第5章 牽攣乖隔 2
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数日後、渉は勇気を振り絞って陶犬茶房に電話をかけた。麻矢が応対して、志野は今いないから後でかけさせると言われた。
「ゴンさん、元気にしてる?」
渉は懐かしい名前の響きを身体中で感じた。
「はい、元気です。麻矢さんはお元気ですか?」
「いつもと同じよ。伊賀は東京と違って、時計の針の進み方がゆっくりなの。ゴンさん、身体を大事にしてね」
他人行儀な言い方に、渉は切ない気持ちになった。伊賀を離れてちょうど一か月。夏には戻れると伝えたかったが、先に志野に伝えたかった。
「あっ、ゴンさんに報告することがあるのよ」
「はい、何ですか?」
「私、三人目を妊娠したの」
「おめでとうございます!」
渉は心から麻矢に祝福の言葉を述べた。祐太は志野を好きだと言いながらも、やるべきことはやっているのだと感じた。
「――ゴンさんと志野がドラム缶風呂に入っているのを、祐太と見ちゃった」
麻矢はクスッと笑って言った。
渉は冷汗三斗の思いになった。泰斗が個展で陶房を空けた時、志野は作陶に夢中でなかなか一緒に風呂に入れなくて落胆していたが、最終日にドラム缶風呂を用意してくれて二人で激しく愛し合った。
映画の撮影で監督やスタッフ大勢の前でベッドシーンを演じても恥ずかしいとは感じなかったが、麻矢と祐太は別だった。いや、祐太には見てほしかったかもしれない。
「あれから祐太は毎晩私を求めてくれてね。――ゴンさんのお陰よ、ありがとう」
渉は恥ずかしげもなく性生活の話をする麻矢に驚いた。
「祐太はやっと、志野を忘れられたみたい」
「そうですか?」
渉は疑心暗鬼に聞いた。
「まあ、私が死んだら祐太はすぐに志野にプロポーズするかもしれないけど……ゴンさんが戻ってくれたらそれはないかな」
「早く伊賀に戻りたいです」
「早く戻ってね」
麻矢が言った途端、祐太が横から「ゴン、戻って来るな!」と叫び、一方的に電話を切った。
渉はしばらくスマートフォンを手に呆然としていた。
リビングルームのドアが開き、翔が入ってきたので、慌ててスマートフォンを隠した。
「渉、今朝の新聞を買ってきたぞ」
翔は新聞を手渡した。
渉が確認すると、トップ記事に大きく「岸部渉 俳優復帰!」とあり、『岸部渉は演じるのが生き甲斐』と書かれていた。
「俺、『生き甲斐』だなんて一言も言ってない……」
渉はため息を漏らした。
「おい、渉。来週映画の読み合わせがあるから台本に目を通しておけよ」
映画は渉が失踪する前から決まっていた。
タイトルは『Noah's Ark』(希空の箱舟)。旧約聖書の大洪水にまつわるノアの箱舟物語を現代版にアレンジしたSF仕立ての作品だ。
希空扮する渉は、シンガポールにある地球温暖化防止対策研究所で働いている。ある日、気象情報から半年後に世界中で洪水を引き起こすゲリラ豪雨が発生することが予測され、世界各国は人類を守るため、巨大宇宙船『NOAH』の建造を決定する。
宇宙船の完成が近づくにつれて、搭乗拒否を謀る抗議デモが世界各国で行われ、完成後にNOAHに入ったのは希空の家族と数組の友人家族、鳥と地をはう全ての生き物の中から、きよい動物ときよくない動物の雄と雌二匹ずつだった。
数日後、世界中でゲリラ豪雨が発生し、地球上の全ての生き物は滅びてしまう。希空の宇宙船は巨大なブラックホールに吸い込まれ、異次元空間へと辿り着いてしまう。吸い込まれた衝撃のせいで、宇宙船内の動物たちは人間の姿に変わり、価値観の違いから閉じ込められた空間で争いが巻き起こる……。
人間の姿となったきよくない動物たちは、暴力を使って宇宙船内の者達を服従させようとするが、希空はそれを阻止しようと立ち上がり、闘いに挑む。
渉がまだ志野と結ばれず、二人の話題が聖書しかなかった時、彼女が縁側でサフラと虹を眺めていた。
「きれいな虹ですね」
渉は志野の横に腰を下ろして言った。
「ゴンさん、『ノアの箱舟』を知っている?」
「はい」
「虹は神様が創造した約束のしるしなのよ」
志野は虹を見上げながら言った。
創世記9章9節~17節に、神はノアに大洪水を二度と起こさない契約のしるしとして雲の中に虹を立てた。
旧約聖書はヘブライ語が用いられているが、『虹』はヘブライ語で『弓(Qesheth)』を意味する。
「虹って弓の形に見えるでしょう」
「本当だ……」
「英語のRainbowも雨(Rain)と弓(Bow)だから、言葉って不思議ね」
渉はBowは『お辞儀』という意味じゃなかったかと思いなら、お辞儀する姿も虹にも弓にも形が似ていると愉快になった。
「ゴンさんはもし大洪水が来ると分かったら、ノアの話に耳を傾けて箱舟に乗る?」
「乗ります」
渉は映画でノア役だったので即答した。
「私もよ」
志野は微笑みながら言った。
――志野に会いたい……せめて声だけでも聞きたい……。
麻矢が志野に伝言を伝えてくれるか不安でため息をついた。
「渉、ため息なんかついて、久しぶりの演技が怖いのか?」
翔が尋ねた。
「まあ、いろいろ……」
「それと……小百合が心配していたぞ」
翔の言葉に閉口した。




