第3章 暗黒沈静 6
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泰斗を「お父さん」と呼ぶのが気に入らなかったのか、花火の夜を境に祐太は渉に対して態度がきつくなっていた。渉は全く相手にしていなかったが、麻矢と志野は口癖のように「もー、祐太、ゴンさんに優しくして」と言っていた。
夏の終わり、陶犬茶房で夕食を共にした。
相変わらず崇と雅人は、渉に向かって「ゴン、おまいだったのか!」を連呼していた。
夕食後、祐太は漢字の参考書を開いてテーブルに向かって勉強を始めた。
麻矢はカウンターでコーヒーを淹れながら、何気なく祐太を見ている渉に言った。
「ゴンさん、祐太は漢字の勉強をしているのよ。偉いでしょう」
「もうすぐテストだからな」
祐太は顔を上げて麻矢に答えた。
「漢字検定を受けるのよ」
志野が渉に説明した。
「『陶犬茶房』をオープンした時、祐太は四字熟語に興味を持ってね。それから復習も兼ねて漢字の勉強を少しずつしているの。年に一度だけでもテストを受けてみようなんて、目標を持ってね」
麻矢はコーヒーを配りながら渉に言った。
「俺、学生時代ちゃんと勉強してなかったからな」
「このお店も四字熟語の『陶犬瓦鶏』から取ったのよ。陶芸の『陶』が入る四字熟語を探して、茶房を合わせただけだけど……」
「陶犬瓦鶏の四字熟語の意味は何ですか?」
渉は麻矢に尋ねた。
「形ばかりが立派で、実際には何の役にも立っていないって意味よ」
「ゴン、お前みたいだな」
祐太が意地悪く言うと、麻矢はすぐに「祐太!」と注意した。
渉は祐太の言葉に傷ついた。確かにここでは何の役にも立っていないと自覚していたからこそ、麻矢が持ってきたコーヒーに手をつけられなかった。
志野は渉を一瞥すると席を立ち、祐太が勉強していた参考書を取り上げた。
「おい、何するんだ?」
祐太は志野を見上げて言ったが、顔は嬉しそうだった。
「へえー、いろんな四字熟語があって面白いね」
志野は四字熟語の参考書を開き、「この『比翼連理』って四字熟語、お父さんとお母さんみたいだね」と付け加えた。
「意味は何だ?」
泰斗は聞いた。
「夫婦が仲睦まじく、強く結ばれていることよ」
「祐太と麻矢のことだな」
「見せて」
麻矢は志野から参考書を奪い取り、確認した。
「『比翼』は比翼の鳥のことで、雌雄それぞれ目と翼が一つずつで、常に一体となって飛ぶという想像上の鳥。『連理』は連理の枝のことで、根元は別々の二本の木で幹や枝が途中でくっついて、木理が連なったもの。男女の離れがたく仲睦まじいことの例えだって。ステキねー」
麻矢はうっとりしていた。
「本当だ。祐太と麻矢のことだね」
「もういいだろ。返せよ」
祐太はムッとして麻矢から参考書を奪い取った。
コーヒーを飲み終えた泰斗が席を立った。
「志野、わしは先に帰るから、帰りは祐太に送ってもらえ」
「分かった」
泰斗は裏口から出て行った。
渉はまだコーヒーに口をつけられずにいた。
「ゴンさん、コーヒー、淹れ直そうか?」
麻矢が気遣うように声をかけた。
「……あっ、大丈夫です」
慌てて冷めたコーヒーを啜った。
場の空気を明るくしたのは崇と雅人だった。
「手裏剣だ!」
二人は歓声を上げながら、渉に向かってゴム製の手裏剣を投げつけた。
床に落ちた手裏剣を手に取ると、懐かしさに笑みがこぼれた。
「昨日、忍者ショーを見に行って、そこで買ったのよ」
麻矢が渉に言った。
「忍者列車にも乗ったよ!」
崇に続いて雅人も「僕も忍者列車に乗った!」と自慢した。
「忍者列車に乗ったんだ」
渉は顔を輝かせて二人に言った。
「うん乗った! 駅名も全部言えるよ。――伊賀神戸→比土→上林……」
崇が忍者列車の駅名を言い始めたので、渉も一緒に「丸山→依那古……」と続いた。
「ゴンさん、忍者列車に乗ったことあるんだ」
麻矢は驚いた。
「市部→猪田道→桑町」と渉は言ったが、崇は「猪田道」の次に「四十九」と言った。
渉は聞いたことのない駅名に戸惑った。
「桑町→茅町→広小路→忍者市(上野市)→西大手→新居→伊賀上野!」
崇は言い終えると満足そうに笑った。
「すごいね、崇くん」
志野は崇の頭を優しく撫でた。
「僕もなでてー、志野ねーちゃん」
「はいはい」
雅人の頭も優しく撫でた。
「ゴンさん、四十九駅を知らなかったのね。――四十九駅は一度休止になったけど、平成三十年に再開したのよ」
麻矢が説明した。
「ゴンが死んでいたら、今日が四十九日だったな」
祐太は意地悪そうに言った。
渉は祐太を見てから顔を伏せた。
「祐太、止めて!」
麻矢の声に場の空気が張りつめた。
崇も雅人もいつもと違う雰囲気に戸惑った。
名古屋から抜け出したあの日、夜空に見えるはずのない満月が見えた。
剛と大地に会いたくて……大地に背中を支えてもらいたくて……でも誰も支えてくれなかった……。
そのまま背中から落ちて、気がつけば今ここにいる。
死にたかったのかどうか分からない。ただ、消えてしまいたい――そう感じただけだった。
記憶が鮮明によみがえり、訳が分からなくなり、今にも泣き出しそうになった。
「ゴンさん、帰ろう」
志野の言葉に渉はハッとした。
「じゃあ、送るよ」
祐太が席を立った。
「いい、二人で歩いて帰る」
「お父さんに頼まれただろ」
「今夜の祐太は意地悪だから、歩いて帰る。――ゴンさん、行こう……」
志野は渉を連れて裏口から出て行った。
「何だよ……」
「祐太、最低」
麻矢は祐太を睨みつけ、崇と雅人を連れて二階へ上がって行った。
「俺が何したって言うんだ……」
祐太は不貞腐れて呟いた。
澄明な夜空に無数の星が瞬いていた。その下を志野は渉を連れてゆっくり歩いていた。伊賀の星空は東京とは違い、手を伸ばせば触れられそうなほど近かった。
夜空の中で、満月がひときわ明るく輝いていた。
「今夜の満月はきれいね」
志野は足を止め、見上げて言った。
渉も足を止めて満月を見上げた。そうだ、今日は満月だった――でも、横山大観の『満月』ではなかった。
「見て、こうしたら曜変天目になるのよ」
志野が両指で丸を作って、夜空を見上げながら言った。
曜変天目とは、漆黒の器の内側に夜空に星がきらめくような模様が浮かぶ茶碗のことである。作者不明の国宝級の曜変天目茶碗は現存するものが世界に三点しかなく、いずれも日本の美術館に所蔵されている。
「曜変って、焼成中の炎の性質や釉薬に含まれる成分が影響して、窯から出して初めてどんな仕上がりか分かるのよ。――ひとつひとつ表情が違って、同じものは二つとないの。人間と同じ……」
渉は志野が自分を慰めてくれているのだと感じた。
サフラが口にリードを加えながら、嬉しそうに二人の前に駆け寄ってきた。
「ああ、サフラ。迎えに来てくれたのね」
志野は腰をかがめ、サフラを両手で優しく撫でた。
サフラは自由に走り回れるのに、なぜリードを口に加えてお散歩に行きたいと訴えるのか渉は不思議でならなかった。
「サフラがお散歩に行きたいって訴えているんじゃないの。私たちが辛い時や悲しい時に、外へ連れ出して心を癒してくれるの」
志野は渉の気持ちを悟ったように、サフラを抱き締めながら言った。
渉はどうしたらいいのか分からなくなった時、いつもサフラがリードを口に加えて現れたことを思い出した。一度この場所を離れようとした時も、サフラがここへ連れ戻してくれた。今夜も祐太の意地悪から慰めてくれているに違いない。
渉はサフラの口に加えられたリードを手に取ろうとしたが、同じくリードに手を伸ばした志野の手と触れてしまった。
――あっ……。
渉は手を引っ込めた。吉本新喜劇ならここで志野も「あっ……」と言って、二人ともドキドキしながら手を引っ込めるが、彼女は動じずにリードをサフラの口から取って首輪にカチッと繋げて立ち上がった。
「ゴンさんがリードを持つ?」
志野の問いに、渉は首を横に振った。
星降る夜空の下で渉は彼女を見つめていた。
――この女は輝く星よりも美しい……。
胸が高鳴り、今夜の満月は渉を狼に変えてしまいそうだった。
二人は見つめ合ったが、近づく車の音が空気を断ち切った。
「あっ、祐太が来てくれた」
志野は微笑み、サフラを連れて渉のもとを離れていった。その姿は流れ星のように消えた――。
「……悪かった」
運転席から、祐太は後部座席でサフラと並んで座る渉に軽く頭を下げて謝った。
渉はぷいっと無視した。
「来てくれてありがとう」
志野は運転を始めた祐太に優しく声をかけた。
「ああ……」
祐太は照れながら答えた。
渉は二人の意味深長なやり取りに苛立ちながらも、もし祐太が迎えに来なければ、志野にキスをしていたかもしれないとゾッとした。せっかく身を潜めて暮らせているのに、先を考えずに軽率な行動を取ればこの聖域に居られなくなる。
――志野さんの優しさは罪だ。
渉は車内から夜空を見上げ、生まれて初めて満月を憎らしいと感じた。




