第2章 自壊作用 10
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渉が一か月の休息を二十日で切り上げたのは、野村が舞台出演の話を持ってきたからだった。剛と大地の死を知って以来、これまで感じたことのない不安に苛まれるようになった。恋人が「慰めてあげる」と尽くしてくれても心ここにあらずで、次第に彼女は離れていった。
仕事に没頭している時だけ二人の死から逃れられることに気づき、野村が持ってくる仕事は全て引き受けた。中川と石田が過密スケジュールを心配したが、渉は笑顔で二人に、「今しか稼げないでしょう」と答えた。
金の無心に来る翔だけが剛と大地の昔話をしてくれるので、その時間が心地よく感じられ、渉は何度も受け入れた。そうしているうちに、翔は次第に渉のマンションに転がり込むようになった。
「明日、朝一番に名古屋で雑誌の撮影があるから、今日中に名古屋へ行っておくか?」
野村が渉に尋ねた。
渉は名古屋から近畿日本鉄道で三重県伊賀市へ行けることを思い出した。
「どうする、渉?」
「今日中に名古屋へ行きます」
渉はすぐに路線情報を検索し始めた。
夕方、渉は野村と一緒に名古屋のホテルにチェックインした。
野村から夕食を誘われたが、渉は「疲れたからすぐ寝る」と嘘をついて部屋に入った。
名古屋へ行くことが決まってからの咄嗟の判断だった。
電源を切ったスマートフォンをベッドに置き、すぐにスウェットに着替え、財布から三万円を抜き出し、パンツのポケットに入れた。
鏡の前で髪を両手でわざとボサボサにしてから、マスクと伊達眼鏡をつけて、自分に言い聞かせるように「よし!」と深呼吸した。
最終時刻の忍者列車に乗るには、近鉄名古屋駅から21時30分発の特急・大阪難波行きに乗れば間に合う。ベッドサイドのデジタル時計は丁度21時を指していた。
もう一度鏡に向かって深呼吸をし、渉は部屋を出た。
「すみません、ここは私の席なんですが……」
渉は男性の声で目を覚ました。
津駅までは忍者列車に乗れると子供みたいにワクワクして目が冴えていたが、岸部渉というオーラを消して無事に電車に乗れたお陰で、突然心地好い睡魔に襲われてしまった。
「今は何駅ですか?」
渉は慌てて声を掛けた男性に尋ねた。
「私は伊賀神戸から乗りました」
渉は頭を下げて男性に席を譲ってから、次の名張駅で下車して反対ホームへ走った。タイミングよく到着した近鉄名古屋駅行きの電車に乗り込んだ。
「クソッ! 寝てしまうなんて!」
呼吸を整えている間に、伊賀神戸駅に到着した。
23時を過ぎていた。最終時刻の忍者列車はすでに発車しており、渉は閉まった改札の横を無断で通り抜け、一心不乱にホームへと向かっていった。
駅員が渉に気づき、追いかけて来た。
「すみません、勝手に入らないでください」
「忍者列車に乗りたいんですが……」
「申し訳ありませんが、最終列車は十分前に発車しました。始発は明日の朝、6時3分になります」
駅員は時計を確認しながら言った。
「ここで次の忍者列車を待ってもいいですか?」
渉は駅員にお願いしたが、追い出されてしまった。
伊賀神戸駅は近鉄(近畿日本鉄道)と伊賀鉄道の駅で、両社で構内を共用する共同使用駅である。駅を管理している近鉄の駅員が、タクシーを呼んでホテルに泊まることを勧めたが、渉は未練がましくその場を離れなかった。
「財布を持っていますか?」
駅員が尋ねると、渉はポケットから二万数千円を無表情で取り出した。
目と鼻の先に公衆電話ボックスがあったが、お金を確認した駅員は「タクシーを呼びますので、今夜は近くのホテルにでも泊まってください」と優しく伝え、一旦その場を離れて行った。
渉は夜空を見上げた。輝いている星の間に満月が薄っすらと見えた。
「今夜は満月じゃないのに……」
渉はフッと笑って、「剛、お父さん。また忍者列車に乗れなかった……」と悲しそうに夜空を見上げた。
「俺……もう疲れた……」
星が流れるように、渉の頬にも涙が流れた。
「もう……そっちへ行きたい……」
渉は自分にしか見えない満月に向かって歩き始めた。
「今、タクシーが来ますから」
駅員が顔を見せると渉の姿がなかったので「あれ?」と探そうとしたが、改札から出て来た乗客に声を掛けられ、駅舎へ戻って行った。
生暖かい風が吹いて、うっそうとしたメヒシバの中へ入って行く人影を優しく包み込んだ。




