第2章 自壊作用 2
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渉の通う学校は都立中高一貫校で、一年上の小百合は、同じ敷地内の別の校舎で学んでいた。
放課後、渉が校門を出ると、制服姿の小百合が待っていた。芸能活動をしている生徒が多いため、校舎から出てきた渉を無理矢理車の後部座席に押し込む光景にも、特に違和感はなかった。
「プレミアム試写会の舞台挨拶振りね」
後部座席に並んで座る小百合が言った。
「ああ……」
渉は素っ気なく答えると、バックミラー越しに運転手の男と目が合った。
セキュリティ万全のコンクリート壁に囲まれた邸宅に車が入ると、渉は気分が悪くなった。
「大丈夫?」
小百合が心配そうに声をかけたが、渉は無視して車を降りた。
リビングルームは予想通り広々としており、天窓から青空が見えた。
渉は天窓を見上げながら、夜になったら満月が見えるかもしれないと思った。
座り心地抜群のカウチに身体を委ねつつ、目の前で華麗に足を組んで座る小百合をじっと見つめた。
「こんにちはー。小百合ちゃんのマネージャー兼、母親の由紀子です」
歌劇団の女優めいた厚化粧と派手な衣装の由紀子が、大げさな抑揚と共に現れた。
渉は一瞬唖然としたが、『駒鳥』の撮影時に顔を合わせたことを思い出した。
「どうぞ召し上がって下さい」
由紀子は上品なティーカップに洋菓子を盛りつけ、二人の前にきれいに並べた。
「ありがとうございます」
渉は紅茶を啜った。
「小百合ちゃんがお世話になっております」
――小百合のお世話は兄貴がしてるよ。
渉は由紀子を一瞥し、心の中で呟いた。
「もう向こうへ行ってよ」
小百合は由紀子を睨んだ。
「もー、小百合ちゃんは意地悪なんだからー」
由紀子は会釈をしてから出て行った。
「本当に鬱陶しい……」
小百合はぼやいたが、渉は無視した。
テーブルに台本が置いてあった。
「学生恋愛ドラマの脚本よ。恋人役で私と一緒に出てほしいの」
渉が黙っていると、小百合は続けて「本当は翔くんに出てほしかったけど、LAから戻るつもりはないみたい」と言った。
渉は翔の代わりに選ばれたことを誇りに感じながらも、演技でも小百合と恋愛関係になりたくないと思った。
「興味がないみたいね」
「このケーキ、美味しいね」
渉は出されたケーキを平らげて言った。
「これも食べていいわよ」
小百合は自分のケーキを渉に勧めてから、「『駒鳥』の撮影の時は嫌々演技をしていたみたいだけど、自分の実力を認めて演じられるようになったら、俳優って楽しい仕事よ」と付け加えた。
「俺、まだ中三だけど」
「私は幼稚園の時から演じてる」
「大変だな」
「ええ、大変。毎回プレッシャーに押し潰されそうになりながら、うるさい母親に束縛されて……本当に大変……」
小百合は顔を曇らせて呟いた。
渉は一瞬小百合がか弱く見えたが、すぐに「夏休み中に返事を頂戴」と命令口調で言われたので、やっぱり彼女は一番苦手なタイプだと感じた。
渉は由紀子から出されたケーキの残りと未開封の高級菓子を受け取り、運転手に自宅まで送ってもらった。
夕方、渉が帰宅すると、リビングでは徹が翔とビデオ通話をしていた。
「渉、お帰り」
「ただいま、お父さん」
「渉、小百合のところから戻ったのか?」
パソコンの画面越しに、翔が声をかけた。
「うん……」
渉は素っ気なく答え、「お風呂に入る」と言って部屋を出ていった。
「渉はドラマに、乗り気じゃないみたいだな」
「そんな感じだな」
徹は答えた。
渉は湯船に浸かりながら、今後の生活について考えた。
このまま貧乏生活でも我慢はできるが、今の中学には友達がいない。間もなく訪れる一か月以上の夏休みを、どうやって乗り切ろうか。毎日図書館に通って勉強するか。いや、図書館もコンクリートに囲まれている。
剛はやっぱり彼女と夏休みを過ごすのかと思うと、やるせない気持ちになった。
「渉、剛くんから電話があったぞ」
風呂上がりに徹から言われ、渉の顔が明るくなった。
すぐに剛へ電話をかけ直した。
「渉、連絡できなくて悪かったなー」
懐かしい声が受話器から溢れた。
「剛、元気か?」
「うん……」
ため息交じりで答えた剛は、数日前に彼女と別れたらしい。原因は、夏休み中に北海道へ引っ越すことが決まったからだった。
「お父さんの転勤で、北海道に行くことになって……彼女にそれを伝えたら、見事にフラれた……」
恋愛経験のない渉には、どうやって剛を慰めればいいのか分からなかった。
「渉はどうだ? そっちは楽しいか?」
楽しくないと答えたかったが、久しぶりの親友からの電話に陰気な話は避けたかった。
「何とか。――実はドラマのオファーが来てるんだ」
「凄いなー、渉は!」
「『駒鳥』で共演した羽田小百合がヒロインで――」
「マジか! 俺、羽田小百合のファンなんだ!」
「剛、羽田小百合のファンだったのか?」
渉は驚いた。
「渉の映画を観てから、『哀愁』を借りて観たんだ。それからファンだ。――いい映画だぞー。渉は観たか?」
「観てない」
即答したが、『哀愁』は小百合がアカデミズム賞を受賞した映画だったと思い出した。
「『哀愁』は絶対に観た方がいいぞ! いいなー、渉は! あの羽田小百合と共演出来るなんて! 羨まし過ぎる! ドラマ、絶対に観るからな!」
剛が小百合を褒めていたので、深夜、徹が寝静まった後、ネットの動画サービスから映画『哀愁』を鑑賞した。
画面の中で美しく演じている小百合を観て、俳優という仕事は百八十度も人格を変えられるのだと参考になった。
剛が小百合のファンでドラマを絶対に観ると言ってくれたので、ドラマのオファーを受けることにしたが、本音はギャラも捨てがたかった……。
翔からすでにオファーの返事を聞いていた小百合は、高校の校舎前にいる渉に顎で車を指し示し、そのまま彼女の邸宅へ向かった。
「私のサインをおねだりしてくれるなんて嬉しいわ」
リビングルームで、小百合き『剛くんへ』と付け加えたサインを色紙に書き、「はい、どうぞ」と目の前に立っている渉に渡した。
渉は礼も言わず、無表情で色紙を受け取った。
「『渉くんへ』のサインはいらないの?」
小百合はからかうように笑って言った。
「いらない」
「そんな態度で、ドラマの中で私の恋人役を演じられるの?」
小百合はカウチに深々と寄り掛かって言った。
「ああ、できるよ」
渉はムッとしながら答え、テーブルに色紙を置くと小百合に近づき、カウチの背もたれに前傾姿勢で腕をかけ、彼女を挟み込むようにして――そのままキスをした。
突然のキスに小百合は驚いて目を見開いたが、すぐに両目を閉じた。――キスは次第に激しくなって、渉は彼女に舌を入れた。
「もう分かったから……」
小百合は平静を装いながら、渉を押し離した。
渉は何事もなかったかのようにテーブルから色紙を手にして、「それじゃあ、撮影で……」と言って出て行った。
少し動揺した小百合は、手ぐしで髪の毛を整えながら「ああー、ミシェルね」と呟きながらフッと笑った。『駒鳥』のプレミアム試写会の時、渉はミシェルに目が釘付けだったことを思い出した。
翔から二人の関係を聞かされていたが、ハリウッドスターの彼女が渉を相手にするはずがないと思っていた。
「翔より渉を選ぶなんて……ミシェルも物好きね……」
呼吸を整えて呟いた。
一週間後、渉は徹と一緒にドラマの制作会社へ足を運んだ。撮影期間が三か月に及ぶため、契約書は数枚にわたったが、徹はその全てに目を通し、先にサインと捺印を済ませた。
制作会社の顧問弁護士が契約書を示しながら言った。
「岸部渉さん、こちらにサインと捺印をお願いします」
渉は一瞬躊躇した。
徹は「大丈夫か?」と声をかけ、渉の肩に優しく手を置いた。
伊賀上野城の三階で天井を見上げていた渉を、両手でしっかりと支えてくれた大地の温もりとは違っていた。
ここにサインをしてしまえば、今までの生活が一変するかもしれない……。
徹は――父親は息子をしっかりと支えてくれるのだろうか。
「渉……」
渉を見つめる徹は、きちんと父親の目をしていた。
――大丈夫。お父さんはお母さんが俺に強いた生活から救ってくれた。剛が楽しみにしているドラマを、今度は楽しんで演じればいいだけだ。
渉はボールペンをしっかりと握って、自分の名前を書いて捺印を押した。その瞬間、カチンコが鳴って気持ちが切り替わった。




