第3章 暗黒沈静 7
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渉はまた情緒不安定に陥った。漫然と日を過ごし、一日中部屋で寝転んでいても、泰斗と志野は何も言わなかった。それがまた苦痛に感じたり、ありがたく思えたり……訳が分からなくなっていた。
志野に身体を触られないよう、縁側に出る時は必ず長袖と日焼け止めを忘れなかった。サフラが慰めに来てくれることもあったが、それすら煩わしく感じるようになっていた。
九月は雨が多かった。陶房のトタン屋根に降り注ぐ雨音は渉には音楽のように響いたが、すぐに苛立ちが湧き上がった。
もう自分の感情を抑えることができなかった。
――ここを出て行こう。
そう決めた翌日から、渉の気持ちは少し楽になった。
今の状態で何も告げずに出て行ったら、きっと心配されるだろう。約二か月お世話になった感謝を示すため、家の中をきれいにしようと思ったが、それがかえって裏目に出た。
渉は泰斗の長皿の陶芸作品を真っ二つに割ってしまった。
割れた長皿の前に呆然と立ち尽くしていると、泰斗が渉の肩をポンと叩いて言った。
「金継ぎしたらええ」
「そうね」
志野は台所から長手盆を持ってきて、屈んで破片を拾い集めた。
渉はこれまでにも泰斗の作品を割ったことがあったが、ほとんど素焼きのものだった。泰斗は笑って許してくれたが、いつか弁償するつもりでいたので気に留めていなかった。今回は展覧会で飾られた作品だったため、気持ちが沈んで仕方なかった。今の渉には二人の優しさが耐えられなかった。「出て行け!」と言われた方が、まだ気持ちは晴れやかになったかもしれない。
「ゴンさん、一緒に金継ぎしようか」
「はい……」
「やり方は教えるけど、ゴンさんが割ったから自分で直してね」
志野のつれない言い方に、少しだけ気持ちが晴れた。
金継ぎは日本に古くから伝わる伝統技法の一つで、割れ、欠け(ほつれ)、ヒビ(にゅう)などの陶磁器の破損部分を漆で接着して、金や金属粉で装飾して仕上げる修復技法である。
渉は正座し、居間のテーブルに置かれた長手盆の上の破片をじっと見つめた。
「まだ物が溢れていない時代では、壊れた物を直して使うのが当たり前だったのよ」
志野はティッシュペーパー、ウエス(汚れを拭き取る布)、プラスチック容器に入った燃料用アルコールをテーブルの隅に置いた。
「それから……」
志野は新聞紙を広げて敷き、その上にガラス板を置いた。傍らに筆とプラスチックのヘラ、木ベラを並べると、渉の横に腰を下ろした。
「今の時期は温度も湿度も金継ぎに適しているから、作業がしやすいわね」
渉は志野との距離の近さに緊張して身体を離した。
「まずはウエスにアルコールを染み込ませて、割れた陶器の断面をクリーニングするの。この長皿は展示用だけど、もし次に金継ぎをする場合は、汚れや油分が付着しているかもしれないから、工程として覚えておいてね」
志野はウエスとアルコールを手渡した。
渉は言われた通り、ウエスにアルコールを染み込ませ、断面に塗った。
「こうやるのよ」
志野が横から身体を密着させてきたので、渉の肩に思わず力が入った。
「次は生漆とテレビン油を混ぜて、筆で断面に塗る作業ね」
そう言って席を立った。
渉は彼女の身体が離れたことで安堵し、深く息をついた。
「まずは、生漆を濾す作業をするけど、これは私がするね」
志野はチューブに入った生漆と漆濾紙を一枚持って来て、渉の斜め横に腰を下ろした。
「ゴンさんも、少しこっちに移動して」
志野は両手を伸ばし、目の前にある道具と材料を引き寄せた。
渉は言われた通り、少しだけ移動した。
生漆とは、漆の木から採取して異物を取り除いた漆だが、チューブに入れる工程で不純物が入ることもあるので、奈良県吉野産の強靭な吉野紙(濾紙)を使って取り除く。
志野は大きな正方形の濾紙をハサミで横の字の目に合わせ、縦五センチ、横十センチにカットした。幅のある部分を数ミリ間隔で三つ折りにし、端を示指と中指、母指と薬指で広げて挟んだ。その中心に生漆を三つ折りの間に少し垂らし、素早く両指を使って包んだ。それから数回ねじり回して、中の生漆を上手にガラス板の上に引っ張りながら絞り出した。ヒモ状になった濾紙を輪っかにし、残った生漆はヘラを使ってガラス板の端にかき出した。
渉は器用な志野の指先に見惚れていた。
「ゴンさんは漆が手に着かないように、ゴム手袋をして」
渉はハッとして、慌てて言われた通りにゴム手袋を着けた。
「私は何度も漆に触れているから抵抗力がついたけど、初めての人が漆に直接触れるとかぶれることがあるから、金継ぎをする時は必ずゴム手袋を着けてね」
絞り出した生漆の横に、同じ分量のテレビン油を出し、渉にプラスチックのヘラで混ぜるように指導した。
渉は手本を真似て、ヘラで生漆とテレビン油を上手に混ぜ合わせた。
「ゴンさん、素質があるわね」
志野は褒めながら、「じゃあ、ナイロン筆を使って、これを陶器の断面に塗って」と言い、先に筆を取って端に出した生漆で筆を洗った後、差し出した。(これは筆に残っている菜種油などを取り除くためである)
志野の視線を感じながら、渉は筆を使って生漆とテレビン油を混ぜ合わせ、陶器の断面に塗った。数十分後、ウエスで塗った部分を押さえながら拭き取った。
いったん破片を段ボールで作った簡易ムロに入れた後、渉は接着剤として使う麦漆の作り方を教わった。麦漆は水練りした薄力粉に生漆を少しずつ練り合わせ、チューインガムのような粘りが出るまでプラスチックのヘラで根気よく練り続けなければならない。薄いゴム手袋だと指に力が入ると破れてしまうことがあるが、渉のゴム手袋も気づかぬうちに破れていた。
「あっ! ゴンさん、指に漆がついてる!」
志野は慌てて渉の手を取ると、ゴム手袋を外して菜種油をかけた。その手を握ったまま立ち上がり台所へ連れて行こうとしたが、渉は座ったまま彼女の手を振り払った。
「ゴンさん!」
志野が声を荒げると、渉はビクっとした。
「手に漆がついたのよ! すぐに洗わないと駄目でしょ!」
志野は渉の手を取って立たせ、台所へ引っ張って行き、手を洗わせた。
陶房から泰斗が現れた。
「何事や?」
「ゴンさんの手に漆がついたから、洗ってもらおうとしただけ……」
志野は声を抑えて泰斗に言ったが、重苦しい空気が流れていた。
「ごめんなさい……」
志野は渉から離れ、テーブルの横に正座した。
「それは展示会で売れ残った作品や。もう金継ぎはせんでええ」
泰斗は陶房へ戻って行った。
沈んだ空気が漂う中、志野は落胆した様子でテーブルの上の材料を片付け始めた。
台所に突っ立ったまま、渉は志野を傷つけてしまったことを反省した。ななしのごんべいの自分を、漆かぶれで皮膚科に連れて行くことだけは避けたかったから彼女は強引に手を引っ張ったに違いない。
憎たらしい満月の日以来、渉は志野を見る目が変わってしまった。異性として意識し始めてから、一つ屋根の下で暮らす彼女に無意識に襲い掛かってしまうのではないかという不安が募った。無人島で異性と二人きりになった(泰斗とサフラがいるが)時の心理状態だと分かっていたが、そばにいるだけで心臓がドキドキした。
渉は手を洗い、片付けをしている彼女に近づいた。
「志野さん、すみません……」
「いいの……私が悪いの……」
志野は目を合わせなかった。
渉は正座をしてから言った。
「俺、金継ぎがしたいです」
志野はしばらく渉を見つめ、何も言わなかった。
「お願いします……」
深く頭を下げた。
志野は渉に背中を向けてから、深いため息をついた。




