第3章 暗黒沈静 8
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渉は志野に指導されながら、素焼き部分の底に漆がつかないようマスキングテープを貼った。続いて、筆を使って割れた断面に麦漆を塗った。
「木のヘラを使う人もいるけど、初心者は筆のほうが麦漆をつけ過ぎないから、後の工程が楽になるのよ」
志野がもう金継ぎを教えてくれないのではないかと不安になったが、すぐに気持ちを切り替えて「分かった。金継ぎしましょう」と言ってくれた。逆の立場なら渉はきっと断っていただろう。志野は嫌なことでも率先して引き受けてくれる。これまで彼女に対して無礼な振る舞いをしてきたことを思い出し、深く反省した。
麦漆がついた断面がズレないよう慎重に継ぎ合わせ、はみ出た麦漆を竹串で絡め取った。汚れた部分は綿棒にアルコールを染み込ませて拭き取り、破片が外れないようにマスキングテープで間隔を空けて固定した。作業が終わるとそれを段ボールで作ったムロの中にそっと置いた。
「今の時期は温度も高くて、ムロの中は蒸しタオルを入れると湿度が七十五%以上になって漆が乾きやすいから、寝かせるのは五日でいいかもね」
漆の乾燥は湿度と温度が重要だという。
渉は撮影で石川県を訪れた際、輪島漆の話を聞いたことを思い出した。石川県は日照率が低く雨の多い気候で、年間を通して湿度が七十%を下回ることはほとんどないという。お陰で輪島漆という伝統工芸が生まれたと、誰かが言っていた。
――誰が言っていたんだろう?
考えている間に、志野はテーブルの上をきれいに片付けていた。
「次の金継ぎは五日後よ。――ゴンさん、きちんと手を洗ってね」
志野は渉の肩に優しく手を置いた。その温もりは泰斗と同じだった。やっぱり親子だなーと渉は思った。
雨のお陰で漆が乾きやすいと知ってから、渉は雨音に苛立つことがなくなった。
五日後、志野は段ボールのムロから長皿を取り出して確認した。
「しっかりとくっついているわね」
志野は満面の笑顔で言った。
渉はゴム手袋を着けてから、言われた通りにアートナイフではみ出た麦漆を削り取った。
泰斗が二人の様子を見に来た。
「お父さん、ゴンさんは素養があるみたい」
褒められて緊張したが、今日の志野はいつも以上に機嫌がよく、どこか輝いて見えた。
昨夜、夕食後に「雨が上がったから」とサフラを連れて陶犬茶房へ向かったが、何か嬉しいことがあったに違いない。
外は大雨だったが家の中は明るかった。渉は団地に住んでいた頃を懐かしみながら、志野の指導の下で錆漆を作った。
錆漆とは水で練った砥の粉に生漆を混ぜたもので、継ぎ合わせた凹み部分に木ヘラで盛るようにして埋めていく。
渉は錆漆のついた木ヘラを手にしていたが、志野と泰斗にじっと見つめられ、手が止まった。
「緊張する……」
「もー、お父さん、あっち行って!」
「はいはい」
泰斗は笑いながら席を離れた。
長年役者をしていた渉は人の視線には慣れているはずだったが、志野と泰斗に同時に見つめられると緊張した。
翌日、凹み部分に埋めた錆漆が乾いていたので、志野は木賊(研草)を使って埋めた錆漆を磨くと言った。木賊は生け花などの目的で栽培されることが多いが、表皮細胞の細胞壁にはプラントオパールと呼ばれるケイ酸が含まれており、乾燥させた木賊は耐水ペーパーの代わりに使える。
「木賊は不思議な植物で、漆を磨くけど陶器には傷をつけないと言われているのよ。――朝、起きた時に水に浸けておいたから、もう柔らかくなっているわ」
志野は朝食を済ませた渉に言った。
渉はテーブルを布巾で拭いてから新聞紙を敷いてガラス板を置いた。ゴム手袋を着け、ムロの段ボールを開けて長皿を取り出した。
志野は割箸から作った細長い棒と、水に浸けて柔らかくなった木賊を入れた容器を持ってきて、ガラス板の横に置いた。
「よいしょ」
志野は渉の横に腰を下ろしたが、「あっ、また言ってしまった……」と恥ずかしそうに呟いた。
「えっ?」
「『よいしょ』っていちいち言うのを止めなさいって麻矢に注意されたのよね。――年寄り臭いって……。麻矢に比べたら私って格好もダサいし、おばさんよね」
「志野さんはきれいですよ」
思わず本音を漏らした。
「ゴンさん、お世辞が言えるようになったのね」
驚いたように言った。
志野の指導の下、水でふやかした木賊の空洞部分に細長い棒を差し込み、木賊を折り曲げて親指で押さえながら、はみ出た錆漆の凸凹部分を優しく磨いて整えた。磨いた箇所を人差し指でなぞるときれいに平らになっており、驚くほど心地よく、何度も整えた部分をなぞった。
そんな渉を見て、志野は微笑みながら言った。
「金継ぎって面白いでしょう?」
「はい、面白いです。――陶芸家の先生は金継ぎも学ぶのですね」
「お父さんは金継ぎができないわ」
金継ぎを勧めたのは泰斗だったので、渉はてっきりそうだと思っていた。
「ゴンさんは手際がいいから、今から中塗りが出来るわね」
中塗りは磨いた錆漆の上を、細筆を使って絵漆(弁柄)や黒呂色漆を塗る作業である。
志野はチューブに入った絵漆を持ってきて、渉の目の前で濾紙に巻いて濾した。
渉は濾紙を巻く志野の指先が好きだった。指先に見惚れていると、「ゴンさんも次に巻いてみる?」と聞かれ、慌てて首を横に振った。
先に志野が中塗りの手本を示してくれたが、細筆を使って塗るのは初心者の渉には難しかった。
「大丈夫。何度でもやり直せるから……」
志野は優しく囁いた。
夕食後、乾いた絵漆を木賊で磨き、続いて黒呂色漆で二度目の中塗りをした。小指をうまく支えながら塗れたことで、渉は手応えを感じた。
翌日の朝食後に三度目の中塗りを行い、夕食後にはついに金粉を蒔いた。
「一週間ムロに入れて、それから紛固めをして、一晩寝かせてから磨いて完成よ」
渉は頭の中で完成までの日にちを数えた。
「金継ぎは半月で完成するんですね」
「今の時期は湿度と温度が高いから早く完成するけど、空気が乾燥する時期は一か月以上かかることもあるわ」
「そうですか……」
あぐらをかいて金粉が蒔かれた長皿を眺めていると、空気の雰囲気が変わった。
志野が膝をつき、背後から渉を抱き締めた。
――えっ?
驚いて思わず背筋を伸ばした。
「壊れた器は人の手によって修復可能なの。人間の心もね」
志野は渉の胸に手を当て、耳元で囁いた。
背後から伝わる温もりは、渉が夢の中で感じた着物の女性と同じだった。
優しい温もりに包まれながら振り返ると、誰の姿もなかった――。




