第4章 脱同一視 3
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渉も何か作りたいと志野にお願いをし、初心者にも試みやすいぐい呑みの作り方を教えてもらった。一口上手に成形した渉は「志野とお父さんの分も作りたい」と言って、続けて作り始めた。
「おっ、ゴンも陶芸を始めたか」
祐太が陶房に入って来て、尊大な口ぶりで言った。
「あっ、祐太。二日続けて何しに来たの」
志野は意地悪っぽく言った。
「用があるから来たんや。お父さんから電話があって、居間に飾ってある器や皿を、十個ぐらい梱包して金曜日に志野と一緒に大阪に持って来てほしいって言われたんや」
「土日は百貨店が賑わうからね。――分かった。用意しておくね」
「ゴンも一緒に行くか?」
祐太は渉がこの聖域から出られないことを知りながら尋ねた。
渉は無視し、作業を続けた。
「祐太、次にゴンさんに意地悪を言ったら、ここを出禁にするからね」
「冗談やって」
祐太は笑った。
「ゴンさん、大丈夫?」
夕食時、志野が聞いた。
「何が?」
渉はサフラの態度と祐太の言葉に傷ついていたが、心配させたくなくてとぼけて答えた。これでも役者である。
「ゴンさんが作っているぐい呑みだけど……もう一口作ってほしい」
「いいけど、どうして?」
「お母さんの分……」
志野の母親は出産にともない命を落とした。
「お母さんは私を命懸けで産んでくれたのよ。だから、この痣を気に入っているの」
顔の痣に触れながら、渉に言った。
志野の顔にある消しゴムサイズの赤い痣は、ポートワイン母斑と呼ばれ、真皮の毛細血管異常で出来る良性腫瘍である。
生まれた時からあるその痣を、泰斗は当初気にしていた。だが、片親として子育てに追われる日々の中で、形成外科を受診しようと思い立った頃には、志野はすでに幼稚園に上がっていた。
「嫌だ。このままでいい」
志野に泣きつかれ、泰斗はしばらく様子を見ることにした。
志野の明るい性格もあって、祐太や麻矢を含む周囲の友達は、誰も痣について触れなかった。
だが、婚約者から距離を置きたいと告げられ、落胆して伊賀へ戻ってきた娘を見た時、幼い頃に無理にでも治療を受けさせるべきだったと悔やんだ。
婚約者と別れて東京から戻ってきた志野は、泰斗に感謝した。
「母斑って『母』って漢字が入っているから好き。――お父さん、痣を残してくれてありがとう」
泰斗は目を潤ませたが、娘の前では涙を見せまいと自分の部屋に戻り、妻の写真に向かって「娘は本当にいい子に育った……」と涙ながらに報告した。
その後、皆で渉を保護した。意識朦朧とした中で痣を「きれいだ……」と呟いた彼に、志野は不思議な気持ちになった。
泰斗は当初、作陶の妨げになると考え、渉を陶犬茶房の二階へ移すつもりだったが、志野から「彼、私の痣を『きれいだ』って言ってくれたの。――変な人よね」と聞き、陶房に置くことを決めた。
世の中には顔の痣に強いコンプレックスを抱く人もいれば、志野のようにそれを自分の個性として受け入れる人もいる。渉は芸能コースに通っていた時、ほくろ一つでも写真映りが悪くなると除去していた学友を思い出した。
渉は志野の痣に優しく触れ、キスをした。二人を引き合わせてくれた痣に感謝しながら、彼女を優しく抱きしめた。
「この痣はお母さんの一部なの。――だから消せない」
志野が母の愛に飢えながら今まで生きてきたのだと、渉は感じた。
――俺なんて、母親と縁を切ろうとしていたのに……。
ここを出たら美和に連絡を取ろうと思ったが、出られるのだろうか。志野との関係が深まる度に、渉はいろんな現実を突きつけられた。
「今夜、一緒にお風呂に入る?」
志野は渉を見上げて尋ねた。
「ううん、一人で入る……」
「じゃあ、私は夕食が終わったら、もう少し土を触ってくるね」
「うん、分かった……」
渉は不安げな眼差しを隠して答えた。
深夜、志野が寝室の襖を開けた時、渉は豆電球の下で眠っていた。
「お母さん、ゴンさんは大丈夫よ……」
志野は襖を閉めた。
渉は久しぶりに鮮明な夢を見た。
名古屋のホテルから抜け出して、忍者列車に乗り損ねたあの夜、自分にしか見えない満月を無意識のままに追って歩き続けた。誰かに背中を支えてもらいたくて、背中から断崖絶壁に転落したが、白猫も一緒に落ちて来た。
湖へ落ちた瞬間、水面に映る世界は水彩画のように滲んだ。空色の絵の具に白が溶け合い、優しく広がる湖水の中で、渉と白猫は呼吸をしているかのように漂っていた。
渉は白猫を抱きかかえたままゆっくりと湖水に流され、幻想的な世界を探検し始めた。
「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは潤された園のようになり、水の枯れない源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を立て直し、あなたは古代の礎を築き直し『破れを繕う者、市街を住めるように回復する者』と呼ばれよう」
志野から教えてもらったイザヤ書の聖書の御言葉が、水彩画の中に書き記された。
渉は御言葉を口の中へと吸い込んだ。身体の中で言葉が溶け合い、優しい音を立てて弾けた。弾けた水滴はシャボン玉となり、渉と白猫を包み込んでふわふわと宙へ浮かび上がった。
渉と白猫が泡の中から湖水を眺めていると、ユリカモメが飛んで来た。優雅に飛ぶユリカモメを眺めていた白猫は、野生の本能を剥き出しにし、爪を伸ばして襲いかかった。
「あっ!」
白猫の爪が引っかかり、泡がパチンと弾けた。
白猫はうまくユリカモメの上に乗ったが、渉は川の上にふわふわと落ちていった。
絵の具の筆先で描かれたような穏やかな川があった。渉は川の上に足を下ろし、筆先を追うように流れを辿った。水に満たされるような心地よさに身を委ねた瞬間――突然雨が降り出した。絵の具の雨色は黒い線となり、川の色は真っ黒に滲み、画用紙全体へと広がった。
渉は黒色に足を取られ、川の中に引きずり込まれた。一気に不安に駆られたが、暗闇の中から志野の声が聞こえた。
「安心して……もう大丈夫だから……」
渉はハッとして目を覚ました。
「夢か……」
上半身を起こし、辺りを見渡した。
志野はすでに布団を片付け、姿はなかった。壁の時計を見ると、午後を過ぎていた。
渉はパジャマのまま陶房を覗くと、志野は真剣な眼差しで陶土を成形していた。彼女を眺めていたいと思ったが、すぐに気づかれてしまった。
「あっ、ゴンさんだったのね」
志野は微笑みながら言ったが、寝ぼけていた渉には「ゴン、おまいだったのか」と聞こえてドキッとした。
崇から『ごんぎつね』の絵本を読んでとねだられたことがあった。兵十がごんぎつねのゴンに、「ゴン、おまいだったのか」と別れの言葉を口にした時、なんて悲しい結末なんだとやり切れない気持ちになった。崇や雅人にからかわれて言われ続けるのは平気だが、志野からは言われたくない。
いつか好きな人に本当の名前を呼んでもらうためにも、早く「ゴン」から「渉」にならなければいけないと感じた。




