第3章 暗黒沈静 10
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「志野がいなくなって二週間になるわね」
茶房のカウンター越しに麻矢が呟いた。
渉は離れた席でコーヒーとケーキを味わっていたが、ふとスナックセットの絵柄の美しさに気づき、手に取って何度も眺めた。
その様子を見て麻矢が尋ねた。
「もしかして、金継ぎをしてから陶磁器が気になるようになった?」
「はい……」
「そのスナックセットは、ゴンさんが初めて茶房に来た時に出した物と同じよ」
渉は全く覚えていなかった。
「――オールドノリタケっていうの」
「きれいですね」
カップを眺めながら言った。
「金継ぎをすると物の価値観が変わるから、お陰で私は食器を捨てられなくなったの」
「陶芸もやると、価値観が変わるぞ」
泰斗が言った。
渉は泰斗に微笑むと席を立ち、店内に飾られた陶芸品を鑑賞し始めた。その中の真っ白な抹茶碗に目が釘付けになった。
「この茶碗、白猫みたいでかわいいですね」
渉が何気なく言うと、泰斗は笑って、祐太はムッとした。
「ゴンさん、それは『志野焼』よ」
麻矢が言った。
「志野……焼き……」
渉は志野と同じ名前の焼き物に驚いた。
「『志野焼』は岐阜県の『美濃焼』の一種で、白釉を使った焼物だ。志野の名前は『志野焼』から取ったんや」
泰斗が説明した。
「不思議ねー。ゴンさん、志野焼を白猫だなんて……。志野と同じことを言うから驚いたわ」
渉は祐太の睨みを背中に感じながら、麻矢に尋ねた。
「手に取ってもいいですか?」
「どうぞ」
渉は志野焼の抹茶碗を両手で優しく包み込むようにそっと持った。と同時に、微かな猫の鳴き声が聞こえて、空気の雰囲気が変わった。
画面は伊賀上野城に切り替わった。
「渉! 上の階に行こうぜ!」
中学生の剛が現れ、現代の渉の腕を引っ張った。剛に連れられ三階へ向かい、天井画を見上げると、渉は中学生の身体に戻っていた。天井を仰ぎ見過ぎてそのまま後に倒れそうになった時、背後から誰かが優しく抱き締めてくれた。振り向いて見上げると、泰斗の部屋に飾られていた白猫を抱いた着物の女性が立っていた。
画面が茶房に戻った。
「着物の女性……」
渉は呟いた。
麻矢と祐太は目を見開き、驚いた。
泰斗が微笑みながら席を立った。
「ゴンさん、明日から本格的に土を触ってみるか」
渉に近づいて肩をポンと叩いた。
「はい!」
元気よく答えた。
翌日から、渉は泰斗から『荒練り』と『菊練り』を教わった。これは粘土の硬さを均一にして、中の空気を取り除く作業である。
土練機を使えば効率は上がると多くの陶芸家が言うが、体力と時間はかかるものの、直接粘土に触れることで、土の気持ちが身体中に染み付くと泰斗は渉に教えた。
「土は生きているからな……」
泰斗の言葉は、粘土を練るたびに渉の胸に突き刺さった。
志野がいなくなって三週間目の夜、麻矢が夕食を持って現れた。
「男二人だと偏食になりがちでしょう」
泰斗はまだ仕事が残っていると言い、渉は麻矢と二人きりで夕食を取った。
「ゴンさん、志野がいなくて寂しい?」
渉は麻矢に聞かれ、首を傾げながら食事を続けた。
志野がここに戻らないのは恋人と元の鞘に収まったからで、渉はその方が嬉しいと思っていた。
「……祐太は志野がいなくて寂しいみたい」
「祐太さんは志野さんが好きなんですか?」
「やっぱりゴンさんにもそれが分かった?」
「何となくですが……」
誰が見ても分かりやすいほどにと思った。
「祐太はずっと志野が好きなの。でも……私が志野から祐太を奪ったの」
麻矢は志野と祐太は両思いだったかのように話したが、それを尋ねるのは久しぶりのご馳走の妨げになると思い、渉は黙って食事を続けた。
「茶房でゴンさんが手にした志野焼の抹茶碗だけど、志野のお母さんが作ったのよ。――あの抹茶碗、時々白猫になるって志野が子供の頃から言っているの。――ゴンさん、ここに来てから白猫を見た?」
渉の目が一瞬泳いだが、「見てないです」と答えた。
「志野はお母さんの白猫が見える人は信頼できるって言っていたから、てっきりゴンさんにも見えたのかと思った」
ここに来てから不思議な夢や幻を目にすることがあった。今までの生活とは真逆の環境で、心を無にしているからだと感じていた。麻矢から白猫の話を聞き、渉はふと、花火の日に志野に白猫を見かけたと話したことを思い出した。
――あの白猫は幻だったのか?
渉の食事の手が止まった。と同時に、泰斗が現れた。
「おっ、うまそうだな」
「先生、お疲れ様ー」
麻矢は立ち上がり、泰斗の食事の準備に取りかかった。
お陰で渉は彼女に違和感を覚えさせずに済んだ。
志野の話を聞かされて、渉はまた彼女を想うようになってしまった。
同じ大学で知り合った恋人は一体どんな男なのだろうか。志野が好きになる男なら、きっと知的な奴に違いない……。
渉はサフラに散歩をされながら、満月の夜空を見上げた。
今こうして彼女を想っている間も、恋人と身体を重ねているのだろうか。不謹慎な考えをする自分を軽蔑しつつ、もう彼女に会えないのかと思うと少しだけ胸が締め付けられた。
満月の明かりに暈された白猫が、トコトコとサフラに向かって歩いてきた。
「あっ、白猫……」
サフラが白猫に向かって「ワン」と鳴いた。
一瞬、生ぬるい強風が吹いて渉は両目を閉じた。
次に白猫を見ると、姿は消えていた――。




