第5章 牽攣乖隔 3
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志野から電話がかかってきたのは、それから一週間後のことだった。
渉はこれまでスマートフォンを気にせずに生活していたため、彼女からの着信がないのに、振動しているように感じる「幻想振動症候群」になりかけていた。
「ゴンさん?」
志野のか細い声が聞こえた瞬間、渉は森林浴をしているかのような安らぎを全身で感じた。
プロポーズの返事を聞きたかったが、周囲から崇と雅人の騒がしい声が聞こえたため、祐太が近くにいると思って気持ちを一旦抑えた。
「東京はどう?」
「相変わらずかな……」
「そう……」
「来月から映画の撮影が始まるんだ」
「どんな映画?」
「ノアの箱舟のSF版」
「聖書のお話……ステキ。――映画になったら観に行くね」
「志野は今まで俺の映画を観たことないのに?」
「そうね……。じゃあ今度、ゴンさんの今までの映画を借りて観てみる」
「観なくていい」
渉は慌てて答えた。小百合とのベッドシーンを志野に観られるくらいなら、今までの作品を観なくていいと思った。
「六月にお父さんが東京の百貨店で個展をするの。――私の作品も置いてくれるって」
「絶対に観に行く! 志野はその時、東京に来られる?」
渉は顔を輝かせながら尋ねた。
「うん。――まだ日にちは決まっていないけど、一日だけ在廊予定よ」
志野が答えた途端、祐太が受話器を奪った。
「駄目だ! マスコミに見つかったらどうなる!」
祐太は渉にギャアギャア文句を言い始めた。
渉はしばらくスマートフォンを耳から離し、雑音が通り過ぎるのを待ったが、耳に戻すと電話は切れていた。
すぐに折り返して電話をかけたが、祐太が出て、「志野はいない!」と電話を切られた。
「マジか……」
渉は肩を落として電話を切った。次に祐太に会った時、ぶん殴ってやろうと思ったが、志野が映画を楽しみにしていると言ってくれたので、『Noah's Ark』の撮影を頑張ろうと思った。
五月下旬のワイドショーは渉と小百合の話題で持ち切りになっていた。
「翔、騙すようなことしやがって!」
渉は翔に怒鳴った。
ホテルのレストランで渉が翔とランチをしていた時、小百合が突然現れた。
渉は軽く彼女に挨拶を交わしたが、翔が席を外したのがいけなかった。
「身体は大丈夫なの?」
小百合は翔の席に腰掛けて、渉に話しかけた。
二人の姿を誰かが写真に収めてSNSに流したことで、復縁したと騒ぎ立てられた。
連日、マスコミは渉と小百合を追い回し、ありもしない二人の進展を面白おかしく報じた。
渉の事務所は復縁を否定する声明を発表したが、小百合は違った。マスコミに囲まれながら、「渉を愛しています」と発言したことで、騒ぎは大きくなった。
失踪前の渉ならマスコミに何を書かれようが一ミリも気にしなかった。小百合と同棲していた時もいろんな憶測記事を書かれたが、志野にプロポーズした後のこの仕打ちはどうしてもやるせない気持ちになった。
数日後、祐太から電話がかかってきて、「二度と志野に連絡をするな!」と一方的に言われてしまった。
今回の騒動は翔に仕掛けられた気がしてならなかった。
翔を問い詰めると、「小百合にお願いされた」とあっさりと白状された。
「酷い兄貴だな」
「俺、小百合を愛しているんだ……。愛する人にお願いされたら断れないだろ……」
渉が名古屋から失踪した時、小百合の所にいるのではないかと翔は彼女に連絡を入れた。渉の行方不明がニュースになると、小百合の周りにも少なからずマスコミが押し寄せ、翔に助けを求めた。二人とも渉は死亡したのではないかと感じていたが、「死」という言葉は決して口にしなかった。不安を紛らわせるように、二人は次第に身体を求め合うようになった。
――このまま渉が見つからなければ……俺は小百合と……。
翔は渉のマンションに住み着き、無断でクレジットカードを使っていることを恥じながらも、小百合への思いは強くなっていた。
「翔……ごめんなさい……。私はまだ渉を愛しているの……」
渉の生存が確認されると、小百合は翔と関係を持つことを拒んだ。
翔は彼女と離れたくなかったので、「俺が二人の関係を取り持つよ」と言った。
「俺が小百合と縒りを戻しても、翔は平気なのか?」
渉は驚きながら尋ねた。
「小百合がそれで幸せなら……」
翔は顔を伏せて答えた。
中川と石田のように、たとえ遠く離れていても心が互いに惹かれ合っている愛もあれば、翔のように、愛する人のために自分を犠牲にする愛もある。
――俺と志野の愛はどうなんだ?
渉がこのまま俳優を続けて伊賀に戻らなくても、志野は何も言わないだろう。それも愛なのか……。何より、彼女から「愛している」という言葉を聞けていない……。
渉はいたたまれない気持ちに包まれながら、「俺は今、演技に集中したいんだ……」と翔に言った。
「そうだな……」
「小百合のことは……撮影が終わるまで待ってほしい」
「ああ……」
翔のお陰で小百合はマスコミを煽ることはなくなったが、週刊誌やワイドショーは依然として憶測を垂れ流し続けていた。
このままでは志野が個展で東京に来た時、渉は彼女に会えなくなってしまう。
「翔、一生のお願いだ」
翔は小百合の件で後ろめたさを感じていたため、渉の願いを聞き入れてくれた。
麻矢から志野が東京に来る日程を聞き出した渉は、その日、翔には渉に変装してもらい、小百合のマンションへ向かう計画を立てた。
「やっぱり兄弟だな。俺も男前の渉になれるな」
翔は愉快に渉に言った。
「俺よりも、翔のほうが男前だ」
「兄貴を慰めてくれるのか?」
「違う。――翔のほうが演技も何もかも俺より勝っている」
渉の本音だった。
「嘘でも嬉しいよ……」
翔は苦笑しながら言った。
渉に変装した翔が小百合のマンションへ向かったことで、マスコミの目はそちらに集まった。渉は人目を避けるため、芸能人としてのオーラを消して百貨店で開催されている泰斗の個展へ向かったが、在廊しているはずの志野の姿は見当たらなかった。
不安になった渉は、会場を出るとすぐに陶犬茶房へ電話をかけた。
「ちょっと……いろいろあって……」
電話に出た麻矢は、言葉を詰まらせながら渉に言った。
「ワイドショーのことですか?」
「志野はワイドショーとか興味ないから……。でも……もしゴンさんが小百合さんと縒りを戻すなら、志野はそれを受け入れると思う」
やっぱり小百合の件で、志野は東京に来なかったのだと渉は思った。
電話中、誰かが背中をポンと叩いた。懐かしい温もりだった。振り向くと、泰斗が笑顔で通り過ぎて行った。
「お父さん!」
渉が声を掛けると、泰斗は軽く手を振っていなくなった。
「おい、ゴン! 二度と連絡をしてくるな!」
スマートフォンからノイズが、いや、祐太の声が聞こえたので、渉は電話を切った。
志野が来なかった理由を泰斗から直接聞けばいいと、渉は個展会場へ戻ったが、百貨店の店員から泰斗は今日はもう戻らないと言われた。
正直なところ、志野が小百合にヤキモチを焼くとは思えなかったが、今回の個展に彼女の作品が展示されていないのが気になった。
伊賀にいた時、泰斗から、迷いがある時は作品を展示しないと聞いたので、志野に何か迷いができたのかもしれない。
「やっぱり俺のせいかな……」
渉は百貨店に飾られた小百合がモデルの化粧品広告の前を通り過ぎながら、ため息交じりに呟いた。




