長い机が置かれ、その上へ一枚の白い布が広げられていた。布には銀糸と青い糸を使った魔力回路が縫い込まれ、端には小さな魔晶石が六個並んでいる。朝食の時間と重なったため、部屋の後方には温めた山羊乳と蜂蜜入りの麦粥が用意され、湯気と一緒に甘い匂いが漂っていた。
「訓練を始める前に食べてください。空腹では、細い魔力の変化を正確に測れません」
「先生は、もう召し上がったのですか?」
ミラが尋ねると、エルザは一瞬だけ口を閉じた。研究室の奥では、クラウスが腕を組み、答えを待っている。エルザは十二人の視線を受けながら、自分の机の端に置かれた麦粥の椀を見た。
「半分ほど食べました」
「正確には三口です」
「クラウス、あなたは訓練生ではありません。黙っていてください」
「失敗や不都合な事実を報告できる誠実さが必要なのでは?」
「私の朝食は国家機密ではありません」
十二人の間から小さな笑い声が起こった。先ほどまで肩を固くしていたノーラも、袖口で口元を隠しながら笑っている。エルザは麦粥の椀を手に取り、蜂蜜が底へ沈んでいることに気づいて匙で二度混ぜた。
「では、私も食べます。皆さんも座ってください」
木の椀と匙が机へ触れ、研究室に軽い音が続いた。山羊乳の匂いを苦手にしているヨハンは、麦粥を飲み込むたびに鼻をつまみそうになり、そのたびに隣のガストンから肘でつつかれた。ノーラは持参した乾燥林檎を麦粥へ一切れ入れ、柔らかくなるまで待ってから匙ですくった。
朝食が終わると、エルザは白い布の前へ立った。布の内部には、意図的に一か所だけ、魔力の流れを逆にする回路が縫い込まれている。それ以外の部分はすべて正常であり、強い魔力を流さなければ事故は起きないよう出力も抑えてあった。
「最初の課題です。この布へ縫い込まれた回路を調べ、気づいたことを報告してください。制限時間はありません」
「道具を使ってもよいのですか?」
「用意されたものは、すべて使って構いません。ただし、布を切ってはいけません」
「魔力を流しても?」
「構いません。強さは自分で判断してください」
十二人は机を囲み、順番に布へ触れた。ヨハンは銀糸の間隔を小さな物差しで測り、ガストンは魔晶石と回路の接続部を太い指で押している。学院出身の青年は計算紙へ魔力の流れを書き写し、薬師見習いの少女は銀糸の変色がないか、薬瓶の光へ透かして調べた。
ノーラはすぐには道具を取らなかった。織物工房で糸を調べるときと同じように、布の端を両手で持ち、窓のない研究室で魔導灯の光が均一に当たる場所を探した。袖を三度目に折り返してから、布を斜めに傾け、銀糸の表面へ細い影を作った。
半刻が過ぎても、誰も報告しなかった。魔力回路は複雑で、間違いだと断定した箇所が正常だった場合、初日から能力不足だと思われる可能性がある。十二人は互いの手元を気にしながら、同じ場所を何度も測り直していた。
「何か気づいた者はいませんか?」
エルザが尋ねると、学院出身の青年が計算紙を持ち上げかけた。しかし隣の者がまだ黙っているのを見て、手を下ろした。研究室の隅では水差しから落ちた雫が受け皿へたまり、換気口から入る風が朝食に使った蜂蜜の匂いを薄く運んでいた。
ノーラは銀糸の一本へ人差し指を添えた。糸そのものの縫い方は正しいが、隣の青い糸と交差する順番が一か所だけ逆になっている。そのため、魔力を右から左へ流した場合に限り、ごく弱い抵抗が生まれていた。
ノーラの手が少し上がったものの、肩の高さで止まった。工房主へ織り間違いを報告したとき、余計な仕事を増やすなと言われ、一週間分の賃金を減らされた日のことが頭をよぎった。母親は何も言わず、夕食の豆を一皿減らし、翌朝から自分の分のパンを半分に切っていた。
「ノーラ、何か見つけましたか?」
エルザは急かさず、彼女の指が触れている場所を見た。ノーラは折り返した袖口を握り、一度だけ息を吸った。隣に立っていたヨハンが場所を譲ると、彼女は机の前へ一歩進んだ。
「先生、この糸だけ、魔力の流れが逆です」
十一人の視線が、ノーラの指先へ集まった。学院出身の青年は計算紙と布を見比べ、ガストンは顔を近づけすぎて、鼻先を銀糸へ触れさせた。ノーラは自分の判断が間違っている可能性も考えたが、指を引っ込めなかった。
「どのように見つけましたか?」
「銀糸が青い糸の上を通るはずなのに、ここだけ下を通っています。見た目ではほとんど分かりませんが、布を斜めにすると影の向きが変わります」
「魔力への影響は?」
「右から流した場合、青い糸へ少し戻ると思います。すぐに壊れるほどではありません。でも、長く使えば、交差したところから熱を持つかもしれません」
「確信はありますか?」
「熱を持つかどうかは、まだ分かりません。けれど、糸の流れが逆なのは確かです」
エルザは魔晶石へ弱い魔力を流した。白い布の上を青い光が走り、ノーラの示した場所で一度だけ小さく揺らいだ。計測器の針は正常値よりわずかに右へ動き、銀糸と青い糸の交差部分から、焼けた埃に似た匂いが立った。
「正解です」
ノーラはすぐに笑わなかった。エルザの口から出た言葉が自分へ向けられたものだと確かめるように、白い布とエルザの顔を交互に見ている。やがて握っていた袖口から手を離すと、折り目のついた布を指でゆっくり伸ばした。
「なぜ、ほかの者は報告しなかったのですか?」
エルザが尋ねると、十二人は床や計算紙へ視線を落とした。ヨハンは異常らしい振動を感じていたが、時計と魔力回路の違いを考えて黙っていた。学院出身の青年は計算結果に小さなずれを見つけていたものの、自分の計算間違いだと思い、三度目のやり直しをしていた。
「間違った報告をしたら、初日で追い出されると思いました」
ヨハンが油染みの残る指を握りながら答えた。ほかの者たちも小さくうなずいた。エルザは十二人の顔を順番に見たあと、布へ流していた魔力を止めた。
「異常かもしれないと思った時点で、報告してください。正しいかどうかは、そのあと全員で調べます」
「しかし、毎回間違っていたら、作業の邪魔になります」
「間違った報告は修正できます。隠された異常は、誰にも修正できません」
「先生も、間違えることがあるのですか?」
ノーラの問いに、クラウスが大きくうなずいた。エルザが横目で見ると、彼は慌てて首を止めたが、もう全員が見ている。研究室の後ろには、エルザが半年かけて描き、中央制御装置の部分を自分で消した設計図が立てかけられていた。
「あります。皆さんを集めることになったのも、私が大きな間違いをしたからです」
「どのような間違いですか?」
「私一人にしか扱えない結界を作りました。守る力を強くすることばかり考え、私が倒れた場合を設計へ入れなかったのです」
「先生ほどの方でも、そこを見落としたのですか?」
「自分がいることを当然だと思っていました。人間は、自分自身を設備の一部に数えると、食事や睡眠まで計算から外してしまうようです」
「その点については、現在も改善途中です」
クラウスが口を挟むと、十二人の間から再び笑い声が起こった。エルザは机の上に残っていた空の麦粥の椀を示し、今日は全部食べたと反論した。ノーラはようやく口元を緩め、ガストンは笑った拍子に椅子の脚へ靴をぶつけ、大きな音を立てた。
エルザは白い布を持ち上げ、十二人の前へ広げた。純白のドレスを作った頃、自分の技術を誰かへ説明することなど考えたこともなかった。模倣され、奪われ、壊されることを恐れ、糸の選び方も回路の縫い方も一人で抱えていた。
「ノーラ、明日までに、この回路が熱を持つまでの時間を調べてください。ヨハンは計測器を準備し、ガストンは魔晶石を固定する台を作ってください」
「はい。先生」
「ほかの九人は、二人一組で同じ布を検査してください。ノーラの答えを正しいと決めつけず、自分たちの方法で確かめること」
「先生を信じなくてもよいのですか?」
「私の言葉だから正しいと判断する者は、ここには必要ありません。設計と現象を見て、自分で確かめてください」
エルザは白い布を机へ戻し、十二人分の教本を配った。革張りの表紙には、まだ名前が書かれていない。最初の頁には安全規則があり、二番目の頁には魔力回路の基本が、三番目の頁には失敗した場合の報告方法が記されていた。
「今日からあなたたちは、私の助手ではありません」
十二人は教本を持ったまま、エルザを見た。助手として雇われたと思っていた者もおり、下級貴族の四男は契約内容を確認するように頁をめくった。エルザは朝までかけて書いた十二人の名前を、黒板へ一人ずつ記していった。
「この国の次の守護者です」
ノーラは自分の名が書かれた場所を見つめた。織物工房では、布を織った者の名が商品へ残ることはなかった。貴族の屋敷へ納められた絨毯にも、祭礼で使われる幕にも、母やノーラの名が記されたことは一度もない。
「私が、国を守るのですか?」
「一人ではありません。ここにいる十二人で守ります。私も、アルベール殿下も、各地で働く技術者も加わります」
「私が失敗したら?」
「報告してください。ほかの十一人と直します」
「直せなかったら?」
「私も一緒に考えます。それでも直せなければ、結界を止め、住民を避難させます。失敗を隠したまま動かし続けることだけは、してはいけません」
訓練が終わった夕方、十二人は研究所の食堂で野菜入りの肉包みを食べた。薄い生地の中には鶏肉、刻んだ人参、香草が入り、蒸籠の蓋を開けると白い湯気が広がった。ガストンは一口で食べようとして舌を火傷し、ノーラから、鉱山の休憩時間ではないのだからゆっくり食べるよう注意された。
「今日は親方の指を借りなくてもよさそうだな」
「親方はいません。水を飲んでください」
「ノーラは先生より厳しいな」
「先生にも言うつもりです。昼食を二口で食べたと、クラウス様から聞きました」
少し離れた席で肉包みを食べていたエルザは、動きを止めた。クラウスは自分は報告しただけだという顔で、肉包みへ辛子をつけている。エルザは十二人の前で食事と睡眠も設計の一部だと話した以上、反論できず、口の中のものをいつもより長く噛んだ。
食堂を出る頃には、外で細かな雨が降り始めていた。十二人へ貸し出された宿舎の廊下には、濡れた外套を掛けるための木製の棒が渡され、洗濯した作業着や靴下が早くも並んでいる。ノーラは自分の部屋へ戻る前に白い布をもう一度確かめ、回路の交差部分を写し取った紙を教本の間へ挟んだ。
エルザは研究室へ戻り、黒板に並んだ十二人の名前を消さずに残した。机には使い終えた椀、糸くず、誰かが置き忘れた短い鉛筆があり、朝まで整っていた部屋には十二人が過ごした跡が残っている。以前なら片づいていない机を見て眉を寄せたが、その日は落ちた糸くずを一つ拾っただけで、鉛筆をノーラの教本の上へ置いた。
誰にも触れさせなかった技術へ、初めて別の者の指が触れた。ノーラはエルザが見落としたのではなく、エルザが隠した誤りを見つけただけだったが、それでも自分以外の目が回路の異常を捉えた事実は変わらない。エルザは十二冊の教本を見渡し、明日の訓練で自分の知らない答えが出る可能性を、今度は消さずに残すことにした。




