第1章 呼牛呼馬 3
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「できません」
渉の一言で最終審査の会場がざわついた。
最終選考に残ったのは翔と渉を含む五人だった。
翔が舞台上で完璧なダンスを披露して客席から拍手喝采を浴びた後、最後の競合者の渉は地味な服装のまま舞台中央に上がり、言い放った。
「渉、大丈夫かしら……」
十列目に座っていた美和が心配そうに呟いた。
翔が隣に戻ると、美和は小声で「翔、カッコよかったわよ」と伝えた。
「ありがとう、お母さん……」
翔は舞台上の渉ではなく、前方の席に目を向けた。
五列目には五十代のイタリア系アメリカ人であるマリオ・オッテリーニ監督を中心に、三十代後半の日系アメリカ人プロデューサーのカレン・中川と数人のスタッフが並んで座っていた。
会場がざわつく中、オッテリーニは日本語がわかる中川に何か囁き、中川はマイクを通して舞台上の渉に問いかけた。
「どうしてできないの?」
「緊張しているからです」
渉は真っすぐ彼女を見つめて答えたが、言葉とは裏腹に渉から緊張の色は誰の目にも見えなかった。
翔は中川からオッテリーニへ書類が手渡されるのを見届けた。
――俺の表現力が一番だったはずだ。きっと俺が優勝する。
翔にとってこの待ち時間は耐え難い苦痛だった。
オッテリーニが書類にじっくり目を通している間、渉は直立不動で天井を見上げていた。天井がいつの間にか伊賀上野城にある大色紙で飾られた天井に見え、思わず笑みがこぼれた。
オッテリーニと中川は渉の笑みを見逃さなかった。
「岸部渉さん。あなたは今、一番何がしたいですか?」
中川は渉に向かって聞いた。
「早く親友と遊びたいです」
中川はオッテリーニに英語で渉の言葉を伝えた。オッテリーニは笑いながら彼女に英語で何かを返した。
「親友とどんな遊びをしているのですか?」
「忍者ごっこです」
会場がざわつき、嘲笑する声も聞こえた。
中川はオッテリーニと短く話した後、渉に言った。
「では、ここで忍者になってみてください」
「ここで……ですか?」
「何なんだよ……」
翔は苛立ちを隠せず呟いた。
「忍者になったら帰ってもいいですか?」
「ええ、帰っても構いませんよ」
「……分かりました」
渉は不貞腐れて答えた。
翔は今から何が始まるのか不安に駆られた。
「では音楽を流します。岸部渉さん、忍者を表現してください」
中川が告げると、渉は彼女を見て頷いた。
「やめろ……」
「えっ?」
美和は翔の形相が変わっているのに気づき、「翔、大丈夫?」と小声で尋ねた――その瞬間、会場に音楽が流れ始めた。翔のお陰で渉の身体に染みついていた、あの音楽だった。
渉はとっさに片膝をつき、後ろポケットから古びたハンカチを取り出した。扇子を開くような音を立てて広げ、華麗に素早く布の端を伸ばして三角に畳み、鼻と口を覆うように後ろで結んだ。シャツのボタンを素早く外し、背筋をぴんと伸ばして立ち上がると――豪快にシャツを脱いでひるがえすように広げ、頭から被って平頭巾にして結んだ。
一連の動作はほんの一瞬だった。
会場からはどよめきと歓声が起こった。
平頭巾忍者になった渉は、音楽に合わせて「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」と九字護身法の刀印を手で結びながら大きな声で唱え、そのままバク転を決め、アクロバティックな忍者の真似事を始めた。いつも剛と遊んでいる忍者ごっこに過ぎなかったが、早くこの場を離れたい一心で必死に忍者になりきった。その動きはまるでパルクールのように身体能力を最大限に引き出し、華麗で美しかった。
翔には、オッテリーニ監督と中川が満面の笑みを浮かべながら舞台を見つめているのが見えた。顔を引きつらせながら二人の視線の先を追うと、そこには――本物の忍者がいた。
「お父さんのお古のハンカチをあんな風に使っていたのね……」
舞台に見入っていた美和は呟いた。
「負けた……」
翔はため息交じりに呟いた。
音楽が止んだ。
「ブラヴォー!」
オッテリーニは席から立ち上がり、舞台上の渉に向かって拍手を送った。次々と他の観客も立ち上がり、喝采を送った。
翔だけは座ったままうなだれていた。
渉は顔に巻いていたシャツとハンカチを外し、中川に問いかけた。
「もう帰ってもいいですか?」
「ええ、いいですよ!」
中川はマイクを使わず、大声で答えた。
渉はシャツとハンカチを手に舞台を降りて客席へ向かい、翔と美和のいる列に辿り着いた。
「お母さん、僕、先に帰っていい? 剛と遊ぶ約束してるんだ」
先ほどまでとは打って変わり、無邪気に尋ねた。
「えっ、あー、そうね……」
美和は席を立ち、「お母さんも渉と一緒に帰るわ」と言いながら、渉からシャツを受け取り着せてあげた。
「うん、分かった」
「翔はどうする?」
翔は一秒でも早くこの場を離れたい気分だったが渉と一緒にいるのが嫌だったので、うつむいたまま答えた。
「もう少しここに残る……」
「分かったわ。じゃあ、お先に失礼するわね」
美和は渉を連れて会場を後にした。
オッテリーニと中川は二人が会場を出るのを微笑ましく見送っていた。その様子を見て、翔は深いため息をついた。




