第3章 暗黒沈静 11
11
志野はいなくなってから一か月後に戻って来た。
渉が庭で泰斗の手伝いをしていた時、祐太の車の助手席から志野が降りて来た。
憔悴した彼女の顔を見て、渉は恋人と別れたのだと気づいた。
「おかえりなさい」
「ただいま……ゴンさん……」
志野は必死に笑顔を作った。
「もういいのか?」
夕食時、泰斗が志野に聞いた。
「うん……」
「マンションの荷物はどうするんだ?」
「ほとんど処分したから大丈夫……」
渉は二人の会話を黙って聞いていた。
「もうすぐ十一月だ。居間で寝るのは寒いだろう。これからわしの部屋を使え」
「大丈夫よ」
「俺の部屋を……俺が寝ている部屋を使ってください」
渉は自分を恥じながら言った。この家に居候して以来、ずっと彼女を居間で寝かせていることが気掛かりだった。祐太からも「ゴンが居間で寝ろ!」と何度も言われていた。
「ゴンさんの部屋は使えないわ。大事なお客さんだもの」
「しばらく土に触れるのは止めとけ」
志野に言ってから泰斗は陶房へ行った。
「ゴンさん、お父さんの仕事を手伝ってくれてありがとう」
「俺が居間で寝ます」
「大丈夫よ。――実を言うと私の部屋は池崎家の二階にあるのよ。――寒くなったらそこへ行くから安心して」
それは祐太が喜ぶから絶対に阻止しなければならないと渉は思った。
「俺が居間で寝ます」
「――ありがとう。でも、大丈夫だから……」
志野はほとんど口をつけていない夕食を片付けながら言った。
戻ってからの志野は、家事をしながら物思いにふけることが多くなっていた。
渉は彼女を気遣って率先して食器洗いをしたが「いいのよ、ゴンさん……」と毎回阻まれた。
渉以上に気遣っていたのは祐太で、何度も会いに来ては麻矢を苛立たせた。
「志野の部屋を掃除したからいつでもこっちへ来いよ」
祐太は夕食の席で志野に言った。
「私はここで大丈夫よ」
「志野ねーちゃんと一緒に寝たい!」
崇と雅人が志野に抱きついた。
「えー、嬉しいなー」
「俺が居間で寝ます」
「ゴンは客人だから今の部屋のままでいいよ」
一連の流れに麻矢は祐太に不快感を示していたが、志野が戻ったことは心から歓迎していた。
久しぶりに賑やかな夕食の席だったお陰か、志野の笑顔が少しずつ戻ったように感じ、祐太も少なからず役に立っているのだと渉は思った。(崇と雅人のお陰かも知れないが)
祐太たちが帰ってから、渉は夕食の後片付けを手伝った。
「ゴンさん、疲れたでしょう。先にお風呂に入って……」
「大丈夫です。後は俺がしますから、志野さんは先にお風呂に入ってください」
「――お父さんから聞いたけど、私がいない間、ゴンさんが家事をほとんど手伝ってくれたって……。本当にありがとう……」
渉はお礼を言うのは自分の方だと思い「俺、東京に住んでいました」となぜか過去を打ち明けた。
「やっぱりね。――ゴンさんの話し方が東京の人だと思った」
二人の会話は続かなかった。
渉が食器洗い洗剤を取ろうとした時、志野と手が触れた。
「あっ……」
手を引っ込めたのは志野の方だった。戻ってからの彼女は以前のように馴れ馴れしくスキンシップを取ることがなくなっていた。
「……俺が洗います」
手を引っ込めなかった渉は食器を洗い始めた。
「――じゃあ先にお風呂に入るね」
志野は立ち去った。
「俺、嫌われたかな……」
食器を洗い終えてた渉は踏ん切りをつけて、自分の部屋にある布団と居間の隅に置かれた布団を入れ替えた。
風呂上がりの志野は、居間の隅に広げた布団の上に座っている渉を見て驚いた。
「志野さんはあちらで」
渉はゆっくりと立ち上がり「じゃあ、お風呂に入ります」と付け加えた。
「ありがとう……」
志野は背中に向かって言った。
渉は自然に笑みがこぼれたが、気づかれないよう肩をすくめて風呂場へ向かった。
志野は元気を取り戻していたが、まだ土には触れていなかった。
ある夜、サフラを傍らに渉が陶芸の本を読んでいると、衝立の向こうから志野が顔を見せた。
「ゴンさん、そこに聖書がない?」
「聖書ですか?」
渉は上半身を起こして壁際の本棚を確認した。国語辞典かと思った分厚い本の背表紙に『聖書』とあったので彼女に渡した。
「ありがとう」
「志野さんはクリスチャンなんですか?」
「クリスチャンとまではいかないけど、大学にいた時に聖書研究会に所属していたの。それじゃあ、おやすみなさい」
「彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない……」
立ち去る彼女の背中に向かって、ついミシェルが言った聖書の御言葉を口にした。
「ゴンさんはクリスチャンなの?」
志野は驚いて渉を見た。
「いや、知っていた御言葉をつい……」
「エレミヤ書ね。私はイザヤ書の『潤された園』の方が好き」
志野は微笑みながら言った。
渉は久しぶりに見た彼女の偽りのない笑みに、つい引き込まれて言った。
「そのイザヤ書の御言葉を教えてください」
「いいわよ」
志野は微笑んだ。
聖書のお陰で渉と志野の距離は縮まっていった。
渉の出世作『駒鳥』はキリスト教の宣教師家族が島に住み着くところから話が始まるため、映画の随所に聖書の御言葉が盛り込まれていた。美和にせがまれて翔のために無理やり映画に出演した渉は、脚本の内容に全く興味を示さず、自分の台詞だけを覚えていたことを後悔していた。
何とか頭をひねり、思い出した御言葉を志野に伝えた。
「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」
「いい御言葉……。『伝道者の書』ね」
志野は聖書を開いて渉に見せた。
「見せてください」
渉は聖書(彼女)に近づいた。
一冊の聖書を通して二人の距離が少し縮まったが、志野はそれとなく渉から離れ、「ここよ」と開いた箇所を示した。
「はい……」
渉は彼女が無意識に自分を避けているように感じた。
「私の部屋にもう一冊聖書があるから、今度、茶房に行ったら取って来るわね」
渉は一冊の聖書を二人で見たいと思っていたが、志野はすぐに取りに行った。
渡された聖書を見つめながら、渉は彼女が距離を取ろうとしているのが気になった。
それでも――祐太は二人の距離が縮まっていると勘違いしていた。ヤキモチを焼きながらも「ここから出て行け」と決して口にしなかったので、きっと麻矢から「口にしてはいけない言葉」として躾られているのだろうと渉は思った。




