第4章 脱同一視 11
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「伊賀は霧が多いのよ」
夢の中で志野の声が聞こえた。
伊賀市は内陸性盆地で寒暖差が大きく、冬の冷え込みは厳しく朝霧がよく発生する。
伊賀の霧はLAの霧と違って、車の排気ガスで汚れていないだろうと渉は夢の中で思った。
「ワン!」
早朝、渉はサフラの鳴き声で目を覚ました。
寝ぼけ眼でカーテンを開けると、景色は濃霧で覆われていた。薄っすらとサフラの姿が見えた。
志野への気持ちが本気だと自覚してから、サフラは渉に親しみを感じるようになっていた。
サフラは二階にいる渉を見上げると、濃霧の中へ溶けるように姿を消した。
そのまま霧を眺めていると、白猫の姿が露わになった。
――あの白猫は幻で俺はまだ夢から覚めていない……。
白猫は渉を見上げると、招き猫のように小さく手招きをした。
渉はフッと笑い、白猫に引き寄せられるように部屋を出た。
朝霧に包まれて、渉の目には白猫しか映らなかった。白猫は背後の渉を気にかけながら、前へ前へと歩いて行く。
愛らしい姿に、渉は麻矢から聞いた奇妙な話を思い出した。金継ぎに使う細筆には白猫の背毛が最適で、飼い猫の毛がベストだという。
「志野は絶対に白猫の筆は使わないのよ」
麻矢の言葉を思い出し、白猫の背毛を見つめた。
渉の心を読んだかのように白猫は立ち止まり、ムッとした表情を見せた。
「ごめん、ごめん……」
霧が晴れると同時に、白猫の幻は消えた。
立っていたのは桜木とクロガネモチの間にある、見覚えのある手作りの洞穴の前だった。
洞穴の中で見た不思議な夢を思い出しながら腰をかがめて中を覗き込むと、志野が寝転んでいた。今、一番会いたい人だから夢の中に現れたに違いない。
「あっ、ゴンさん」
志野は驚いて渉を見上げた。
「志野……」
まだ夢の中にいるような感覚だった。
志野は肘をつき、上半身を起こした。
「ゴンさん、どうしてここにいるの?」
「俺……まだ夢の中かな?」
「えっ? 夢?」
志野は微笑んだ。
一週間ぶりの志野の微笑みに引き寄せられ、渉は身体を潜めて洞穴の中へ入った。大人二人には窮屈な広さだったが二人はすぐに抱き合った。待ち焦がれた彼女の温もりに触れ、ようやく夢から覚めたことに気づいた。
「志野……会いたかった……」
「私も……」
渉は嬉しくてキスを迫ったが顔を背けられた。
「煤で汚れているから」
「汚れていないよ……」
渉は煤で汚れた頬を舌で這わせた。
「もー、ゴンさんったら……」
二人は熱いキスを始めた。渉が夢中で舌を絡めると、志野はためらいながらも応えるように深く返してきた。
洞穴の中は窮屈で身動きが取りにくいので、渉は志野の後ろに回ってニッカポッカをずり落とすと下着越しに身を重ねた。
「ああ……」
志野の艶めかしい声と息遣いが渉の耳元に響いた。
洞穴を囲む桜とクロガネモチは根元は別々だが、幹や枝が途中で絡み合い、木々は連なり、木目がひと続きに通じていた。まるで比翼連理のように、洞穴の中で渉と志野は身体を絡めて愛し合った。
激しく燃え上がる二人の炎は樹木を溶かし、洞穴を包み込んだ。重なり合う身体にまとわりつく樹液が互いの境界を曖昧にしていった。
渉はこのまま志野とともに消えてしまいたいと願った……。
「白猫が?」
洞穴から出た二人は、仲睦まじく手を繋いで陶房へと向かっていた。
渉は白猫に導かれて洞穴に辿り付いたと話したが「あの白猫は幻なんだろ」と聞くと、志野はクスッと笑って「さあね」と答えた。
志野の亡くなった母親は愛猫・しのと共に、桜木の根元に樹木葬として納骨された。
「あの桜の木はお母さんなの……。辛い時や寂しい時、洞穴に入ってお母さんに話を聞いてもらうのよ」
渉が初めて洞穴に入った時、志野の母親――着物の女性の温もりを感じたのは、そこが納骨された場所だからだと理解したが、同時に悪寒も覚えた。
納骨された場所で志野と身体を重ねたことに戸惑いながらも、母親に二人の関係を許されたような気がして喜びを感じていた。
「今日はどんなことをお母さんに報告していたの?」
「――内緒」
志野は手をぎゅっと握った。
母親が白猫のしのを使って洞穴に呼んだのだと勝手に思い込み、渉はフッと笑った。
「どうしたの、ゴンさん?」
「なんでもない――」
渉は「愛している」と続けそうになった。志野にその言葉を伝えるためにも、一日も早くこの聖域を出なければならない――頭では理解していながら、繋いでいる手を離せばこのまま引き離されてしまうのではないかという不安に駆られた。
「お父さんが、ゴンさんが作ったぐい呑みで、三人で花見がしたいって……」
「三人で?」
「あっ、お母さんとしのとサフラもね」
――桜が散るまでここにいたい……。
繋いだ手を離さないまま志野を抱き締め、耳元で囁いた。
「うん、三人で花見をしよう……」
立入禁止の門を出ると祐太に出くわした。
渉は慌てて手を離そうとしたが、志野はぎゅっと握ったままだった。
「あっ、ゴン――ここにいたのか」
祐太はいつもの尊大な調子ではなかった。
「はい……」
無断で茶房を出た手前、渉は気まずそうに目を逸らした。
「祐太、一週間ゴンさんの面倒を見てくれてありがとう」
「あっ、ありがとうございました」
慌てて頭を下げた。
「ああ……じゃあ後で……」
祐太は立ち去った。
渉は祐太を前にしても志野が手を離さなかったことがたまらなく嬉しかった。
「志野……」
「ん?」
「何でもない……」
「うん」
志野は満面の笑顔を見せた。
校舎で祐太に見せた笑顔よりも劣っていたが、渉は彼女の笑顔にときめいた。




