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陶犬瓦鶏  作者: 猫田たい子
第二章
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第2章 自壊作用 8

8


 渉がパリに到着してから二か月が経っていた。台本のフランス語は完璧にマスターしていたが、スタジオが荒らされる事件が起き、撮影は一か月間も中止になってしまった。

「小百合ちゃんに会いに日本へ戻ったら?」

 中川は気遣うように言ったが、パリに来てようやく愛おしい彼女に会いたい病が収まったので、渉はそのままパリに留まることにした。

「そんな! 会いたいのに!」

 小百合は画面越しに渉に言った。

「俺もすげー会いたい……。でも日本に戻ったら小百合のことで頭がいっぱいになって、もうパリに戻れなくなるだろ」

「嬉しい……。渉がそんなに私を思ってくれているなんて……」

「俺には小百合しか見えていない……」

 二十二歳の渉にまだ本当の恋は分からなかった。ミシェルが目の前に現れても心が揺れなかったので、本気で小百合を愛していると確信した。

 小百合は違った。

 渉とミシェルが仲良く食事をしている写真がSNSに流れると、「渉の嘘つき!」と怒鳴りながら連絡をしてきた。

「あれは中川さんとパリコレを観に行った時に、偶然ミシェルと再会したから皆で昼食をとっただけだ。写真に中川さんも映っているだろ」

 渉は何度も説明したが、彼女は聞き入れなかった。

「私から小百合ちゃんに誤解だったと連絡しようかしら……」

 中川が心配して言ってくれたが、渉は「大丈夫です」と断った。


 二人の関係がギクシャクし始めた頃、翔が日本に戻ってきた。

「渉の部屋に泊まりたい」

 電話で小百合にお願いした。

「渉の部屋は私の部屋よ」

 冷たくあしらったが、誰かに愚痴を聞いてほしくて「一部屋貸してあげる」と翔を呼び寄せた。

「渉ったら、私がいるのに、ミシェルと笑いながら食事をしていたのよ」

「渉はLAにいた時、最初は一年で帰るって決めていたのに、ミシェルに止められて二年間もLAにいたからなー」

 翔が何気なく口にした言葉に小百合の目つきが鋭くなった。パリの撮影が数か月延長すると話していたが、本当はミシェルに止められたのではないかと疑心暗鬼に陥った。

「私ってブスよね」

 鏡に映る自分の姿を見て、ミシェルほどの美貌はないとため息をついた。

「ファッション雑誌の表紙を飾る女優がブスだって嘆いたら、日本中の女性が激怒するぞ」

「ミシェルには勝てない……」

「ミシェルと比べるのはまた違うだろ」

「私の顔ではアメリカのビルボードにはなれない……」

 翔は言葉に詰まった。小百合も美人だが、ミシェルは世界中に顔が知れている大スターだ。

「渉は今頃ミシェルと……」

 小百合は泣き始めた。

 翔はどうしたらいいのか分からず「そんなことないって……あいつはそんな男じゃない」と小百合を慰めようとしたが、渉ばかりがモテるのが気に入らなかった。『駒鳥』の映画の撮影中、ミシェルは自分と一言も口を利いてくれなかった。小百合も身体だけの関係で、恋人として付き合うには至らなかった。

「渉に会いたい……」

 泣きじゃくる小百合を見て翔は次第に腹が立ち、彼女にキスをした。

「ちょっと止めてよ」

 小百合は驚いて翔を押しやった。

「俺だったら撮影よりも小百合の方が大事だ」

「翔……」

「小百合、好きだ」

 翔はキスを求めたが、彼女は嫌がらなかった。


 翌朝、小百合はベッドの上で横座りをしながら、中川から届いたメールを確認していた。ミシェルは婚約中で、相手も渉や中川と一緒に食事をしていたという内容だった。

「小百合も女優なら分かると思うけど、私生活での喧嘩は今後の撮影にも影響を与える恐れがあるから、渉くんの心を乱すのはやめてほしい。私が初めて監督する映画を台無しにしたら許さないから……」

 きつい内容だったが中川の言う通りだった。

 小百合はアカデミズム賞を二度受賞した大女優であり、二十歳で個人の芸能事務所を立ち上げ、社長として所属タレントの育成にも携わっていた。その立場を考えれば、出回った写真をきちんと確認したうえで渉に連絡を取るべきだった。

 小百合は躊躇いながら投稿を辿った。写っていたのは、四人が楽しそうに食事をしているだけの何の変哲もない写真だった。誰かが面白半分にミシェルと渉だけを切り取り、SNS上に拡散していた。

 渉が帰国しなかったのは、自らの矜持《きょうじ》を守るためだった。小百合は恋人として、いや、社長として理解を示す必要があった。

「中川さん、すみませんでした……」

 小百合はメールを返信した。

「誰から?」

 裸の翔が上半身を起こし、小百合の腰に両手を回した。

 小百合は背を向けたまま、顔を引きつらせた。


 渉が小百合と別れて半年が経った。

 中川の映画の撮影が終わった一年前、パリからの帰りの機内で、渉は小百合へのプロポーズの言葉を考えていたが、愛する人は顔も心も変わっていた。

「小百合に整形は必要ないのに……」

「翔はこの顔と身体を愛してくれたわ」

 小百合の言葉に、渉の念頭にあった結婚という文字が薄れていった。

 二人の関係は続いていたので、渉は彼女から身を引いた。

 別れてしばらくは途方に暮れていたが、時間というのは不思議なもので自然と気持ちが整理されていった。


 その頃、渉は石田から、美和がパート先の上司と再婚するという話を聞かされた。渉にとって嬉しい報告だった。

 美容整形代をせがみ続けた美和に対し、渉は本気で分籍して縁を切ろうと決意し、石田に相談を持ちかけた。さすが一流の弁護士、石田は金と息子、どちらを選ぶかを美和に考えさせた。

 一千万円という大金を目の前に美和の心は揺らいだ。と同時に「二度と渉に連絡を取らない」という誓約書を突きつけられ、動揺していた。

「一週間、時間をください……」

 美和は石田から逃げるように立ち去ったが、答えは決まっていた。

 三日後、美和は渉の母親を選んだ。



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