第3章 暗黒沈静 4
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夕食後、渉は泰斗が運転する軽トラックに乗って、二階建ての池崎家に連れてこられた。
「ここは陶芸教室も兼ねてるんや」
二人に気づいたサフラが、尻尾を振りながら出迎えた。
渉は周囲を警戒しながら、泰斗に続いて車を降りた。
「大丈夫や。ここはわしの山で、入口には門扉があって誰も入れんようになっとる。――裏口から入るから安心せい」
泰斗の言葉に、渉は頷いた。
コーヒーの香りが店内に漂っていた。二人が裏口から入ると、中は陶磁器や陶芸品が洒落た雰囲気で並ぶ喫茶店だった。渉への配慮からか、外から中を見通せないよう、入口の扉や窓にはすべて覆いが施されていた。
「いらっしゃい」
エプロン姿の麻矢が二人を迎えた。
泰斗は渉の肩に手を置き、「ここでゆっくりコーヒーを味わったらええ」と言って、奥の部屋へと消えていった。
泰斗の温もりが大地の温もりと重なり、渉は呆然とした。
渉は麻矢に促されるまま、テーブル席に腰を下ろした。
麻矢はスナックセットを運び、淹れたてのコーヒーとケーキを渉の前に置いた。
「コーヒーとケーキのおかわりもあるから、遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます」
「あら、ゴンさん。しゃべられるようになったのね」
麻矢は驚いた。
何週間ぶりのコーヒーだったのか渉には思い出せなかった。久しぶりに濃厚な飲み物が喉を通り過ぎると身体の内側が潤いで満たされ、自然とため息が漏れた。と同時に、石田を思い出した。
――皆、どうしているだろうか。
ここに来て初めて仕事を抜け出したことを鮮明に思い出し、不安に駆られたが、目の前の彩り豊かなケーキを見た瞬間、不安は消えた。
麻矢はカウンター越しに、途切れることなく渉に話しかけていた。
池崎家はもともと帯谷家の所有だったが、泰斗が作業に没頭すると陶房からほとんど下りて来ないため、五年前から祐太と麻矢に貸している。
一階は「陶犬茶房」で、平日のみ営業している。週に数回、学生のアルバイトを一人雇っているが、それ以外は祐太と麻矢の二人で経営している。
一階の奥では陶芸教室も開かれており、週に一度、泰斗は少人数の生徒に陶芸を教えている。
祐太は左官職人としても活躍している。大会で賞を取ったこともあるが、左官の仕事は年に数回しかしておらず、主に茶房の経営と泰斗の手伝いをしている。
「祐太ももう二十五歳だし……私は左官職人だけで頑張ってほしいんだけど……」
「コーヒーのお替りをください」
渉は麻矢に言った。
「ああ、ごめんなさい。つい一人でしゃべりすぎたわ」
麻矢はコーヒーサーバーを手にカウンターから出てきて、渉のカップに温かいコーヒーを注いだ。
「ゴンさんは、いくつ?」
「二十五歳です」
渉は口が滑ったことにハッとした。
「私たち三人と同じ歳なのね」
麻矢は微笑みながら、カウンターへ戻った。
渉はいつか麻矢に、自分が俳優の岸部渉だと明かしてしまうのではないかと心配になった。
――俺はゴンだ……。俺はゴンだ……。
自分に言い聞かせていると、奥から散髪バサミを手にした志野が現れた。
「ゴンさん、こっちへ来て」
渉は今から何が起こるのだろうと、志野を見つめた。
「大丈夫よ。丸坊主にしないから」
彼女は微笑んだ。
「コーヒー・セットは持ったか?」
澄明な夜空の真下で、泰斗は渉に聞いた。
「はい、持ちました」
渉は大きな紙袋を泰斗に見せた。
「ゴンさんも男前になったな」
散髪された泰斗が、近くに止めた軽トラックに乗り込みながら言った。
渉もすっきり散髪されて、池崎家のバスルームで髭も剃った。お風呂上りに麻矢から「あら、ゴンさん、男前ね。今までどんな仕事をしていたの?」と聞かれたが、何も答えなかった。
渉が裏口に淋しげに佇むサフラを見つめていると、泰斗は「サフラは志野が連れて帰るから大丈夫や」と言って、車を発進させた。
部屋に戻った渉は、壁に掛けられたカレンダーを確認した。
九月のカレンダーの左下に、小さく八月のカレンダーが載っていた。指先で数えるように確認すると、八月中旬に名古屋のホテルを抜け出してから、今日で三週間が経過していることが分かった。
――三週間ぶりのコーヒーか……。
車を降りるとき、泰斗から「うちでゆっくり休養したらいい」と言われた。
お言葉に甘えて、渉はもう少しここにいようと決めた。
少し丈の短い祐太のパジャマに着替え、電気を消して布団に入った。襖越しに隣の部屋から泰斗の寝息が聞こえてきた。
明日からまたコーヒーのある生活だと思うと、渉の気持ちは自然と弾んだ。
「お父さんと私は先に朝食を済ませたから、ゴンさんは独りで食べてね」
志野は慌ただしく渉の味噌汁を入れてから、外へ出て行った。
渉がいつもより一時間も遅く目を覚ましたのは、居候の身でありながら、ここで初めて心地よい眠りに落ちたからだった。
食後のコーヒーを味わいながらため息をつくと、サフラがニコニコ笑って土間にちょこんと腰掛けるのが目に入った。
――そういえば、志野さんとサフラは昨夜、池崎家からいつ戻ったんだ?
「おい、サフラ。お前、いつ戻った?」
渉はサフラに話し掛けたが、「ワン!」と元気よく返事をされただけだった。
縁側で、渉がサフラと並んでぼんやりしていると、志野が長袖のシャツと日焼け止めクリームを手に現れた。
「ゴンさん、今は真夏でも、山にいる時は半袖で表に出ないほうがいいわ。マダニに気をつけないと……日焼け止めはちゃんと塗った?」
渉が近づいてくる彼女の顔を見つめると、両目が充血していることに気づいた。と同時に、深夜にサフラを連れてすすり泣きながら戻った姿を思い出した。
「サフラ……私を慰めてくれるのね……」
彼女の嘆き声を、渉は襖越しに隣の部屋から寝ぼけながら聞いていた。
――志野さんはどうして泣いていたんだ? 祐太にいじめられたのか?
渉は志野の充血した両目を見つめながら考えていた。
志野は自分の痣を見ているのだと思ったらしく、全く気にしていない様子で言った。
「この痣は母斑(単純性血管腫・ポートワイン母斑)と言って、生まれつきなのよ」
渉に長袖のシャツを着せながら、「昨日、散髪の時、祐太がゴンさんに何度かきついこと言っていたけど……悪気はないのよ。気にしないでね」と言って、日焼け止めクリームを手渡した。
渉がきちんと塗ったのを確認してから、志野は安堵したように横に腰掛けた。
二人の間には会話はなかった。ただ、耳障りな蝉の鳴き声だけが辺りに響いていた。
蝉の鳴き声がふと止まった。
「ゴンさん、今よ……」
志野は両目を閉じた。
渉はキョトンとして彼女を見つめていると、また蝉がうるさく鳴き出した。
志野は両目を開いた。
「一瞬だけ……蝉の鳴き声が止まって静けさがある時に両目を閉じると、自分の心の声が分かるのよ」
渉は彼女の言葉に戸惑い、サフラの方に身体を向けた。
「ゴンさん、身長は何センチ? 昨日麻矢と、お盆の日に皆でこの庭で花火をしようって話になったの。――お父さんにも話したら、ゴンさんも誘えって。お父さんの浴衣は腰あげをしているから、ゴンさんの身長に調節できるかと思って……」
麻矢に年齢を口走ったことが引っ掛かっていた渉は、志野の問いに警戒した。
だが、この家にはテレビもインターネットもなく、三人で食事をしている間も二人はいつも陶芸の話ばかりしていた。渉は本名を伝えてもきっと、「ななしのごんべい」と同じ扱いになるだろうと思った。それでも――思春期の子供のように、渉はなぜか志野を無視していた。
「祐太よりも少し背が高いから……百八十センチ位かな?」
志野は渉を観察しながら呟いた。
――百八十六センチだけど……。
「お父さんの浴衣では着丈が足りないかも。祐太の浴衣を一枚借りてくるね」
志野は立ち去った。
渉はサフラの視線を感じた。「もっと志野に優しくしてあげて」と訴えているようだった。
「分かった……」
渉はため息をつきながら、サフラの頭を撫でた。
サフラは「ワン」と鳴いた。




