第4章 脱同一視 7
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三日目の朝、ドアをノックする音で目が覚めた。
「ゴンさん、失礼するわね」
麻矢がドアを開けて中に入ってきたので、渉は慌てて上半身を起こした。
「あら、食欲なかったのね」
手つかずの夕食を見て言った。
「すみません、今まで寝ていました……」
「新しいのを作り直すわ」
麻矢がトレイを持って出て行こうとしたので、渉は制止した。
「俺、これが食べたいです」
「じゃあ、温め直すから、ちょっと待ってて」
部屋を出て行った。
「俺、失礼なことしたな……」
渉はボサボサになった髪を触りながら呟いた。
麻矢は夕食を温めることなく、代わりに出来立ての朝食とコーヒーを運んでくれた。
こんなに素晴らしい奥さんがいるのに、十日前に祐太が志野にキスを迫ったのが不思議でならなかった。
「ゴンさんも聖書に興味を持ったのね」
麻矢はベッドの傍らにある聖書を見て言った。
「まあ……」
「志野が聖書に夢中になった理由を聞いた?」
「いいえ……」
「夏休みの自由研究がきっかけなの」
「そうだったんですか」
「――小学六年の夏休みの時に、祐太が志野と二人で、伊賀の忍者をテーマにした自由研究にするって言ったの。――私もその自由研究の仲間に入れてって祐太にお願いしたけど断られたから、志野にお願いをして無理矢理仲間に入れてもらったの。――でも、祐太は私のことを空気みたいにあしらって……悔しくて、志野に仲間から外れてってお願いをしたの。もちろん志野は外れてくれたわ」
麻矢は悪びれもなく言った。
志野はその時どんな思いで仲間から外れたのだろうか。
今は祐太のことは何とも思っていないだろうが、小学生の時に味わう恋愛感情は、純粋という言葉が覆い被さる。好きな相手から仲間外れみたいなことをされて心底傷ついたに違いない。
渉は志野に同情した。
「それで志野は、筒井定次を自由研究にするって言い出したの」
「筒井定次って……」
渉は何処かで名前を聞いたことがあったが、思い出せずにいた。
「伊賀上野城を築城した人よ」
「ああ、筒井伊賀の人」
納得しなから肯いた。
「それからよ。志野が聖書に興味を持ったのは……」
筒井定次は永禄五年(1562年)五月五日、筒井順国の次男として生まれた。従兄の筒井順慶に子供がいなかったために、元亀三年(1572年)に順慶の養子として迎えられた。
天正六年(1578年)、織田信長の十四番目の娘、秀子(「秀子」ではなく、「松姫」という説もある)を妻として迎え、信長の死後、豊臣秀吉の家臣となって大坂城へ人質として赴いた。
秀吉は天正十三年(1585年)領国の大規模な国替えで、定次を大和国から伊賀国上野に転封させ、これに伴い、定次は伊賀上野城を築城した。
信長の次男、織田信雄による『天正伊賀の乱』で、伊賀国は荒漠とした大地となっていたが、定次の整備によって大いに発展した。
定次はキリスト教に入信して、文禄元年(1592年)に長崎で洗礼を受けた。当時、秀吉が発令した『バテレン追放令』の最中、キリスト教を迫害する傾向があったにも関わらず、定次は伊賀にキリスト教を広く布教させる意思があることが、ポルトガルのカトリック宣教師、ルイス・フロイスの記録に残されている。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、定次は徳川家康を中心とする東軍に加わって会津征伐に参戦したが、兄弟の筒井玄蕃に任せた伊賀上野城を、石田三成を中心とする西軍の新庄直頼、直定父子に攻撃されて、玄蕃は戦わずに城を明け渡して高野山に逃亡した。一連の出来事が家康の耳に入り、定次は家康の了解を得て、集まった大軍を連れて伊賀国へ戻って、新庄父子から城を奪還した。
慶長八年(1603年)家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を開くと、定次は伊賀一国を支配する国持大名となって伊賀守に叙任された。
慶長十三年(1608年)六月、定次は家臣、中坊秀祐により不行状を家康に訴えられ、幕命により改易となった。(筒井騒動)改易の理由は定次が酒色に溺れて政務を顧みなかったことや、豊臣氏に対する備えとして伊賀は重要な拠点であり、家康は定次よりも藤堂高虎を配したかったことなどもある。
一説にはキリシタンであることが露顕したためとも言われている。
改易された定次は、嫡男の筒井順定と共に磐城平藩主、鳥居忠政に預けられ、慶長二十年(1615年)三月五日、『大坂冬の陣』にて秀吉に内通したという理由によって二人は自害を命じられた。
夏休みの自由研究のために、志野は一通りの定次の本を読了したが、自害の理由に疑念を抱いた。
豊臣家大坂城から寄せ手に射られた矢軸の中に『羽柴伊賀守定次』の墨書きがあったことが内通理由とされたが、これは定次が改易した際に、四散した物が大坂城に紛れ込んだものと考えられている。
酒色に溺れた証拠もなく、明確な改易の理由がない。
志野は、定次が家康と秀祐に嵌められたのではないかと研究を進めていった。
定次は、幽閉の中でいずれ自害を求められる運命にあったことを理解しつつ、息子と共にキリストの教えを支えに日々を過ごしたに違いないと思い描いた。
その思いに触れた志野は、生まれて初めて聖書を購入した。
「祐太も志野の真似をして聖書を買って、一緒に筒井定次を研究するって言ったけど、志野が『一人でする』って突っぱねてくれたの」
祐太は本当に志野が好きだった、いや今も好きなんだと、渉は腹が立った。
「志野がゴンさんにあげた聖書は、祐太のよ」
「えっ?」
「私が祐太に、聖書を捨ててってお願いをしたの。志野は聖書を捨てるなんて罰が当たるって、それで祐太の聖書を引き取ったのよ」
平然と語る麻矢の口調に渉は怖くなった。




