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駄文庫  作者: 水無月 黒


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科学の境界

リアクションありがとうございました。

 科学にまつわる怪しい話を幾つかしてみたいと思います。


〇魂の重さ

 魂の重さが21グラムと言う話を聞いたことがあるでしょうか。

 この話の大元は、20世紀の初頭にアメリカの医師であるダンカン・マクドゥーガル行った実験にあります。

 この人は、死に瀕した患者を秤の上にのせて、人が死んだ時の体重の変化を測定しました。

 その結果、人が死ぬときに数グラムから40グラムの体重の減少を確認したのだそうです。

 この実験を、人間の患者6名と犬16匹を対象に行い、人間では見られた体重の減少が犬では見られなかったとして魂の重さを量ったと主張したのです。


 患者を寝かせたまま重量の微細な変化を計測できる特性のベッドを用意して行われたこの実験、科学的な研究と考えてよいでしょうか?


 間違いなく科学的な実験であり、研究です。

 ただし、マクドゥーガル医師の主張は科学的に正しいとは認められていません。

 別に、他の科学者が石頭で斬新な考えを認めようとしなかった、とか言う話ではありません。

 そもそも科学的な正しさというものは、どこかの権威を持った偉い人が決めることではないのです。

 懐疑的な人の疑問や指摘に応えて論証や検証を繰り返し、答えられない疑問点や問題点が出てこなくなったところで得られるものです。

……中には一度正しいとされても後から問題が見つかって否定や修正されたり、未解決の課題があっても他に見るべき点があって有力候補として残る仮説などもありますが。

 マクドゥーガル医師の主張は懐疑的な人を納得させることができませんでした。

 理由は色々とあります。

 例えば、サンプルの数が少なすぎるとか。患者が六名だけでは統計的な意味もなく、そのうち二人は計測に失敗したと本人も認めているそうです。

 そして、減少した重量の値もばらばらで、21グラム(3/4オンス)と言うのは一人の患者の測定結果であって、平均値ですらありません。

 二十世紀初頭では今のように全自動でデータを記録するデジタル機器はありません。

 計器の針が指す目盛りを目視で読み取って記録したでしょう。

 体重計の針なんて、ちょっとした振動で大きく揺れます。微細な値を計測しようとすればなおさらです。

 患者がちょっと身じろぎしたら、外部からの振動が伝わってきたら、うっかりベッドにぶつかってしまったら。

 様々な理由で針は揺れ、そこから正しい値を読み取ることは大変です。

 特に捏造しようという意図がなくても、「魂の抜けた分軽くなるはず」と言う思い込みから死亡後の値を無意識に低く読み取る可能性だってあるのです。

 だから、ただ実験して数値を出せばよいというものではなく、どの程度の測定誤差やノイズが含まれるのかを考慮してそれ以上に有意な値であることを根拠をもって示さなければなりません。

 それができなければ、実験結果自体が信用できないものになってしまいます。

 この場合の信用とは実験とその結果に対する信用であって、実験を行った人に対する信用とは異なります。

(ただし、捏造を行うような人に対しては「本当にその実験を行ったのか?」という点から怪しくなり、科学者としての信用を失います)

 だから、可能な限り誤差やノイズやヒューマンエラーを無くして、信用できる実験結果にするために工夫を凝らします。

 特にサンプル数が少ない場合は統計処理でノイズを除去するようなこともできないので、なおさら信頼できる実験を行うための工夫が重要になります。

 そのあたりを怠って、疑う余地の残ったままの杜撰な実験を発表すれば、結果の数値が素晴らしくてもそれが正しいのか疑われ、そこから得られた考察も評価されません。

 マクドゥーガル医師の発表した内容では、多くの人から実験に対する信用を得られなかったのでしょう。

 また、実験結果の数値が正しかったとしても、それが即座に「魂の重さを量った」ことを意味しません。

 人の体重が減る原因は他にも考えられるからです。

 分かりやすいのが汗などで出ていく水分でしょう。

 人は安静にしていても一日に一リットル近い汗をかくと言います。単純計算で一時間に40グラムくらいの水分が失われます。

 一方、比較対象にした犬は人間と異なりほとんど汗をかきません。

 つまり、汗として排泄される水分の重さを量っていたのならば、人間では見られた体重の減少が犬では見られなかったことにも説明が付きます。

 マクドゥーガル医師もそのことは理解していて、呼気に含まれる水分や蒸発した汗以外に失われた質量があると主張しています。

 しかし、その主張は他の科学者を納得させることはできませんでした。

 どのような議論が行われたのかは知りませんが、汗等で失われる質量については正確な測定を行っていなかったのではないかと思います。

 死の前後と言う特別な状況下では、安静時の発汗量を元にした推測が通用しない可能性があります。

 汗の量なんて激しい運動をすれば一時間に1~2リットル出るそうです。人体にはそれだけの量の汗をかく能力があります。

 人が死ぬまでに体内で起こる現象の全てが解明されているわけでもないし、個人差とか病状による差とかもあるでしょう。

 だから、呼気に含まれる水分や汗として蒸発する水分以外の質量の欠損と言われても、その患者に対する推測の妥当性を示す根拠がしっかりしていなければ、出てきた数値を信用することなんてできません。

 個人差もあるだろうし状況によっては何十倍もの差が出るものを、特定状況の一般的な平均値を個人に当てはめて21グラム足りないとか言われたとしても納得できないでしょう。

 死ぬ前後の人の発汗量を正確に調べて、だれでもどんな死因でも正確に推定できるような研究成果と言うのはないと思うのです。

 そこに実験の精度に対する不信が加わればさらに怪しくなります。

 それに、説明のつかない質量の欠損が間違いなく存在したとしても、それだけでは魂の重さを計測したと断定することはできません。

 死後に体から抜け出す何かというのならば、三尸虫(さんしちゅう)(道教で人の体内に住み、その人の悪行を報告する三匹の虫)であっても説明はつくのです。

 魂でも、三尸虫でも、断定できるだけの根拠がないという点では変わりありません。

 また、何をもって人の死とするかという点も問題になります。

 患者がどの段階で死んだのかを判断する基準が異なれば、死ぬ前に体重が減少した、死ぬとほぼ同時に減少した、死んだ後に減少したと、同じ患者でも異なる解釈が現れてしまいます。

 医学的な死のタイミングというものは、瀕死から死に向かう途中で回復させる手段がなくなった時点、という側面があります。

 例えば、心臓が止まると血流も止まり、酸素や栄養の供給を絶たれた体中の細胞が徐々に死んでいきます。

 生命の維持に必要な臓器が機能しなくなるほど壊死すると、血流が戻ったとしてももう助かりません。

 特に昔は手遅れになる前に止まった心臓を再び動かす有効な方法がほとんどなかったため、心臓の停止が死とほぼ同義になっているのです。

 呼吸に関しても同様で、酸素の供給が止まると細胞や組織の活動が停止して死んでいきます。

 このため、自発的呼吸の停止を死亡判定の条件の一つにしてきました。

 しかし、技術が進歩すると心臓停止から蘇生できるケースも増えてきました。

 停止した心臓の再始動を促すAEDや心肺機能の肩代わりをする人工心肺装置などもあります。

 もはや、心臓が止まっただけでは死んだとは言えません。

 逆に、心臓が動いていてもそれだけで生きているとは必ずしも言えない状況も発生するようになりました。

 脳の機能が失われた脳死状態では、人工呼吸器などによってある程度の期間心臓を動かし続けることはできますが、そこから回復することはありません。

 だから、今では脳死を人の死と認めている国も多くあります。

 映像作品などでよくある、心電図が一直線になることで死んだことを表現する手法は、実はあまり正確ではありません。

 一度停止した心拍が時間をおいて復活することもあれば、心臓は動いていても脳死状態になっていることもあります。

 今では生と死の間には明確な境界は存在しないと考えられています。

 同じような状態に見えて、そこから持ち直して回復する人もいれば、どれだけ治療してもそのまま死んでいく人もいます。

 言ってみれば、部分的に死んでいるけれども全体としてはかろうじて生きている人と、部分的には生きているけれども全体としてはもう死んでいる人がいるわけです。

 この両者を絶対確実に見分ける方法は、現在のところありません。

 技術が進んで助けられる範囲が広がれば、その分生と死の境界もずれていくので、将来も完全無欠な判定方法は出てこないでしょう。

 死亡の判定基準は、ほとんどの人がもう助からない状態を判断するためのものです。

 けれども、稀にその状態から蘇生する可能性があるため、死亡後24時間は火葬してはいけないという決まりがあります。

 20世紀初頭では脳死の問題はまだ出てきていなかったでしょうが、一度心臓が停止しても蘇生する場合があることくらいは知られていたでしょう。

 人の死の瞬間を厳密に定めようとすれば、色々と難しい問題が出てくることになります。

 しかし、マクドゥーガル医師の主張は、患者が死亡したタイミングを明確にしなければ成立しません。

 そのあたりをないがしろにしたまま、「体重が減っているからこのあたりで死亡したのだろう」なんて実験を行って、それで「人が死亡すると体重が減少した」とか言われても信用できません。

 ついでに、死亡を確認するために患者に触れると、体重の測定の方にも影響が出かねません。

 かといって、直接触れることなく目視だけで生死を判断すると、死亡時刻の判定がかなり主観的になります。

 今のように電極を張り付けて心拍やら呼吸やら脳波やらを測ることのできない時代には、実験そのものの難易度が高かったことでしょう。


 色々と書きましたが、マクドゥーガル医師のこの実験は間違いなく科学です。

 それまでは目に見えない世界を扱うオカルトで扱われていた魂を、目に見える世界を扱う科学(サイエンス)の側に引き出そうとした画期的な実験です。

 20世紀の初めころは今以上に科学万能の風潮が強かった時期です。

 そんな世の中でマクドゥーガル医師は魂を質量をもった物質的な実体であると考えました。

 今でいうスピリチュアルな思想ではなく、バリバリの唯物論なのです。

 マクドゥーガル医師の主張が認められなかった理由は、非科学的だからではなく、他の科学者を納得させられるだけの証拠を示すことができなかったからです。

 科学として間違っているのではなく、実験として失敗しただけなのです。

 実験に失敗したとしても、その実験で証明しようとしていた考えそのものが否定されるわけではありません。

 否定するには否定するだけの根拠が必要になります。信用できない実験結果では何かを肯定することも否定することもできません。

 魂が存在することも、それが質量をもった物質的実体があるということも、死後体内から抜け出るということも、人間以外の動物には魂がないということも。

 それが正しいことを証明できなかっただけで、科学的に否定されたわけではありません。

 マクドゥーガル医師は、受けた指摘や疑問点に対応して、疑う余地のない実験を行えば、いきなり科学的事実として認められることはないにしても有力な仮説、有用な実験として広く認知されたでしょう。

 まあ、それができなかったから失敗した実験で終わっているのですが。

 実はこの実験、マクドゥーガル医師による再度の実験だけでなく、第三者による追試もほとんど行われていません。

 理由の一つは、純粋に実験が難しかったからでしょう。

 素人の私でも問題点が思いつくほどに精度を出すことが難しい実験です。

 技術の進歩した今ならばそれなりにやりようもあるでしょうが、技術的な面以外にも問題があります。

 それは、倫理的な問題です。

 終末期の患者を使って人体実験を行っているのです。簡単にはできません。

 息を引き取る目前の患者を生きているうちから実験台にのせることは、事前に本人の了解を得ていても、家族が納得するとは限りません。

 また、精密な体重の測定を行うためには患者に触れることが制限されます。

 家族が患者の手を取ることも許されず、苦しんでいても投薬も行わず、汗を拭きとってやることすらできない。

 息を引き取る直前に秤の上にのせるわけにもいかないだろうから、何時間にわたってそんな状態が続くのです。

 そう考えると、かなり非人道的な実験に思えます。

 もう一つの理由は、他の科学者の興味を引けなかったことでしょう。

 研究してもおまり有意義な成果が出るようには思えないのです。

 死後も残る不滅の魂と言う概念は、死を拒絶し永遠を求める人の願望が生み出した幻想である可能性があります。

 人間以外の動物に魂がないと考えるのも、人間を特別な存在と考える西洋的な思想にすぎません。日本なら、動物はおろか植物や非生物にだって魂を見出します。

 魂と呼べる何かが存在したとしても、質量を持つ物理的な実体が存在するのか、死亡後即座に肉体から抜け出するか。

 全て根拠のない憶測にすぎません。頑張って追試を行っても、マクドゥーガル医師の実験が杜撰だったことを証明して終わるだけの可能性も高いのです。

 さらに、マクドゥーガル医師の実験を高精度で行って文句の付けようのない結果を出したとしても、それで証明できることは「死亡時に正体不明の質量の欠損が存在する」ことまでです。

 失われた質量の正体を突き止めるためには、また別の方法を考える必要があります。

 マクドゥーガル医師の実験の段階でもう少し信憑性があれば、本当に魂の重さなのかはともかくとして、欠損した質量の正体を探そうとする人がそれなりの人数現れたことでしょう。

 そうした、後に続く者の興味を引くことができなかった点が、マクドゥーガル医師の最大の失敗でしょう。


 現代の技術を用いればもっと精度よく同じ実験を行うことができるでしょう。

 工夫次第では倫理的な問題も解消できるかもしれません。

 でも、マクドゥーガル医師の実験を今から追試しようとする人はまずいないでしょう。

 魂なんて非科学的だから、ではありません。

 質量をもった物質的な実体と想定した時点で科学の領域の話です。

 ただ、今はレントゲン写真をはじめ、CTやMRI等生きた人間の体内を調べる技術も進んでいます。

 物質的な実体があるのならば、生きた人間の体内に存在する対象を捕らえることも可能なはずです。

 死後に失われる質量の存在を確認したところで、それが魂なのか、三尸虫なのか、それ以外の何かなのかは、その実体を捕らえて生きた人間の体内でどのような働きをしているのかを確認しないことには判断が付きません。

 マクドゥーガル医師の実験は、成功すれば問題を提起することができましたが、魂の重さを測定したと言い切るには無理がありました。

 マクドゥーガル医師は結論を急ぎすぎました。

 おそらくは、結論が先にあって、それが正しいに違いないという思い込みがあったからこそ精度や信憑性に疑問の残る実験を行い、不備を残したまま発表するに至ったのでしょう。

 完全にマクドゥーガル医師の勇み足です。

 ただ、科学における新発見は、他の者が行おうとしないこと、あまり成果の期待できないような研究をあえて行うことで得られる場合もままあります。

 行われた実験に問題は多々ありますが、誰もやろうとしなかったことを最初に行ったという点については評価しても良いのではないかと思います。


〇常温核融合

 20世紀のころから『夢のエネルギー』と呼ばれているものがあります。

 それが、核融合です。

 太陽の内部で起こっている反応であり、何十億年もの間太陽が膨大なエネルギーを放ちながら輝き続けている理由でもあります。

 核反応によるエネルギーは化学反応によるエネルギー(石油、石炭と言った化石燃料や火薬など)に比べて大きなものがあります。

 広島に投下された原子爆弾の威力は、TNT火薬に換算して十五万トン相当と桁違いのエネルギーです。

 核エネルギーを利用した技術として、核兵器以外に実用化されているのは、核分裂を利用した原子力発電です。

 この原子力発電ですが、いくつか問題があります。

 まず、燃料となるウランは豊富な資源とは言えません。

 ウランそのものは地殻や海水中に広く分布しているそうですが、ウラン鉱石として採掘可能な量には限りがあります。

 また、ウランには複数の同位体が存在しますが、核分裂を起こすウラン235は0.7%程度で、大半は核分裂を起こさないウラン238です。

 この問題に対して、高速増殖炉と呼ばれる原子炉が各国で研究されてきました。

 核分裂を起こさないウラン238が中性子を取り込むと、核分裂を起こすプルトニウム239になります。

 原子炉の中では核分裂の際に放出された中性子が飛び交っているので、核燃料とならないウラン238から一定割合で核燃料となるプルトニウム239が生成されます。

 原子炉内で消費する以上の核燃料を生成することができるようにしたものが高速増殖炉になります。

 ウラン全体の99.3%を占める核燃料にならないウラン238を核燃料に変換できるため、理論上核燃料を百倍以上に増やせる夢の原子炉です。

 ただ、技術的に非常に難しく、ほとんどの国で実用化を断念しました。

 日本でも高速増殖炉もんじゅが事故や故障続きで廃炉となり、商用利用は見送られました。

 次に、使用済み核燃料の処分が大きな問題となっています。

 核分裂反応はウランやプルトニウムなどの重い原子核が分裂して軽い原子核になる現象ですが、分裂してできる新たな原子核は大体が不安定で放射性物質になります。

 ウランやプルトニウム自身も放射性物質ですが、核分裂後はより強い放射線を発するようになります。

 放射性物質の処理としては、放射線を出さなくなるまで待つしか今のところ有効な手段はないのですが、物によっては何万年何億年単位で放射線を出し続ける物質もあるので厄介です。

 日本では使用済み核燃料の最終処分の問題を後回しにして原発推進を始めてしまったため、一時保管されている核廃棄物がたまる一方になっています。

 それから、原子力には事故が起こる危険性が付きまといます。

 原子炉や原子爆弾の中で起こっていることは、核分裂の連鎖反応です。

 ウラン235は不安定で、何もしなくても低い確率で核分裂します。

 核分裂反応では、原子核が分裂してできた軽い原子の他に中性子が何個か飛び出します。

 飛び出した中性子を他のウラン235やプルトニウム239が吸収するとその原子核は不安定になり、即座に核分裂を起こします。

 一回の核分裂で発生した中性子が平均して一個の原子核の核分裂を誘発することができれば、核分裂反応が連鎖的に続くことになり、一定数の核分裂が継続的に続くことになります。

 この状態を臨界と言います。

 臨界を超えて、一回の核分裂が複数の核分裂を誘発するようになると、発生する核分裂反応がどんどん増えていきます。

 大量の核燃料が一度に核分裂を起こして膨大なエネルギーが一度に放出される現象が核爆発です。

 結局のところ、核分裂反応は核分裂を起こす物質を一定量、一定密度で集めればそれだけで進行してしまいます。

 JCOの臨界事故は、制限量を大きく上回るウラン溶液を投入したことで原子炉の外で核分裂の臨界状態に至ったのです。

 その結果、十分な遮蔽物のないまま発生した放射線や中性子を浴びて作業員二名が死亡しました。

 核分裂は、大量の核燃料を密集させるだけで反応が進んでしまう恐れがあります。

 また、福島の原発事故では、原子炉の稼働を停止しただけでは安全にならないことを思い知らされました。

 核分裂反応の連鎖を停止させた後も、原子炉は高い熱を持ち冷却し続ける必要があります。

 実は、核分裂の余熱や核分裂の連鎖が完全に止まるまでのタイムラグ以外にも熱源は存在します。

 核分裂によって作られる物質の中には、半減期の短い、つまり短時間で放射線を放出して別の物質に代わってしまう核種もあります。

 そうした寿命の短い核種は、代わりに強烈な放射線を放出します。放射性物質が放射線を放射する際に、崩壊熱と呼ばれる熱を生じ、これが核燃料を加熱します。

 だから、使用済みの核燃料は放射線量が落ち着くまで年単位で冷却しながら保管することになります。

 そんなこともあり、運転を停止した後も原子炉が冷めるまでは冷却を続けなければなりません。

 冷却が間に合わないとどんどん温度が上がって、原子炉内部の構造物が熱で溶け落ちる炉心融解(メルトダウン)が発生します。

 さらに、原子炉の炉心を格納する原子炉圧力容器が破損すれば、放射性物質が外部に漏れて放射能汚染が発生します。

 核爆発を起こさなくても、放射性物質が飛散すれば大惨事となります。

 水素爆発を起こした福島の原発事故では、在日米軍は日本からの撤退も視野に入れていたそうです。

 こうした数々の問題のある現在の原子力発電に対して、核融合ならばそれらの問題がほぼ発生しません。

 核融合の燃料となる重水素は水素の同位体であり、海水中に大量に存在します。

 ウラン鉱のように産地の限られた資源ではないので、他国の都合で入手困難になる恐れもほとんどありません。

 また、核融合の結果生成されるのはヘリウムであり、強い放射線を放出するような核生成物は作られません。

 何万年にわたって厳重に管理しなければならない危険な高レベル核廃棄物の心配はありません。

 それから、核燃料を密集させるだけで反応が進む核分裂と異なり、核融合はかなり厳しい条件を満たさなければ反応しません。

 電源喪失で炉心融解(メルトダウン)しかねない核分裂と異なり、壊れれば停止する核融合は理論的に暴走しません。

 まあ、実際には重水素と三重水素(トリチウム)を反応させる方が核融合を起こしやすいのだけれども三重水素(トリチウム)は自然界にはほとんど存在しないとか、燃料や核融合の生成物として登場する三重水素(トリチウム)は放射性元素だし中性子線も発生するので放射能と無関係ではいられないとか、核反応が暴走しなくても他の要因で大事故が発生する可能性があるとか、全ての問題が完全に解決するとは限りません。

 それでも、二酸化炭素を排出せずに将来にわたって安定したエネルギー源として期待でき、厄介な高レベル放射性廃棄物を生み出さず、事故が起こったとしても大量の放射性物質をまき散らす大惨事にはならないとメリットの多いまさに夢のエネルギーです。

 これさえ実用化されればエネルギー問題は解決、と言われるようなエネルギー源です。多くの国や機関で実用化に向けて研究が行われました。

 しかし、未だに夢のエネルギーのままです。

 なかなか実用化されない理由は、単純に難しいからです。

 核融合を起こすには、原子核同士を反応するまで近づける必要がありますが、原子核は正の電荷を帯びているので反発しあって簡単には近付きません。

 クーロン力による反発を乗り越えて核融合を起こすには、それ以上の力で原子核同士を近付けなければなりません。

 そのために必要となるのは、高温または高圧です。

 それも、並みの高温高圧ではだめで、例えば太陽の中では1600万度、2400億気圧の温度と圧力の中で核融合が行われているそうです。

 水爆では、その高温高圧を作るために原爆の威力を使用しています。

 無差別な破壊ではなくエネルギーとして利用するためには、安定した高温高圧を作らなければなりません。

 さすがに何億気圧の圧力に耐えられる容器を作ることはできないので、極端に温度を高めて核融合を実現しようとしています。

 今は磁場でプラズマを閉じ込めて加熱する方式と、強力なレーザー光を当てて燃料が拡散する前に一気に高温にする方式が主流です。

 どちらにしても大掛かりな装置が必要となり、実験するだけでもかなりのお金がかかります。

 実は核融合反応を起こすことだけならば既にできています。

 ただ、核融合反応を起こす状況を作るために投入したエネルギーを超えるだけのエネルギーを核融合によって発生させることができていないのです。

 計算上は投入した以上のエネルギーを発生させることに成功したという話もありましたが、そのエネルギーをすべて回収できるわけでもありません。

 核融合発電を実用化するためには、核融合を起こすために投入した以上のエネルギーを電力として回収し、その電力で次の核融合反応を起こす、もしくは核融合が起こる状態を維持し、さらに余剰電力を取り出せる必要があります。

 さらに経済的には、発電所の建築や研究開発に投資した費用を、運用にかかるコストを差っ引いた利益で回収し、それ以上の収益を得られるだけの電力を作り出さなければなりません。

 21世紀に入ってからも、核融合の実用化はまだまだ遠い未来の話といった感じです。


 ところが、1989年にこの核融合の常識を覆す発表が行われました。

 発表したのはイギリスのサウサンプトン大学のマーティン・フライシュマンとアメリカのユタ大学のスタンレー・ポンズでした。

 重水(水素を重水素に置き換えた水)を入れた試験管にパラジウムと白金の電極を入れて電気を流したところ、電流による物以上の熱が発生した。

 また、トリチウムや中性子、ガンマ線なども検出したとして、核融合が起こったと発表しました。

 これが本当ならば、画期的なことです。

 これまで、国家予算を投入するレベルの設備がなければ行えなかった実験が、小さな実験室でも行えるようになるのです。

 研究は加速するでしょう。実用化も早いはずです。

 ついでに、小型化も期待できます。

 核融合自動車も、核融合飛行機も何でもありです。

 世界を変える発見。

 その期待を込めて、世界中が熱狂しました。

 他の研究者の反応も迅速で、短い期間で追試に成功したという報告もありました。

 普段は科学に興味のない人も含めて、多くの人が期待に胸を膨らませました。

 しかし、景気の良いニュースは長く続きませんてした。

 その後行われた多くの追試で、現象が再現しなかったのです。

 追試に成功したという実験も、後から調べてみると杜撰で信憑性に欠けたり、再現性が無かったりしました。

 アメリカでは常温核融合に対する疑問が持たれ、エネルギー省を中心とする調査団が組織されてポンズ氏の研究に対する調査が行われました。

 その結果、ポンズ氏の実験もかなり杜撰で核融合が行われていたという証拠はないと結論付けられました。

 こうして、常温核融合の普及によってエネルギー問題の解消される夢の未来は、そのまま夢幻と消えました。

 期待が大きかった分、常温核融合に対する風当たりは強くなり、一時期常温核融合と言うだけでインチキだとか疑似科学だとか言われるようになりました。

 当時、電極に使われたパラジウムが一時的に高騰したりもしたそうなので、騒動で損失を被った人もいたことでしょう。

 一時は「20世紀最大の科学スキャンダル」等と言われたりもしましたが、常温核融合自体は別に疑似科学でもなんでもなく、普通の科学の範疇です。

 実験には失敗も間違いも誤解釈なんかもつきものです。

 何か失敗してはいないか? どこかで間違えていないか? 別の解釈もできるのではないか?

 多くの人が検証を繰り返すことで正しさを求めることが科学の手法です。

 最初の一発目の実験に不備があっても何の不思議もありません。

 問題は、いきなりマスコミに大々的に発表したことです。

 マスコミは、大衆の興味を引くことを優先するため、センセーショナルに報道することがあります。

 新発見や新技術に関して、まるですぐにでも実用化されて便利に使えるようになるかのような印象を与えるニュース番組を見たことがある人もいるでしょう。

 マスコミ主導で情報が広まれば、発表が正しいことを前提に、常温核融合が実現した夢の未来を吹聴することになります。

 本人たちはよほど自信があったのでしょう。

 電極が溶けるほどの熱が発生したそうです。核融合以外ありえない! と思ったのかもしれません。

 しかし、いくら自信があっても、ものには順序があります。

 予想通りの実験結果が得られたとしても、自分たちの主張がすべて正しいと証明されたことにはなりません。

 同じ実験結果を示す別の現象とか、実験結果に対する別の解釈があるかもしれません。

 理論を誤って適用したり、単純な計算ミスで実験が成功したと思ってしまうこともあります。

 機械の故障やセッティングのミス、外的な擾乱によって間違った結果が出たのかもしれません。

 どれほどの天才であろうと権威であろうと、間違えるときは間違えるし、失敗する時は失敗します。

 だから、大勢の人間によって検証されなければなりません。

 大学の研究ならば、まずは学内で精査して外部に発表して問題ないことを確認し、それから学会に発表して他の専門家の意見を聞いたり追試をしてもらったりする流れになるのではないでしょうか。

 まあ、学生の研究でなければ大学はそこまで面倒を見ないとか、アメリカではいきなりマスコミに発表することが一般的だとかあるのかもしれませんが。

 それでも、社会的な影響の大きい内容であることは分かっていたのだから、もう少し慎重にデータを集めて確証を得るべきだったのではないでしょうか。

 後からならば何とでも言える、という面があるのは確かですが。

 常識を覆すような発見をした人が、最初は何かの間違いかと思って計算をやり直したとか実験を見直したとか言う話もよく聞きます。

 重大な発見だからこそ慎重を期すべきでしょう。

 それでもマスコミ発表を急いだ背景にはそれなりの事情があった、はずです。

 常温核融合は、それが事実ならば世界を変える大発見です。実用化されればノーベル賞確実でしょう。

 しかし、実験装置自体は簡単なので、研究の概要を知れば簡単にまねすることができます。

 腰を据えて様々な角度からじっくりと検証を、とやっていたら別の誰かがちょこちょこっと実験をやって論文を発表してしまうかもしれません。

 科学の世界では、最初に論文を発表した人が発見者扱いになることが多いです。下手をすれば、どこかの誰かに業績を横取りされる恐れがあります。

 そこで、先にマスコミに大々的に発表してしまえば、論文が遅れたとしても、世界的に自分たちが発見者だと認識させることができます。

 大学としても、世間の興味を引く研究を行っていると知られた方が研究費やら補助金やらを取得しやすいので、一般受けする研究の発表は好ましかったのでしょう。

 他の大学に予算や研究の主導権を奪われるのも嫌でしょうし。

 後になってから「実はうちの大学でも以前からその研究はやっていた」と言っても負け惜しみにしか聞こえません。

 科学に間違いはつきものだから、多少いい加減な発表をして恥をかくリスクよりも、大学の知名度が上がるメリットの方が上回ると判断したのかもしれません。

 また、追試を行った他の研究機関も急ぐ必要がありました。

 発見者としての栄誉はフライシュマン氏とポンズ氏にあるとしても、早期に追試に成功すれば研究のトップグループの一員に食い込むことも可能です。

 発見されて間もない現象ならば、まだまだ重要な何かが見つかる可能性は十分にあります。

 実用化に不可欠な重要な工夫を思いついて特許をとれば、大金を得ることも夢ではありません。

 大急ぎで実験をして、それっぽい結果が出たら即座に「追試に成功」と発表したのでしょう。

 一方、追試を行って現象を再現できなかった場合はすぐには発表しません。

 何か間違えて失敗したのかもしれないし、条件に違いがあったのかもしれません。

 自分の間違いで他人の成果を否定するのはみっともないことですし、条件の違いにより結果が変わることが判明すれば新たな知見を得る有用な手掛かりとなります。

 だから、追試に失敗した報告は遅れて発表されます。

 このタイムラグも騒動を加速しました。

 最初の発表から間を置かずに追試成功の報が届くのです。夢のエネルギーの実現も近いと多くの人が思ったことでしょう。

 科学者以外にも多くの人が興味を持ち、騒動に加わりました。

 そして、フライシュマン氏とポンズ氏の主張が認められなかったことで、「常温核融合なんて嘘っぱち」と評価が反転することになります。


 しかし、常温核融合は嘘でも疑似科学でもオカルトでもありません。

 ちゃんと科学の手法に則っています。

 仮説を立て、検証するための実験を行い、その結果を根拠に自説を発表しました。

 けれども、現象に再現性が乏しく、元の実験も結構杜撰で信用ならないと、その主張が認められなかっただけです。

 科学の世界では特に珍しいことでもないはずです。

 本来ならば短期間で否定されるような研究発表が一般人――科学の研究成果を利用するだけの人が目にすることはほとんどありません。

 常温核融合の場合は、最初にマスコミに対して発表したことと、何より世間一般の関心が高かったからこそ騒動になりました。

 以前、超光速のニュートリノを検出したと発表して、その後間違いだったと訂正されたことがありましたが、常温核融合の時ほどの騒動は起こりませんでした。

 超光速の粒子は、物理学的にはインパクトのある発見なのですが、有用な応用が思い浮かばなかったためか一般の反応は今一つでした。

 科学的新発見に対する世間一般の反応は、本来これが普通です。

 常温核融合に関しては、世間の期待と関心が非常に大きかったのです。

 この期待と関心は、常温核融合が本当だったら研究や実用化を後押しする力となったでしょうが、場合によってはそれらが研究を妨害する方向に働くこともあります。

 素人が外野で騒いで重要な議論を妨げるのです。

 科学と言うのは本来開かれた知識です。誰もが知り得て議論に参加できることが大原則です。

 けれども、根拠もなく言い張ったり、感情的に否定したり、対立する意見を持つ者を誹謗中傷することは科学的な議論ではありません。

 常温核融合が実現して欲しいからと言って、疑問を呈する者を非難することは間違っています。

 科学は疑念から始まります。

 身近な当たり前に何故と考え、正しいとされていることに対して本当かと問う。

 それらの疑問に丁寧に答えていくことで新たな発見が得られるほか、様々な疑問に答えることで考えの正しさが示されるのです。

 想定外の疑問をぶつけてくる相手は歓迎すべきなのが科学のやり方です。

 一方で、「常温核融合なんて嘘なんだから、そんな研究すべきではない」という主張も間違っています。

 フライシュマン氏とポンズ氏の主張は認められませんでしたが、それは常温核融合があり得ないと証明されたということではありません。

 常温核融合の概念についても彼らが提唱したものではなく、それ以前から可能性が考えられていました。

 また、調査を受けたポンズ氏の実験についても、捏造と判断されたわけではありません。

 ちゃんと実験を行って、その結果を吟味し、知られている現象ではあり得ないと判断して発表したのです。

 その結論を下せるだけの実験ではなかったと判断されただけで、では実際には何が起きていたのかと考えると、単なる見間違いから本当に常温核融合あるいはそれ以外の未知の現象が発生していたまで、様々な可能性があります。

……可能性を絞り込むことができなかったからこそ、杜撰な実験と言われます。

 つまり、実用化に向けた研究開発を後押しするような段階ではないけれど、科学の研究としては行う意義はあるのです。

 センセーショナルな報道を見聞きしただけの一般の人は、こうした研究者の事情を考慮せず、好き勝手な発言をします。

 完全な外野として科学の議論と無関係なところだけで騒いでいるのならばそれほど害もないのですが、一般人や一般人の世論の影響を受ける人が研究費などに影響を与える立場だったりすることもあります。

 実際、この騒動の後しばらくは「常温核融合」自体がタブー視されるような空気になりました。

 日本でも研究が行われましたが、「常温核融合」の名称を避けて「新水素エネルギー実証試験プロジェクト」のような名称で実施されました。

 他にも興味はあったけれども研究を断念した人とか、あまり研究内容を世間にさらさずにこそこそと研究していた人とかもいたでしょう。

 それが、この騒動の残した負の遺産だったのでしょう。


 社会的な関心が失われた後も地道な研究は続けられ、熱の発生とか核融合ではなくても何らかの核反応が起きているらしいことを確認したと言う研究成果もあるようです。

 けれども、新たなエネルギー源として実用化に向かう気配は今のところありません。

 最初にフライシュマン氏とポンズ氏が発表した実験が間違いなく常温核融合で、そのことが世界的に認められていたとしても、今でも常温核融合が実用化されていない可能性もあります。

 電極がすぐにダメになって連続稼働できないとか、効率が悪くて採算が取れないとか、実用化を阻害する要因はいくらでもあり得ます。

 科学の新発見から、実用化に至るまでの道程は長いのです。


〇超心理学

 私は個人的に、医学には三つの側面があると思っています。

 一つは、何故病気になるのか? 薬はどうして効果があるのか? 等、体の中で何が起こっているのかを知ろうとする科学としての医学。

 一つは、病気やけがの症状に対する薬や治療方法を知り、患者の様態に合わせて適切な対応を行える医療技術としての医学。

 そして最後の一つは、患者の命を預かるある種の聖職としての医師。

 科学と技術の両面を持つことは珍しくないでしょうが、直接的に命を預かる聖職となると他にはありません。

 医者は、人の命を守るために、守るべき人の体を傷つけることを許された唯一の職業です。

 手術を行う外科医はもちろんのこと、注射だって皮膚に穴をあけますし、医師の使用する効果の高い薬の中には扱いを間違えると体に害をもたらす劇薬も含まれます。

 床屋の店先でくるくる回っている三色のサインポールは、赤が動脈、青が静脈、白が包帯を表す外科医のマークだったそうです。

 昔のヨーロッパでは外科医が理容師を兼ねていたのでその名残だとか。

 人の体に刃物を当て、髪の毛や髭であっても体の一部を切り落とすことを許されていたのは医者だけだったのです。

 今の法律でも、本人の許可なく無理やり髪の毛を切ったら、暴行か傷害の罪に問われたはずです。

 医者だけが罪もない人を傷つけて血を流すことを医療行為として認められているのです。

 三つの側面のうち、患者に近いほど聖職としての側面が強くなります。

 目の前にいる患者の命を守り、健康を回復し、苦痛を取り除くことが最優先です。

 患者を助けるために医療技術が存在し、医療技術を発展させるために科学としての医学知識が役に立ちます。

 科学よりも技術の方が優先され、理由は分からなくても効果のある治療方法ならば使用されます。

 そして、技術よりも優先されるのが患者自身です。その患者のためになると判断した医療技術を用いて治療を行わなければなりません。

 優れた医療技術があっても必要のない患者に使うべきではないし、学術的な興味があっても患者で人体実験してはなりません。

 患者にとっては自身の命と健康がかかっているのです。

 医者が信用できなければ、けがや病気で病院に行く人が減り、助かるはずの多くの命が失われることになりかねません。

 だから、医療関係者は他の職業以上に高度な倫理が求められます。

 また、最善を尽くしても患者の死が免れないこともあれば、終末期医療では延命よりも苦痛の緩和や心の平安が求められることもあります。

 ある意味、宗教の聖職者に近い要素もあるのです。


 余談ですが、漫画等で子供を脅すために注射器を持ち出すことがあります。

 私はこれ、少々問題なのではないかと思っています。

「子供の嫌がるモノ」という記号(シンボル)としての注射ですが、神聖な医療道具を拷問に使うと考えるとギャグとしても笑えない気がするのです。


 さて、様々な側面のある医学ですが、心理学が加わるとさらに別の側面が現れます。

 心理学も幅の広い学問ですが、心の病や精神的な苦痛から患者を助けるという点で医療行為の一端を担うことになり、医学と同じような側面を持つことになります。

 しかし、心は目に見えません。

 目に見えない世界を扱うのは、科学(サイエンス)ではなくオカルトの領分です。

 もちろん、心理学自体は科学です。科学として扱うために様々な工夫をしています。

 目に見えない心の働きを目に見える行動から探るとか、統計処理を行って人類共通の部分を調べるとか。

 しかし、そうした目に見える部分の背後には、未だに解明されていないブラックボックスである「心」があります。

 人の精神を調べる手法として、自分自身の心の働きを直接観察するという方法があります。

 けれども、自身の心を客観的に観察することは困難です。主観を消すことはできないのですから。

 自然科学の実験等でも主観が入ることによって結果が歪められる恐れがあるからこそ、他の人による追試が必要になります。

 自分の心を正確かつ客観的に観察できる人がいたとして、その観察結果が全て正しいことを証明する方法はありません。

 他人の心を直接観察する方法はありませんから。

 そして、心の働きを観察した結果が正しかったとしても、それが他人と同じとは限りません。

 直接観察できるのは自分の心だけ。サンプル数が1つだけでは統計処理どころか定性的な比較もできません。

 他人の心については本人に自分で観察してもらうしかありませんが、その人が客観的に自分の心を観察できるか、観察した結果を正直に報告してくれるかと言う点が問題になります。

 客観的な観察ができて正直に報告したとしても、異なる人が観察した結果を比較することは難しい問題があります。

 目に見えない心の働きや状態を言語化することは難しいものがあります。

 同じ心の働きや状態に対して人によって別の名前を付けるかもしれませんし、同じ呼び方をされる心理が人によって微妙に異なるかもしれません。

 言葉の定義や認識を共有するにしても限界があります。五感の内側の体験を共有することはできないのです。

 誰でも大体同じだろうと考えられる範囲で数を集めるか、ある程度に認識を共有できた少数の特別な人だけからもう少し深い情報を得るか。

 どちらにしても、科学の範疇で議論できない部分は残ります。

 その、科学の範疇で考えられる境界を超えると、そこはオカルトの領域になります。

 心理学とか精神分析とかは、オカルトと地続きなのです。

 フロイトとかユングとかなんだか怪しいと思ったことはありませんか?

 それは、難しくて理解できていないという部分もありますが、ちょっと拡大解釈すると安易にオカルトに突入する怪しい分野です。

 しかし、医学の患者を最優先する側面からすれば、科学(サイエンス)だろうとオカルトだろうと効果があればそれでよいのです。

 科学的に正しさが証明されていない心の構造を元に「これこれこういう理由で心の状態がこうなっている」とか説明してもそれが正しい保証はありません。

 けれども、そうした説明で精神的な苦痛が和らいだり、多少なりとも安心感を得られたのなら治療としてはは成功です。

 その後、科学的には間違った考えだと否定されたとしても、治療方法としては正しいなどと言うことが起こり得ます。

 だから、心理学や精神分析の歴史には怪しい話がいろいろとあります。

 例えば、「洗脳」と言うのは元々精神的な疾患を治療する目的で考えられた技術です。

 人が精神的に苦しむ原因を問題のある記憶や思想が悪さをしているためだと考え、そうした悪いものを一度きれいに頭の中から洗い流そうとするものです。

 トラウマとなった記憶に苦しんでいる人ならば理解できる考えでしょう。

 効果がありすぎて、新たに恐怖の記憶や行動を縛る思考なんかを刷り込む危険な技術になってしまいましたが。

 他にも、心身の不調の原因が幼少期の性的虐待にあると考える一派がカウンセリングを行ったところ、幼少期に親から受けた存在しない性的虐待を『思い出して』親を訴える人が続出したこともあります。

 これはアメリカでの話ですが、米国ではこの手の心理学的なやらかしがちょくちょくあります。有名なスタンフォード監獄実験なんかもアメリカでの話です。


 色々と怪しげな部分のある心理学ですが、その中でも特に怪しげなのが超心理学(パラサイコロジー)でしょう。

 ESPとかPKとか言った超能力を扱う超心理学は、それだけでオカルトのように感じる人もいるでしょうが、真面目な研究としての超心理学は科学の範疇です。

 真面目にやらなければ疑似科学やオカルトに陥りやすいですが、そのあたりはどの分野でも同じでしょう。

 ただ、超心理学は心霊現象を科学的に説明するために誕生したという話を聞いたことがあります。

 19世紀後半頃の欧米では交霊術が盛んでした。交霊会がしばしば行われ、多くの人が参加しました。

 日本でも「こっくりさん」が社会問題になるほど流行ったことがあります。

 実はこの「こっくりさん」、日本古来からのものではなく、明治時代に西洋から入ってきた交霊術の一種、その日本ローカライズ版です。

 日本が文明開化と言って西洋の技術を必死になって取り入れていた時、科学技術が発展して科学万能主義が台頭していた欧米でもオカルトの領域である心霊現象を信じる人は数多くいたのです。

 科学万能主義が台頭する時代と言うのは、それまでオカルトの領域であった目に見えない存在を、技術の進歩によって目に見える形にしていった時代でもあります。

 オカルトの領域にある心霊現象も、目に見える形にして科学で扱おうとする動きはあったでしょう。

 アプローチは二種類あります。

 一つは、霊的な存在が実在すると考え、その姿を何らかの形で可視化してとらえること。

 もう一つは、霊的な存在が実在しないと考え、心霊現象を引き起こす別の実態を探すこと。

 霊的な存在の代わりに、心霊現象を観測する人間が何らかの方法で現象を引き起こしていると考え、心霊現象を引き起こす人間の未知の能力を研究することが超心理学の始まりだという話です。

 裏をとっていないのでどこまで正しいか分かりませんが、オカルトの領域を科学で解き明かそうとする試みであることは確かでしょう。


 さて、超能力の研究を行うと言った場合、具体的に何をすればよいのでしょうか?

 単純に思い付くのは、超能力者を連れてきて、実験室の中で能力を使ってもらうことです。

 超能力の概念が一般的でなかった頃なら、霊能者とか霊媒師とかを連れてくればよいでしょう。

 数々の測定機器が並ぶ中、体中に電極やら何やらを付けた超能力者が実験を行っている。

 そんな光景を思い浮かべた人もいるでしょう。

 けれども、この方法はまず上手くいきません。

 自称超能力者の中には、必ず手品師が紛れ込んでいます。

 それはもう、自称霊能者の中に詐欺師がいるのと同じくらい確実にいます。

 超能力の正体が判明していない以上、超能力者を確実に判別する方法はありません。

 既知の人間の能力では不可能な現象を起こすことで確認するくらいしかありませんが、一見不可能に見えることをやって見せる、あるいは本当は可能なことを不可能であるように見せることが手品師の本領です。

 手品師としては、種や仕掛けがばれるまでは魔法だろうと超能力だろうとハンドパワーだろうと、好きに言ってよいのだそうです。

 むしろ、種や仕掛けをばらさないことが手品師の職業倫理だったりします。

 ここで、「科学者なら手品くらい簡単に見破れるだろう」と思うのは間違いです。

 科学者はトリックを見破る専門家ではありません。騙される時は普通に騙されます。

 さらに面倒なことに、「超能力を使うための条件」がある場合があります。

 精神的な影響が強く出ることが予想される能力だけに、「大勢に見られていると集中できない」といった主張はあり得る話と思えます。

 しかし、その『超能力者』の主張を全部入れていたら科学的な観察が十分に行えないだけでなく、インチキが入り込む危険性が高まります。

 例えば、透視の対象となる紙の入った封筒を持ったまま一度帰宅し、翌日になってから透視実験を行う、なんてことを許していたら、手品師でなくても封筒の中を覗いて正解を言い当てることができるでしょう。

 また、本人が不正を行っていることを自覚していない場合もあります。

 井上円了は「こっくりさん」が霊的な存在ではなく人の腕の力で動かしていることを見抜きました。

 しかし、こっくりさんをやっている人は自分で動かしている自覚がないため心霊現象のように思うのです。

 目隠しの隙間から見えている状態を「透視した」と思い込む可能性があります。

 狭い隙間から見ると視野も狭く現実感が薄れるので、肉眼で見た光景ではないように感じることがあるのです。

 他にも「念力でピンポン玉を動かせるようになった」と聞いて実演してもらったら、ふらふらと動くピンポン玉の動きを予測して、その予測に合わせて動かそうとする方向を変えているようにしか見えなかった、と言う話を聞いたことがあります。

 たぶん、やっている本人は自分の思い通りに動かしているつもりなのでしょう。

 手品師のトリックを暴いても、科学的な発見はありません。

 超能力だと思い込む心理を解き明かすことは、心理学的には意味があるでしょうが、人の持つ未知の能力ではありません。

 加えて、「疑っている人が近くにいると能力を発揮できない」なんてことを言いだしたら科学では扱えなくなります。

 疑念を持つ者を排除すればトリックの入り込む余地が増えて信頼性が落ちるし、本当だったとしても人の主観に左右される不安定で研究し難い能力です。

 超能力研究のネックは、実験や観察が容易な安定した能力を持つ本物の超能力者の確保が難しい点です。

 どんなことができるかを見て超能力者を選んでも、手品師を排除することは困難です。

 けれども、他に確実な判定基準はありません。

 超能力自体が現状では空想の産物であり、想定している現象はあっても、確定した性質や特徴などは存在しません。

 本物の超能力者を確保できないから研究が進まない。

 研究が進まないから本物の超能力者を見分ける方法が見つからない。

 この悪循環です。

 そこで、真面目に超心理学を研究する研究者の多くが、早い時期から有名な自称超能力者を対象としない研究を行っています。

 研究対象とするのは、特に超能力者とは呼ばれない一般人です。

 人の持つ未知の能力が存在するのならば、それが超能力として目立って現れていない人であっても、微弱であっても能力の鱗片が現れていたとしても不思議ではないでしょう。

 超能力を自称していない一般人を対象とした場合、目立ってはっきりとした能力の発現を観測できないという点がデメリットになります。

 その代わりにメリットもあります。

 まず、超能力者を自称していないのだから、わざわざトリックを使って超能力を演出する必要がありません。

 それに、著名な超能力者や霊能力者は本物であるという看板を掲げて仕事をしたり名声を得たりしています。

 実はそんな能力はなかったとカトリックだったとか言った結果になったら困ることになります。

 だから、実験に対して様々な注文を付けて成功させようとするだろうし、それでも能力を否定されたら支援者(信者)を扇動して研究を非難したり陰謀論を展開したり、名誉棄損で裁判に訴えてくるかもしれません。

 その点、一般人ならば実験結果をコントロールするために注文を付けてくることはありませんし、実験結果に文句を言うこともないでしょう。

 そして、不特定多数の人間を対象に実験を行えるので、統計処理を行うこともできます。

 特定個人に頼る必要が無ければ誰かの協力が得られないだけで研究が止まることもありませんし、実験結果を全く別の研究機関が追試することも可能になります。

 不特定多数の一般人を対象にすることで、超心理学は科学としての研究ができるようになったと言ってもよいでしょう。

 具体的にどんな実験をするかと言うと、例えばESPカード(ゼナー・カード)と呼ばれる五種類の図形が描かれたカードを用いて、他人に見せたカードの種類を当てる(テレパシーの実験)とか裏返しにしたカードの模様を当てる(透視の実験)とかです。

 五種類のカードを使用しているのだから、偶然正解を引き当てる確率は25%です。

 その偶然の確率を超える正解率を出すことができたのならば、そこには何らかの必然があるということになります。

 超能力を持たない一般人でも潜在的にそうした能力を秘めているのだとしたら、何回かに一回能力が発揮されるとか、意識していないだけで正解を感知していてたまにそれを意識が拾うとか言ったことがあれば正解率は上がります。

 そうして、自分自身でも微弱すぎて気が付いていない能力の発現を統計的に見つけ出そうということです。

 こう書くと、あとはひたすら実験を繰り返すだけで超能力の存在を証明できそうに思えます。

 しかし、実際にはそううまくはいきませんでした。

 正解率が偶然を上回れなかったから……ではありません。

 むしろ、わずかでも偶然の確立を上回る正解率を、統計的に有意な数値として得たと研究者は主張しています。

 けれども、それだけでは超能力の存在を証明したと言い切ることはできません。

 偶然の確率を超える正解率が、超能力によるものであることを証明することは難しいのです。

 実験の方法が悪ければ、被験者に正解を教えてしまうような何かが混入してしまう恐れがあります。

 出題するカードの選び方に偏りや規則性のような癖があった場合、被験者がその癖を学習して正解しやすい回答パターンを見つけるかもしれません。

 正解を知っている人の表情や態度から、テレパシーでなくても正解を言い当ててしまうかもしれません。

 被験者のあいまいな言葉を正解側に解釈する、なんてことをやっても正解率が上がります。

 目隠しをして行う透視実験の場合、使用する目隠しによっては隙間から見えてしまったり透けてしまったりすることもあります。

 偶然の確率を上回ると言っても非常に微細なので、ちょっとしたことにも影響されてしまいます。

 実験自体は正しかったとしても、データ処理で問題が起こることもあります。

 間違えた回答の部分を中心に「これは実験を失敗した」と言って結果を破棄して行けば正解率が上がってしまいます。

 また、出題と回答のリストを見比べて、一、二個ずらしたら正解率が上がったので「実は予知していた」等と考えることも問題です。

 ずらす個数を任意にいじれるので、色々といじって一番都合の良い部分を拾い上げるデータ操作になってしまうのです。

 超能力の実験・研究を積極的に行おうという人は、超能力の存在を信じている、あるいは超能力があって欲しいと思っている場合が多いので、恣意的なデータ操作を行うと超能力を認めるのに有利な結果になりやすいです。

 超心理学の根本には心霊現象を認める発想があり、心霊現象を認めない立場の人からは非常に怪しいものに見えます。

 本来はオカルトの領域だっただけに、科学としての扱いをおろそかにすると科学の用語を使っただけのオカルト――オカルトである自覚が無い分余計に怪しい疑似科学になってしまいます。

 だから、超心理学――超能力の実験や研究に対してはかなり厳しい目で見ることになります。

 懐疑的な人はもちろんのこと、超心理学を真面目な科学として研究したい人にとってもいいかげんな研究発表は邪魔になります。

 懐疑的な人に認めさせるためには、疑いようのない証拠を持って科学としての議論を行い、反論がなくなるまで論証を続けるしかありません。

 証拠としての能力が疑われるような実験では、議論以前です。

 だから、文句の付けようのない実験を行うために、超心理学の研究者は頑張って実験の工夫を重ねています。

 カードの選択をコンピュータに任せて偏りとか規則性が出ないように乱数を使うとか。

 答えを知っている人を被験者の近くには置かないようにするとか。

 透視の実験でも目隠しではなく、カードの図形を見えない状態で置くようにするとか。

 不正や研究者側の主観が入り込まないように様々な努力をしています。

 今でもその努力は続けられ、より改善した実験が行われているはず……ですが、とっても地味です。

 基礎研究とはそんなものですが、SF作品で描かれるような超能力を期待してはいけません。

 超能力に興味がある人でも、細心の超心理学の成果をチェックしているような人はほとんどいないのではないでしょうか。

 物語のような超能力にあこがれる人は、下手をすると新興宗教に向かいます。

 オウム真理教なんかも超能力開発とかやっていたはずです。

 一方で、超心理学は超能力の実在を証明しようとするところで止まっているように見えます。

 超能力の実在が証明されれば、実用性はなくとも、それなりに話題になるはずです。

 そんなニュースが流れてこないということは、今もって超能力の存在を証明できていないのです。

 偶然の確率を上回る数値を導き出しても、何か別の要因を排除できないか、数値の正しさに疑いがもたれているということです。

 そんなわけで、超心理学の研究者はほんのわずかな数値の差に不正やその他の要因が含まれないことを証明するために日々地道な実験を繰り返しているのです。

 この状況は当分続きます。

 超能力に関しては、信じている人と懐疑的な人が割ときっぱりと別れています。

 信じている側の人が行った「超能力は存在する」と言う研究を懐疑的な人に認めさせるには、決定的な証拠を信頼できる形で提示する必要があります。

 さらに、不正や捏造を行っていないという信用を獲得する必要もあります。

 そのためには時間をかけて地道な研究を積み上げるしかありません。そして、懐疑的な人が追試を行ってその事実を認めるところまでいけば成功です。

 しかし、実験の不正や不適当なデータ処理、あるいは捏造があると、研究そのものが疑わしくなります。

 元から怪しい部分のある研究対象だけに、不正や捏造が横行していると思われたら、研究分野そのものが信用されなくなりかねません。

 その結果、懐疑的な考えを持つ他の科学者からそっぽを向かれると、研究分野そのものが衰退することになります。

 科学は、疑いぬくことで進歩します。疑問を抱かない人だけこじんまりと研究していても、どこかで行き詰ってしまうでしょう。

 このまま目立った成果が出ないまま世間から忘れ去られるか、不正や捏造を行って怪しい学問とみなされるか。

 そうして超心理学と言う分野そのものが衰退していく可能性は十分にあります。


 私の個人的な見解ですが、超心理学の研究は不正がないことを証明することに傾倒しすぎている気がするのです。

 確かにそれは重要なことです。不正や捏造のはびこる研究に科学的な価値はありません。

 超能力の存在を十分に証明できたとしても継続して行わなければならないことです。

 けれども、超心理学の研究の一番面白い部分は、超能力の存在が証明された後にあります。

 つまり、何がどうなってその能力が働いているのか、そのプロセスを解明することが科学の研究としては本題のはずです。

 超心理学の研究者だって超能力の実在を確信できたら、懐疑的な人を説得するだけでなく、能力の解明に進みたいはずです。

 だから、超心理学の実験では、偶然の確率を上回る正解率だけでなく、偶然の確率で収まる結果も積極的に求めるべきだと思うのです。

 偶然の確率の範囲内の結果と言うのは、超能力の影響のない基本的な状態です。

 基本状態と比べることで超能力が働いているときといなときの差が分かり、超能力のメカニズムの手掛かりが得られます。

 何かの遮蔽物によって正解率が落ちるなら、その遮蔽物によって遮蔽される何かが情報を運んでいる可能性があります。

 距離が離れることで正解率が下がるのならば、距離によって減衰する何かが情報を運んでいると考えられます。

 被験者の何らかの状態と正解率の相関が判明すれば、超能力を使用していることの判定ができるかもしれません。

 超能力の影響を確実に遮断する方法が見つかれば、実験方法の検証にも使えます。

 超能力が働かない状態で実験をして、それでも偶然の確率以上の正解率が出れば、それは超能力以外に正解率を上げる要因が存在することになります。

 前提として、超能力の存在が証明されていることが必要ですが、そのための実験結果にある程度自信があるのなら並行して次を進めるべきでしょう。

……既にいろいろやっていて、全部失敗しているだけかもしれませんが。

 何をやっても微細な超能力の影響を防げないとなると、それはそれで疑いたくなります。


 超心理学の問題点としてもう一つ、反証可能性の弱さがあるのではないかと思っています。

 超心理学で想定している現象は、基本的に心霊現象由来のものです。

 人の考えたことを言い当てるテレパシー。

 見えないはずのものを言い当てる透視。

 これから起こることを言い当てる予知。

 これらのESPと呼ばれる能力に加えて、手を触れずの物を動かす念動力(PK)。

 これらは、心霊現象を説明するために考えられた能力です。

 そして、これらの現象は、全て手品を使ってもそれっぽく見せることができます。

 実際、霊媒者がパフォーマンスとして引き起こしてみせる心霊現象は今ではトリックだろうと疑われており、実際に数多くのトリックも行われていたでしょう。

 超能力による現象はトリックである可能性があるものばかりであり、だから超能力の実在を証明するところから始めなければなりません。

 この、実在を証明するという段階では、否定することはほぼ不可能です。

 どこかの自称超能力者のトリックを見破ったところで、それ以外の超能力の存在を否定することはできません。

 そもそもが、今の科学で説明できない現象を探求しようという趣旨の研究なので、理論的に不可能で否定することができません。

 一般人を対象にした実験結果ならば、同じ実験を行えばその実験結果を否定することができるかもしれません。

 しかし、一般人を対象にした超能力実験は、統計的に有意であることを示さなければ誤差扱いされる程に微細です。

 たとえ統計上有意な結果を出したと主張しても、実験の方法やデータの扱いに不備はなかったのかと疑われます。

 そして、その疑惑は追試に対しても同じことが言えます。

 つまり、同じ実験を行って超能力の存在を示す結果が得られなくても、実験の方法やデータ処理に不備があって追試に失敗した可能性が残るのです。

 また、実験方法そのものに問題があって正解率が上がるようになっていた場合、気が付かずに同じ実験を行うと追試に成功してしまいます。

 実験の問題点を指摘することができればその実験結果を否定することはできますが、失敗した実験が証明しようとしていた対象を否定することはできません。

 一つの実験結果に対して再現性がないとして否定することができても、その方法では超能力を証明することができないことが判明しただけです。

 ある種類の能力を否定することができても、別の種類の超能力を持ち出してきたら最初からやり直しです。

 怪しい研究だから否定するために追試を行おうと思っても、労力の割に得られる成果が少ないのです。

 懐疑的な人間が手間暇かけて追試を行うよりも、実験の細かな不備を指摘することに注力するのは当然の反応でしょう。

 反証可能性が出てくるのは、超能力の存在が証明されて、多くの人に認められた後の話になります。

 現実に確かに起こっている現象だと認められれば、次はその現象を説明する理論の構築になります。

 現実に起こっていて客観的に観測可能な現象ならば、その現象を説明する理論を作ることも、その理論を検証することも可能です。

 たとえその理論が否定されたとしても、現象は残ります。

 間違った理論を否定することは、正しい理論に到達するための重要なプロセスであり、否定することにも意義はあります。

 しかし、超心理学はまだその段階には達していません。

 対象にしているのは、科学的に証明されていない未知の現象で、客観的に観測できる状態ではない。

 その超能力が存在していることで科学的にどのようなメリットがあるかと言えば、今ではその多くがトリックだと思われている心霊現象の一部を超能力で説明できる、かもしれないということ。

 しかも、想定しているのは心霊現象等を説明するのに都合の良い能力だけで、原理はおろか、その性質特性等も「現物が見つかってから調べる」状態です。

 これはもう、仮説ではなく空想の産物です。

 さらに、心霊現象を切り離して考えると、「人間にはこんなすごい力が秘められていたらいいな」という願望です。

 超能力の存在を証明し、明白に客観的に観測できるようになるまでは、超心理学が扱うのは実体のない空想や願望でしかないのです。


 現在、超能力に関して明確な定義はありません。

 あるのは、現象に対する分類だけです。

 その分類も、現実に観測された現象を分類したものではなく、空想上の現象を分類したものです。

 空想上の分類に合致する現象を探そうとしているのが、今の超心理学の実験です。

 観測されたことのある超能力や心霊現象は、その多くがトリックの可能性を排除できません。

 しかし、トリックなどを含めた「超能力に見える現象」と「本物の超能力」を厳密に区別する方法はありません。

 超能力の定義がないのだから厳密な判定方法はないのです。

 相手の表情や態度から考えを読み取ることを超能力と呼ぶ人はいないでしょう。

 でも、現象だけ見れば他人の考えを言い当てるテレパシーです。

 一定時間観察した相手の思考をぼんやりと読めるテレパスと区別することは難しいでしょう。

 同様に、一定の会話を行った相手の情報を引き出せる能力とコールドリーディングと区別することも困難でしょう。

 周辺の科学技術の進歩や研究の進展によっては、さらにややこしいことが起こり得ます。

 例えば、「人には磁場を感じる仕組みがあり、ほとんど意識できないほど微弱だが行動に影響を与えることもある」なんてことが判明したとします。

 そして、その「磁場を感じる能力」が超心理学の実験の正解率を高めている要因だと分かったら、研究者はどう反応するでしょう?

 超能力の正体(の一部)が判明したと発表するでしょうか?

 磁場の影響を防ぐ工夫をした新たな実験を始めるでしょうか?

 既知の五感以外の感覚と言う意味ではESPに該当しそうな気もします。

 一方で、超能力は精神的な能力(魂の力)というイメージがあるので、肉体側の機能は違うと考えるかもしれません。

 もしも、「肉体的な機能を使っていてもそこから情報を引き出しているのは精神の処理だから超能力に含めてよい」と考えると、「表情から思考を読む能力も超能力に含めてよいのではないか?」という問題が浮上します。

 精神側の働きを重視するならば、既知の五感を使用する場合も、新しく発見された感覚を使用する場合も、隠された情報を見出す部分は同じです。

 逆に、肉体に付随する機能だから超能力には含めないとすると、超能力の正体を解明するにつれて、超能力とは呼ばなくなる可能性があります。

 科学的に解明するということは物理的な作用を明確にすることであり、最終的には人の物理的実体である肉体との相互作用まで明かされるはずです。

 つまり、解明された超能力は肉体側の機能に落ち着く可能性が高いのです。

 これから超心理学の研究者になりたいという人がいたら、このことは覚えておいて欲しいのです。

 超心理学の研究が進展して、超能力の正体を明らかにしようという段階になれば、必ずこの問題に直面します。

 超能力とは何か?

 ここで改めて超能力を定義することで、超能力は「正体不明の神秘の力」から「科学として客観的に扱える現象」になります。

……研究に進展がなく、超能力の存在を証明する段階で足踏みを続けている間はこの問題は表面化せず、超能力は正体不明の神秘の力であり続けますが。


 超心理学の研究に進展がない場合にも、超能力の明確な定義が存在しないことは別の問題を引き起こします。

 科学的に明確な定義のないものを、科学的に否定する方法はありません。

 いくら超能力のメカニズムが解明できなくても、超能力の証明実験がすべて否定されても、「超能力は存在しない」ことを証明して終わることができません。

 厳密な実験を行って行ったら偶然の確率の範疇になってしまったとしても、別の種類の能力を想定して別の実験を始めることがいくらでもできてしまいます。

 新たな超能力を思いつく限り、いくらでも続けられるでしょう。

 ただ、そうやって無理に続けていっても、新たに思い付いた超能力が存在する根拠はどんどんと薄くなっていくと思うのです。

 超心理学が超能力の存在を否定する結果を出したとしても、それは一つの成果です。科学的には意味があります。

 けれども、否定できないというだけで、惰性でずるずると続けていても科学的に意味のある成果は期待できません。

 最終的に成果らしい成果も出せずに研究する人がいなくなって自然消滅する、と言うのが超心理学の終わり方の一つです。


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