第5章 牽攣乖隔 6
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七月に入ると映画の撮影は終盤に差し掛かった。
映画が楽しみと言ってくれた志野の言葉を支えに、渉は生き生きと撮影に取り組んでいた。
各界の代表たちが岸部渉を口々に称賛したお陰で、ワイドショーやマスコミは、渉と小百合の恋愛報道よりも、近日公開の映画を注目作として報じるようになった。
渉は石田を通して、近いうちに引退したいと所属事務所の社長に申し出たが、撮影が終了するまで待ってほしいと懇願された。
「撮影は七月いっぱいまで続きますので、引退表明は八月の上旬にということで……」
石田は電話で報告した。
「ありがとうございます」
「それでは……」
石田が電話を切ろうとした時、渉はとっさに中川が監督した『Gravitate』を観たか尋ねた。
「――まだ観ていません」
「そうですか……」
「――中川から私との関係を聞きましたか?」
「はい……」
「心配しないでください。私と中川はいつか結ばれる運命です。今はお互いの距離を味わっています」
石田は渉の返事を待たずに電話を切った。
渉は石田の言葉を理解できなかったが、なぜか無性に志野の声が聞きたくなって陶犬茶房へ電話を掛けた。
「あっ、ゴンさん、志野はいないの」
麻矢が応対した。
「――電話があったと……志野に伝えてください」
「ゴンさん、元気ないけど、何かあった?」
「いいえ、別に……」
「そばに祐太がいないから安心して……」
「――志野は、俺を待っていますか?」
渉は不安を抑えながら尋ねた。
「それは……私には分からない……。ただ……志野は待たない人よ」
「えっ?」
「もしも志野が待つ人だったら、祐太は私と結婚していないから」
そうだった……。志野は祐太と好き同士だった。麻矢と関係を持った祐太は、自責の念から志野を追わなかった。
――あの時、志野は祐太を待っていたのだろうか。
「私が知っている志野はいつも相手を尊重するの。――だからゴンさんがこのまま芸能界に残っても、それはそれで陰ながら応援してくれると思うわ」
麻矢の言葉は渉がもう伊賀に戻らないと決めつけているようだった。
電話を切った後、渉の頭の中は志野で埋め尽くされた。
会いたくて……会いたくて……。
思いが届いたのか彼女の夢を見た。
「会いたかった……」
志野は渉の首に両手を絡ませて抱きついた。
「俺も会いたかった……」
渉はベッドの上で彼女にキスをした。
志野はクスッと笑うと、渉を仰向けに寝かせて上にまたがった。
大胆な振る舞いに戸惑いながらも、渉は彼女の勢いに身を任せた。二人の距離は一気に縮まり息遣いが激しくなった。
渉は上半身を起こして志野を抱き寄せた。
「志野……愛している」
彼女の動きがピタリと止まった。
「志野って誰?」
渉はハッとして両目を見開き志野を見た――いや、小百合だった。
どおりでリアルな夢だと思いながら慌ててベッドから離れ、身体を隠して身だしなみを整えた。
「小百合! どうしてここにいるんだ!」
「翔の鍵で入ったの」
小百合は悪びれた様子もなく言った。
「翔はどこだ!」
「私のベッドの中で熟睡してるわ」
「小百合、お前……何を考えているんだ?」
「私はただ……渉に会いたくて……」
「俺たちとっくに別れただろ」
「分かってる……」
小百合は顔を伏せてから「分かっているけど……志野って誰?」と映画のワンシーンのように艶やかな眼差しで渉を見上げた。
落ち着きを取り戻した渉は黙って小百合を見つめた。その眼差しから小百合は気持ちを汲み取った。
「志野って人を真剣に愛しているのね」
「ああ……」
「その人……伊賀の人?」
「俺が伊賀にいたこと、翔から聞いたのか?」
「詳しくは話してくれなかったけど、渉が伊賀にある喫茶店夫婦にお世話になったって……」
「そっか……」
「金継ぎをしているって翔から聞いたけど……」
「まあ……」
「ねえ……映画の撮影の合間に一緒に輪島漆の話を聞いたのを覚えている?」
渉はやっと石川県の気候の話を小百合と一緒に漆職人から聞いたことを思い出した。
「志野って人は……金継ぎをしている人?」
小百合の問いに渉は閉口した。
二人は仲睦まじい恋人同士だった時期があり、互いの性格を熟知していた。
「バカみたい……」
これ以上問い詰めても無駄だと分かって小百合はベッドから離れた。
「悪い……志野のことは黙っていてほしい……。翔にも……マスコミにも……」
「ええ……」
小百合は身だしなみを整えながら言った。
「ありがとう……」
「止めて! 全部私が悪いのに……渉がパリに行った時に……私が翔と寝たから……」
「それは……」
「私……ずっと後悔しているの。でも後悔って……過去でもあるのよね。私のことも……志野って人と同じぐらい愛してくれた?」
「ああ……」
渉は小百合を真剣な眼差しで見つめた――それも過去のことだった。
小百合の涙が頬を伝ったが、渉はその涙を見てはいけないと目を背けた。
「もう行くわ……。安心して、翔は私の睡眠薬を飲んだから朝まで目を覚まさないわ」
「お願いだ……。翔の気持ちを弄ばないでくれないか……」
小百合は渉に背中を見せたまま立ち尽くしていた。
「今夜は渉が好きな満月なのよ。――これから満月を見上げるのが嫌になりそう……。さようなら……」
小百合は部屋を出て行った。
渉は玄関のドアが閉まる音を確認してから、深いため息をついた。
「満月か……」
カーテンを開けると夜空には満月が顔を覗かせていた。久しぶりに見上げた横山大観の『満月』は美しく輝いていた。
小百合と満月の下で愛し合ったことを思い出し、志野とも愛し合ったことを思い出した。どちらも過去の思い出だが、後者はこれからも続く出来事であってほしいと心から願った。




