第1章 呼牛呼馬 1
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――ただ兄に認められたいだけだった。
俳優の岸部渉は心の中で呟いた。
渉には一つ年上の兄がいる。
「お前の分も応募したから」
中学二年の岸部翔は、はにかんだ笑顔で言った。
それは日本で撮影が決まった、ハリウッド映画のメインキャストの応募だった。
端正な顔立ちに陽気な性格を持ち合わせた翔は、学校ではいつも注目の的だった。控えめな渉にとって自慢の兄であり、いつか自分も兄のように人を惹きつけられる存在になりたいと願っていた。
しばらくして、書類審査の合格通知が二人に届いた。
「渉、喜べ! お前も突破したぞ!」
翔は満面の笑顔で言った。
渉は人気者の兄が自分を相手にしてくれるだけで嬉しかった。大好きな兄に構ってほしくて、二次審査もどうしても合格したいと願った。
二次審査は会場での実技審査だった。映画プロデューサーやスタッフの前で、自己紹介を含めた演技やパフォーマンスが求められた。
翔は長年ハリウッド映画を撮り続けている監督やスタッフが来るからと、渉に名作『ウエスト・サイド物語』のダンスシーンを覚えさせた。
渉は観たこともない映画のダンスを、翔のために毎日一生懸命に練習した。その甲斐あって、二人とも二次審査に合格した。
「二人ともすごいな! 俺の自慢の息子だ!」
これまで関心が薄かった父の岸部徹も、合格通知が届いた時は息を弾ませた。
「二人が映画に出られたら、お母さん、パート辞めちゃおうかしら」
母の岸部美和も笑顔で言った。
「俺、絶対にハリウッドスターになるから、お母さんはいつでもパートを辞めたらいいよ!」
「まあ、翔ったら。お母さん、嘘でも嬉しいわ」
渉は久しぶりの賑やかな食卓に自然と笑みがこぼれたが、この幸せを続けるには三次審査も突破しなければならないと不安に駆られた――。
「渉も頑張れよ!」
徹は豪快に笑いながら、渉の頭をくしゃくしゃと撫でた。
父親からのスキンシップがあまりにも久しぶりで、渉は嬉しさを感じながらも、頬が引きつっているのを感じた。
「うん、頑張る……」
徹を見上げて答えると、気づかれないように深呼吸した。
「行って来いよ」
その言葉が翔の本心なのか渉には分からなかった。
「渉、翔くんがいいって言ってるから、明日一緒に京都鉄道博物館へ行けるよ」
大地剛が、翔の顔色をうかがっている渉に言った。
「でも……」
もじもじする渉に、翔が口を開いた。
「剛と約束してたんだろ。親友との約束は守らないと――」
剛と渉は同じ団地に住む幼なじみの同級生で、大の親友だった。
徹は三年前に職場で急性腰痛症を患ってから、会社の休日はほとんど家で胡坐をかいて過ごすようになっていた。それを知っていた剛の父である大地は、鉄道好きな息子と同じ趣味を持つ渉を、よく一緒に外へ連れ出してくれた。
「大地さん、いつも渉の相手をしてくださってありがとうございます。ご迷惑をおかけしていなければいいのですが……」
美和は家計を支えるために、スーパーでレジ打ちのパートをしていた。休日に息子の相手をしてくれる大地には心から感謝していた。
「いえいえ、渉くんはとてもいい子ですよ。――剛は一人っ子なので、兄弟のように仲良くしています」
剛は父子家庭で育った。五歳の時に両親が離婚し、母親が親権を得たが、再婚相手からの暴力が発覚して、剛は児童相談所に一時保護された。
その後、父親の大地に引き取られたが、幼い頃に成人男性から受けた暴力の影響で、小学生になった剛は大地と暮らしていても小心翼々としていた。
同じ団地に住む渉と翔が根気強く優しく接し続けてくれたお陰で、剛は少しずつ明るさを取り戻していった。大地は二人に心から感謝していた。
京都鉄道博物館へ行く予定は、翔がメインキャストの応募をする前から決まっていた。
剛との約束を守りたかった渉は本当は京都へ行きたかったが、どうしても頭から離れないことがあった。二次審査で披露した『ウエスト・サイド物語』の冒頭――あのフィンガースナップを、ほんの少しミスしてしまったのだ。
ダンスシーンを演じ切った瞬間、会場には拍手が鳴り響いた。映画プロデューサーをはじめ、スタッフや他の候補者たちも、渉に惜しみない喝采を送っていた。
ただ翔だけが渉を睨みつけていた。見たことのない兄の形相に、渉の背筋は凍りついた。
「剛、ごめん……。やっぱり、三次審査の練習をするよ」
あの時のミスを翔がまだ怒っているのだと思った。
「そうか……分かった……」
剛は残念そうに言ったが、すぐに笑顔を取り戻し、「お土産を買ってくるから!」と走り去っていった。
渉は翔が舌打ちして立ち去るのを見逃さなかった。
――翔くん、やっぱり怒っているんだ……。三次審査はミスしないように練習しないと……。
深呼吸をしてから、とぼとぼと翔の背中を追った。
「二人とも、三次審査も合格したのか! お父さんは嬉しいぞ!」
「翔も渉も、あんなに流暢に英語を話すなんて思わなかったわ」
三次審査に同伴した美和は、興奮しながら徹に言った。
食卓は両親の笑い声に包まれていたが、翔と渉の顔には笑顔がなかった。
「渉、悪いが最終審査は棄権してくれ」
二段ベッドの上から翔の声が聞こえ、下で横たわっていた渉は身を乗り出して上を見上げた。
「翔くん、《《きけん》》ってなあに?」
「棄権っていうのは、権利を捨てるってことだ」
翔はベッドから上半身を乗り出し、渉の顔を見下ろして言った。
「それって……最終審査に出なくていいの?」
「ああ……」
「うん、分かった!」
渉は笑顔で答えた。
「えっ? お前、出たくなかったのか?」
「うん。僕、本当は出たくなかったんだ。練習のせいで剛と遊べなくなって嫌だったんだ」
本当は翔に構ってほしくて、ただそれだけのために練習をしていたことを渉は恥ずかしくて言えなかった。
「なんだ、そうだったのか」
翔は満面の笑顔で言った。
スナップショット以降、渉は翔の笑顔を見ていなかったので、その笑顔がたまらなく嬉しかった。
「駄目。棄権するなんて絶対に駄目よ」
美和は渉に強く言った。
「お母さん、どうして?」
「だって賞金は百万円よ。二人で挑戦したほうが当たる確率が高いでしょう?」
「僕、賞金なんていらない」
「渉がいらなくても、この家にはお金が必要なのよ。お父さんとお母さんの収入だけじゃ、今の生活は苦しいの」
渉はどう答えたらいいのか悩んでいると、翔が現れた。
「お母さん、俺が絶対にその賞金を獲得するから安心して」
「でも翔、弟が棄権したら、監督さんが不信に思わない?」
「それもそうだな……」
翔は『ウエスト・サイド物語』のダンスシーンを完璧にこなした渉を睨みつけたのを、映画プロデューサーの女性に一瞥されたことを思い出した。
――あのプロデューサーに、俺が渉を棄権させたって気づかれるかもしれない。
「じゃあ、最終審査には行くけど、何もしないってのはどうかな?」
翔は渉ではなく美和に聞いた。
「ただボーッと突っ立ってるだけ?」
「ああ……」
美和に答えてから、翔は渉の肩に手を回して言った。
「渉、最終審査の時に『緊張して何もできません』って監督に言うんだ」
「分かった」
渉は翔を見上げて答えた。
「渉は本当にそれでいいの?」
美和が尋ねた。
「うん!」
渉は元気よく答えた。
美和の本心は――渉の最終審査を見たいと思っていた。三次審査を見学した時、嫌々ながら演技していたはずの渉が翔よりもずっと輝いていることに驚かされた。同時に、渉にこんな素晴らしい才能があったのかと喜ばしい気持ちになった。
ただ――決して翔に知られてはいけないと思った。




