第3章 暗黒沈静 3
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伊賀焼は三重県伊賀市で焼かれている陶器である。
伊賀上野城に私財を投じて再建した川崎克の著書『伊賀乃信楽』によると、伊賀焼の陶祖は太郎太夫、次郎太夫(享禄期)と記されている。因みに、天平年間(奈良時代)に農民の農具や生活雑貨はすでに焼かれていた。
伊賀焼の特徴的なビードロ釉は、窯の中で薪の灰が降りかかって溶融して形成された自然降灰釉である。ビードロの青緑色は、還元焼成によって灰に含まれる微量な鉄分で得られる自然色である。還元焼成とは、わざと酸素が足りない窒息状態で焼成する方法で、不完全燃焼となるので、極端な還元焼成の場合は煙突から黒い煙が発生する。これ以外の焼物の焼成方法には酸化焼成がある。酸化焼成は、窯の中で一定量の酸素(空気)がある状態で完全焼成される方法である。
薪を焼べない現代の陶芸窯には、電気窯、灯油窯、ガス窯がある。電気窯は基本的に空気中で焼成をするので酸化焼成になるが、ガスバーナーを併用して還元焼成が出来るように設計された窯もある。灯油窯とガス窯は、酸化焼成と還元焼成が可能である。通常の焼物は約千三百度以内で焼成されるが、伊賀焼は焼物の中でも高温度で焼締めされる。
泰斗の穴窯は赤松の薪を使って、千三百五十度以上の高温で還元焼成される。
「伊賀焼は無釉だが、陶芸教室では生徒さんが時々、釉薬を使うんや。釉薬の中に銅が含まれている場合、酸化焼成では緑色になって、還元焼成では緋色やピンクっぽい赤系の色になるんや」
渉は泰斗の説明にキョトンとしていた。
「還元、酸化の話よりも、ゴンさんにはまずは伊賀焼の説明やな……。伊賀市はな、昔は琵琶湖の底やったんや」
およそ四百万年前、三重県西部の伊賀盆地に古琵琶湖の初期にあたる大山田湖(現在の三重県伊賀市)が誕生した。湖は形と位置を変えて、約四十万年前に今の琵琶湖になったと伝えられている。
古琵琶湖から採掘される原土の中には、四百万年も前に生息していた有機物が含まれている。高温で焼成すると、有機物が発泡して土の中に細かい気孔が出来る。これを「呼吸をする土」と呼び、優れた耐熱性と耐久性を持つ作品作りが可能となる。
伊賀焼が土鍋や耐熱食器等が盛んに作られるのは、古琵琶湖から採掘される原土のお陰である。
山一つ越えた滋賀県甲賀市は信楽焼が盛んで、同じ古琵琶湖で採掘された原土で作られる。その特徴は等しく、伊賀焼も信楽焼もビードロ釉、炎によって生じる緋色、灰かぶり、焦げなどが挙げられる。分かりやすい違いは、伊賀焼の高温焼成に対して、信楽焼は低温焼成になる。
『伊賀に耳あり、信楽に耳なし』
伊賀焼と信楽焼の違いについて語られる言葉で、古伊賀の時代に産地の違いを表すために『耳』つまり取っ手を付けたと言われている。
「亡くなった親父が、大阪万博(日本万国博覧会)で岡本太郎の『太陽の塔』に圧倒されてな……。信楽焼の方が全国に名が知られとるから、信楽に開窯しようかって言うてたことがあったんや」
太陽の塔は芸術家、岡本太郎が昭和四十五年(1970年)に、大阪府 吹田市で開催された日本万国博覧会のために造った建造物である。その正体はカラスで、背面の過去の顔『黒い太陽』には、信楽焼の技術を活かした建物の装飾に使われる陶製の板が使われている。
「あっ、お父さん! まだゴンさんと煙草吸ってるの!」
志野が顔を出して、泰斗に怒った。
「ゴンさんに伊賀焼を教えとるんや。志野、『破袋』が載ってる本を持ってきてくれ」
志野は驚いてすぐに図録を取りに行った。
「これよー。凄いでしょう」
先ほどと打って変わって、志野は微笑みながら美術館の図録を開いて渉に見せた。それは東京都世田谷区にある五島美術館に所蔵されている重要文化財『古伊賀水指 銘 破袋』の写真だった。
陶芸に全く興味がない渉にとって桃山時代に焼かれた高さ21.4㎝の水指は、映画『スター・ウォーズ』のヨーダ以外の何者でもなかった。
「歪みができて大きくひび割れた姿。これは生掛け(素焼きせずに焼成する方法)で焼いた時になりやすいんや」
泰斗が言ったが、渉の頭はすでにスター・ウォーズ一色になっていた。
「ここに『今後これほどのものはないと思う』って書いてあるでしょう」
志野は図録に記載されている古田織部が大野主馬に宛てた内容を指した。
「これは小さい作品だけど伊賀焼を代表する偉大な作品でもあるのよ」
志野は言った。
身長が一メートルもないヨーダは偉大なジェダイ・マスターである。
「Size matters not. Look at me. Judge me by my size, do you? (大きさは問題ではない。わしを見ろ。サイズでわしを判断するか?)」
渉はヨーダがルーク・スカイウォーカーに言った台詞を思い出した。
「破袋の実物を見てから親父はやっぱり伊賀焼だと勢いづいて、ここに開窯したんや」
泰斗の言葉に渉は改めて図録の破袋に目を落とした。破袋もヨーダも見た目は小さいが、どちらも偉大な役割を果たしているのだろう。
伊賀国領主であった筒井定次は茶人の古田織部と交流があり、伊賀焼の発展に貢献した。茶の湯が盛んになった安土桃山時代、定次は織部の指導によって槙山窯、丸柱窯、上野城内の御用窯などで茶陶の水指や花入を焼かせたとされ、これらを『筒井伊賀』と呼ぶ。伊賀上野城に飾られている筒井伊賀は天守閣があった地から出土された物で、茶道に使う水指とみられている。
定次の改易後、伊賀国を任された藤堂高虎の嫡男である藤堂高次は、京都から陶工を招いて茶陶などを焼かせていた。これらを『藤堂伊賀』と呼ぶ。
「筒井伊賀と藤堂伊賀のことを『古伊賀』って言うのよ」
志野は渉に言った。
古伊賀とは、青緑ビードロ釉、歪み、灰かぶりや焦げ、ヘラ工具を使用した波状の文様、格子状の押し型文様の他、鉄釉を垂らすといった作為性の強い意匠が特徴である。
伊勢津藩の第三代藩主・藤堂高久が寛文九年(1669年)に白土山の陶土採掘を禁止したため、ほとんどの陶工が信楽に移って伊賀焼は一時衰退するが、江戸時代の中期に伊勢国津藩九代藩主・藤堂高嶷が作陶を奨励したことで『再興伊賀』の時代を迎える。
再興伊賀は施釉陶の日常雑器が中心となり、雪平鍋、土瓶、土鍋等が支持を受けて全国に広まった。明治期以降は伊賀陶土の特性を生かした耐熱食器の生産が主流となって、産地としての基盤が固められた。
大阪万博から十二年後の昭和五十七年、伊賀焼は国から伝統的工芸品に指定された。
志野が立ち去っても、泰斗は渉に伊賀焼の説明を続けていた。
「穴窯で本焼きする前に、陶房にある電気窯で素焼きをするんや」
作品の成型が完成したら、一週間以上自然乾燥させて粘土内の水分を取り除く。その後、粘土を焼き固めるために八百度の温度で素焼きをする。この時、乾燥が不十分だったり粘土内に空気が含まれていると、膨張して破損したりヒビが入ったりする。素焼きをしないでそのまま本焼き作業に入ることを生掛けと呼ぶが、完全に作品を乾燥させないと窯の中で爆発する。
一通り伊賀焼の説明を渉にできたと思った泰斗は、満足そうだった。
「もう一本どうや?」
泰斗は渉に煙草を勧めた。
「コーヒーがほしくなる……」
思わず口にした。
「ゴンさん、ここに来て初めて言葉を口にしたな」
泰斗は笑い、半白の口髭を撫でながら「そろそろ散髪せなあかんな……」と付け加えた。
渉も釣られて自分の無精ひげを撫でた。




