第3章 暗黒沈静 9
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翌朝、志野の姿が見当たらず、今まで幻を見ていたのかと戸惑った。
「ゴンさん、次の金継ぎは志野の代わりに私が教えるから……」
麻矢の言葉に、志野が幻ではなかったと分かって安堵した。
志野の優しさに耐えられなくなった渉は、金継ぎを完成させたらこの場所を出て行こうと考えていたが、当の本人がいない。祐太、麻矢、泰斗の会話の中で、三人は彼女が戻らないことを望んでいるように感じて複雑な気持ちになった。
「志野もゴンさんに金継ぎを教えるなら、消粉で教えたほうが早かったのに……」
麻矢は引き継ぎメモを確認しながらぼやいた。
渉は志野と一緒に、毛棒を使って丸粉と呼ばれる金粉を長皿に蒔いた。金粉にも種類があり、消粉を使えば金を蒔く工程で完成となる。
「次は何をしたらいいですか?」
渉は金粉を蒔いた長皿を見せながら聞いた。
「えーっと、粉固めの拭き上げ処理ね。――蒔いた金粉を漆で固めるの」
麻矢はメモを確認しながら言った。
渉はテーブルにガラス板を用意していた。
麻矢は渉の目の前に腰を下ろしてゴム手袋を着けると、メモと一緒に置かれていたチューブ入りの上ズリを手に取ってガラス板に少しだけ垂らした。
「上ズリは漆ですか?」
「そうよ。上ズリは艶を出す時に必要なの」
同じ目分量のテレビン油を上ズリの横に出してヘラで希釈した。
「上ズリが漆なら、濾紙はしなくていいんですか?」
「志野は毎回濾紙をするけど、濾紙はしてもしなくてもいいのよ」
「そうですか……」
濾紙を巻いてほしかったので残念そうに呟いた。
「次は……これを金粉を蒔いた部分に筆で薄くなぞって」
「はい」
筆を使って希釈した上ズリを金粉を蒔いた部分に薄くなぞるように塗った。
麻矢はティッシュペーパーで渉が塗った上ズリを軽く押さえながら吸い取った。
「漆が付かなくなるまでティッシュで吸い取るのよ」
「はい……」
渉は自分の手で仕上げたかったが諦めた。
「一日ムロで乾かして、最後に磨く工程よ」
麻矢は長皿を置くと、慌ただしく出て行った。
取り残された渉は、長皿を見つめてため息をついた。
翌日も麻矢は忙しそうだった。
「最後はメノウ棒を使って磨くのよ」
麻矢は手本を見せた。金粉が蒔かれた部分をメノウ棒で優しくくるくる回すと、まるで霧が晴れたように金の輝きが現れた。
「きれいですね」
渉は驚きの声を漏らした。
「あっ、ゴンさんにもしてもらわないとね。昨日の作業ほとんど私がやったから、後で祐太に注意されたのよ」
麻矢はメノウ棒を渡した。
渉は教えられた通りにメノウ棒をくるくると回したが、力が入り過ぎて金が剥げた部分も見られた。
「初めてだから仕方がないわね。――でも他はきれいに金が現れたから、これで金継ぎは終了よ。ゴンさん、お疲れさま」
また慌ただしく出て行った。
渉は剥げた金の部分が気に入らなかったが、麻矢はヤンチャな子供二人を持つ母親で、文句言いの夫を持つ忙しい妻でもある。志野の代わりに金継ぎを教えてくれたことに感謝しつつも、腑に落ちないところがいくつかあり、ため息を漏らした。
志野がいなくなってから十日が経過した。
渉は金継ぎが完成したら何も言わずに出て行くつもりだったが、志野に先を越され、そのまま泰斗の家にお世話になっていた。
ある夜、泰斗は少量のお酒を口にしながら、志野の話を始めた。
「母斑があるから、相手の男は婚約を解消するって言い出してな……」
志野は地元の高校を卒業後、陶芸を学ぶために東京の美術大学に進学した。そこで同級生の恋人ができ、二人は同棲を始めた。五年以上の交際を経て、ちょうど一年前、恋人からのプロポーズを受け入れた。
互いの両親への挨拶も済ませ、年内に結婚する予定だったが、相手の親族に美容外科医がいて、母斑を治療したいと言い出した。志野は丁寧に断ったが、医師は拒否されたことを不快に思い、婚約者の両親に母斑について否定的なことを言い始めた。最初は誰も医師の話を気に留めていなかったが、「母斑は子供に遺伝する」と告げられたことで次第に不安を抱くようになった。
「それから志野を見る目が変わってな……。結婚式の日取りを先延ばしにされて、婚約も解消されて……」
泰斗はため息交じりに呟いた。
婚約者から距離を置きたいと言われて志野は伊賀に戻った。一週間後、渉は彼女に保護されることになった。
彼女がここで過ごす時間を渉が奪ってしまったのではないかと思うと、やりきれない気持ちになった。
「先月、相手からやり直したいと言われて……志野が返事を渋っていたら、突然茶房に現れてな……」
志野がいなくなった理由がようやく分かり、渉は安堵した。と同時に、婚約者がどんな男なのか気になった。茶房に現れた婚約者を祐太は終始睨みつけていたに違いない。
「まあ今となっては、志野が戻らないことを願う……」
泰斗は立ち上がり、壁際に飾ってある金継ぎの長皿を眺めた。
「ええ景色や……」
「志野さんの教え方が上手だったからです」
泰斗はフッと笑い、「漆が完全に乾くのは三か月後やから……使えるのはお正月の時か……。この長皿におせちに飾れたらええな」と呟き、おぼつかない足取りで陶房へ向かった。
渉は金継ぎの長皿の前に膝をつき、人差し指で金の傷口をなぞった。志野がこれまでかけてくれた慰めの言葉は、もしかしたら彼女自身に向けたものだったのかもしれない。
「俺って最低だな……」
ここに来て、自分だけが傷ついていると思い込んでいたことを深く悔やんだ。




