第4章 脱同一視 12
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「お父さんのサインを木箱に書いてもらうの」
居間で、志野は木箱に破損がないか確かめながら、金魚のフンのように付きまとう渉に説明した。
木箱は日本の気候に適した調湿機能が優れている桐で作られている。蓋は天板、物を入れる部分は身と呼ばれ、身には側板と底板がある。桐の柾目(まっすぐ縦に平行にとおった木目)は木箱の正面にあたり、作家のサインはその柾目に沿って書かれる。大きさによっては側板に書かれることもある。
美術工芸品などを収める木箱のほとんどは裏四方に桟が付いた物が多く、底形状は紐穴十字と呼ばれ、正方形の木箱の底両面に真田紐を通すための穴加工された物が使われる。
木箱を結ぶ真田紐は縦糸と横糸を使って機織り機で平たく織った幅の狭い紐である。通常の四倍以上の糸を圧縮して織られているので丈夫で伸びにくく、茶道具の木箱の紐や家庭の常備品、武具に使われていた。
麻矢は段ボールから真田紐を取り出しながら説明した。
「天正伊賀の乱以前の伊賀では、忍者の農作業の暇な時期に真田紐作りが行われていたみたいよ」
「そうなんですか」
忍者好きの渉は笑みを浮かべながら話に食い付いた。
「忍者の忍び道具としても使われていたらしいが、裏付ける証拠はないけどな」
祐太はさらりと付け加えた。
渉は麻矢が志野を追い出して祐太と忍者の自由研究をしていたことを思い出し、無意識に志野へ視線を向けたが、彼女は真剣な眼差しで木箱の状態を確かめていた。
「真田紐には一重織りと二重織りがあるのよ」
志野は渉に真田紐を見せた。
二重織りは袋織りと呼ばれ、二重構造に織られて中が空洞になっていて、茶器や水指のような高級な御道具に使われている。
渉はテーブルの上に並べられた木箱を眺めた。
「木箱の蓋の上に筆を使って墨でお父さんのサインと、中に入れる作品名を書いて落款を押すの。乾いたのを確認してから、美濃和紙で蓋を覆って真田紐を結ぶのよ」
説明にキョトンとしている渉に、志野は居間の片隅に置かれていた泰斗のサイン入りの完成済みの木箱を持って来て渡した。
「こんな感じになるの」
渉が中を確認すると布が入っていた。
「志野、これは何?」
「作品を包む『ウコン布』よ。――素材は綿で防虫加工がされていて中の作品を守るの。――ウコン布に焼成された場所、つまり、窯の名前を記して落款印を押すのよ。――包む時はばってんの真ん中に作品を置いて、落款印が上になるように包むの」
「穴窯の名前は?」
「お父さんの窯の名前は『泰然窯』よ」
渉はお世話になっている泰斗の穴窯の名前を今さら尋ねたことに、忸怩たる思いを抱いた。
陶芸作家にとって自らの山に窯を開くこと――開窯は、作家としての経歴の始まりを意味する。桃山時代に焼かれたとされる作品の窯跡調査が今なお続けられているのも、焼成された場所や窯そのものが作品の一部として重要だからなのだろう。
渉は窯の名前が「泰然窯」と知って、泰斗らしいと思った。
「箱を閉じる時は、作家の経歴が書かれたしおりも一緒に入れるの。これはゴンさんに手本を見せる物だから美濃和紙はなしよ」
志野は古い木箱の中に入っていた真田紐を取り出し、渉に結び方を披露した。
木箱の紐の結び方は、柾目の正面に対して「四方左掛け結び」(裏千家結び)で、一本の紐を左上に輪を作るようにして木箱の底の穴に十字に通す。次に、正面下に出ている紐を上から輪を作ってかけ、右上の角に置く。そして、右に出ている紐を同じように上から輪を作って通し、左下の角に置く。最後に少し力を入れて引っ張り、蝶結びにする。
「こんな感じよ」
志野は蝶結びした木箱を渉に渡した。
「すごいな……」
「昔の人は武将の茶道具に毒が仕込まれたり、中の作品がすり替えられたりするのを防ぐために、真田紐の結び目を複雑にした独特の結び方――封印結びを用いたの。――今では、ほとんどが裏千家の結びと呼ばれる結び方になっているわ」
湯呑などの場合は、本体の内側に溝を設けた落とし蓋をはめたり、開閉幅を調節できるスライド式の蓋を用いたりするため真田紐を付けないこともある。木箱の形状は作者や顧客の好みによって決まる。
木箱は作品を守るための容器であると同時に、作家がサインや作品名を墨書きすることで、正真正銘の本物であることを示す役割も担っている。
個展で展示される陶器の多くには木箱は付属しておらず、購入者の希望に応じて受注生産されるのが一般的である。
志野と麻矢は、個展で売れた作品を収める十点の木箱をテーブルの上に並べたが、渉は購入者が少ないことに驚いた。百貨店の店舗を借りる資金などを引いたら、ほとんど売り上げがないのではないかと心配になった。
渉の不安を感じ取ったように、志野が口を開いた。
「個展を開くのは、お父さんの作品を知ってもらうための宣伝でもあるの」
「そうなんだ……」
渉は安堵した。
「今回の個展はお父さんの作品よりも、お客さんはゴンさんの金継ぎに興味があったみたい」
「あの金継ぎの作品を買いたいってお客さんが多かったみたいだな。――ゴン、お前、金継ぎ職人になったらどうだ」
渉は金継ぎ職人も悪くないと感じた。と同時に、このところ祐太が意地悪を言わなくなったのが気になった。
――もしかしたら祐太は、俺と志野との関係を認めてくれたのかもしれない……。
渉は有頂天になったが、祐太と二人きりになった時、立ち入り禁止の場所にある桜木に行ったことがあるかと聞かれ、正直に「ある」と答えたら「俺はお前を認めてないからな」と素っ気なく言われてしまった。
「あの場所に行けるのは、私とお父さんとゴンさんの三人だけよ」
後で布団の中で志野に言われ、やっぱり有頂天になった。
ある朝、志野が朝食のゆで卵を見ながら「花見も楽しみだけど、イースターも楽しみね」と渉に言った。
「イースターって、クリスマスみたいな恒例行事だろ」
「イースターは、十字架にかけられて亡くなったイエス様が三日目に復活したことを記念するのよ。――春分の日以降、最初の満月の日の次に来る日曜日にお祝いをするから毎年日付が違うの」
「満月……」
渉は満月が関わっているとは知らなかったので驚いた。
「皆でゆで卵に絵を描いて、イースター・エッグを作ろうね」
志野は渉に微笑んだ。
去年の八月中旬、渉はこの山麓に辿り着いた。志野や泰斗に心を開けないまま過ごした夏だったが、清澄な景観だけは肌で感じることができた。
山の色がカラフルになる錦秋の頃には、足元に舞い落ちる真紅の紅葉を眺めながら森林浴を味わった。
そして――志野と結ばれた。
初雪が積もった朝には、白銀の雪の上をサフラが足跡をつけながら走り回っていた。
雨戸から雪の上を駆け回るサフラを眺めていた志野に、渉は「今日は一日中布団の中にいたい」とおねだりすると「二人きりだからいいわね」と答えてくれて、昼下がりまで肌寒い身体を互いに温め合った。
渉にとって伊賀の冬は心も身体も安らぎをもたらす季節となっていた。
――伊賀の四季は素晴らしいに違いない。まだ知らない春を感じてからここを出て行こう……。
そう決意したが、春が訪れる前に別れは突然やってきた。




