第4章 脱同一視 8
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麻矢がコーヒーのおかわりを取りに行っている間に、渉は祐太の聖書を手に取った。
志野が自分の小遣いで聖書を買ったのなら、祐太も同じようにしたのだろう。小学生の平均的な小遣いは――渉の頃は月千円ほどだった。分厚い聖書を買うには足りない。きっと祐太は志野のために貯金を切り崩したに違いない。
「祐太も気の毒だな……」
思わず呟いたが、「いやいや、祐太に同情するなんて」と慌てて口に出した言葉を取り消した。
何気なく聖書を開いた。いつもは志野に言われた箇所を読むことが多かった。志野はよく「辛い時は、聖書を何気なく開いて、そのページの御言葉を黙読するの」と言っていた。
彼女の真似をして開くこともあったが、不思議といつも真ん中あたりの『詩編』か『伝道者の書』に行き当たることが多かった。
最後の書を開いたことはなかったが、めくってみると『ヨハネの黙示録』だった。
LAにいた頃、この書を題材にした映画を見たことがあるのを思い出した。
「ああ、最後はヨハネの黙示録か……」
なぜか納得して呟いた。
聖書のお陰で志野と距離を縮めることができたが、信じているわけでも、彼女のように御言葉を積極的に学んでいるわけでもなかった。
聖書の『ヨハネの黙示録』と『あとがき』の間に、一枚の白紙が挟まれていた。ページの下部、背表紙に近い位置に、小さな文字が浮かび上がった。
「なんだ?」
渉は目を凝らした。子供の字でこう書かれていた。
『志野がずっとすき 祐太』
ゾッとしてページを破りそうになったが、手にしているのは聖書だ。この状況は、江戸幕府が禁じていたキリスト教信者をあぶり出す踏み絵のようだった。
ページを破ることによって志野への愛が試されると考えながら、中学生の時に大地から聞いた「筒井定次が切腹した」という話を思い出した。
麻矢がコーヒーを持って入って来たので、慌てて聖書を閉じた。
「この部屋に志野の写真が一枚もないでしょう」
麻矢はコーヒーを味わっている渉に言った。
渉は部屋に入ってすぐに志野のアルバムを探したので、何処かに監視カメラがあるのかと焦った。
「祐太が志野の写真を見ていたから、全部隠したのよ」
麻矢は悪びれもせず、意味ありげに笑った。
「――麻矢さんは祐太さんと、ずっと付き合っていたんですか?」
「高校二年生の時から……」
「そうなんですか……」
「幼稚園の時、近所の小学生にいじめられたことがあって、助けてくれたのが祐太だった。――それからずっと好き。でも祐太は……幼稚園の時からずっと志野が好き」
渉は麻矢のためにも白ページに書かれた言葉を抹消しなければならないと思った。
「志野はみんなの人気者で……小学生の時、私も志野みたいになりたいと思って、右の頬に赤いマジックで痣を真似して描いたの。――そうしたら担任の先生と両親にこっ酷く怒られて、『志野ちゃんが可哀想でしょう!』って。――志野の何が可哀想なのか大人になるまで分からなかった……。だって志野は顔の痣なんて何とも思っていないのよ。美人で……いつも堂々としていて、皆に優しくて……親友だけど、大嫌いだった……」
渉は麻矢の言葉に唖然とした。
「祐太が漢字の勉強をしているけど、その中に『万緑一紅』って四字熟語があるの。――平凡な物の中に一つだけ優れた物があることの例えだけど、漢字からは辺り一面緑色の草むらの中に、一輪だけ美しい赤い花が咲いているって意味。――志野みたいな四字熟語で、学生時代にその問題がテストに出た時、思わず鉛筆で真っ黒に塗りつぶしてやったわ」
「今は……志野のことは好きですか?」
渉は躊躇いながら麻矢に尋ねた。
「ゴンさん、好きと嫌いは紙一重よ。――でも志野がいたから祐太を好きになったのかも」
「えっ?」
「何事にもライバルは必要でしょう。――今、私しかいないから、浴室を使ってね」
麻矢は空のカップを持って、微笑んで出て行った。
渉は頭の中を整理した。
志野と祐太は好き同士だったのに麻矢のせいで二人は付き合えなかった。でも、麻矢が高校二年生になった時、祐太と付き合えた。
「祐太は何が原因で麻矢さんと付き合った?」
渉は聖書の白ページを開いた。
祐太が鉛筆で書いた志野への愛の言葉を人差し指でなぞった。
それから消しゴムがないか部屋の中を探した。――勉強机の引き出しの奥から、消しゴム付鉛筆を見つけた。
「あった!」
浜辺に打ち上げられた漂着物からお宝を見つけたような満足感だった。小学生の時、消しゴム付きの鉛筆の消しゴムが何のためにあるのかと舐めきっていたが、今日、この日のためにあったに違いない。
渉は祐太が書いた字を思い出と共に一文字一文字、丁寧に消していった。この聖域でいじめっ子にあたる人物が書いた文字を全部消し終えた瞬間、爽快感が胸に広がった。と同時に、志野はこの文字に気づかなかったのか気になった。
不吉な文字の消し滓を手のひらに集め、強く握りしめると、渉は部屋を出た。
裸になった渉は浴室でお湯を出しながら、湯船の排水口に消し滓を流し、手の平に残った消し滓を完全に洗い流すため、石鹸を泡立てて力を入れてゴシゴシと手の平を洗い始めた。
「祐太は私の初恋の人で……ファーストキスの相手……」
志野の言葉に頭に血がのぼるのを感じながら、ボディスポンジで手のひらを強くこすり続けたが、なぜか彼女に口で愛撫されたことを思い出して、恥ずかしさを覚えながらも下半身が反応した。
蛇口から流れるお湯をシャワーヘッドに切り替えて、あかぎれた手を下半身にやり、志野との交わりを思い浮かべながらひとりで慰め始めた。
今この建物で麻矢と二人きりで世話になっている身分でありながら、理性では抑えきれない衝動が全身を駆け巡った。
声を漏らさぬよう息を殺しながらその感覚に身を委ねた――手の平にべっとり付いた体液を見つめながら、先に流された消し滓が後から勢いよく追い掛けて来たそれによって消え去ったことを想像し、祐太が執拗に持っている志野への思いを自身が拭い去った気持ちになった。
きれいに手を洗って残りをシャワーで流し切ると、自然に笑みがこぼれた。




