無力ゆえに
◆ ◆ ◆
「バカ野郎! てめえは休みだって言っただろうが! さっさとどっか行け!」
いつものように下準備をしようとしたら親父に怒鳴られた。
「そうです! チヨも申したではありませんか! アキツグ様は今日はお休みなんです! 尾があろうがなかろうがお休みなんです!」
「休みに仕事手伝って、オレに尻尾でも振るつもりか!? 尻尾もねえくせによ」
手伝おうとしたら二人から総スカンを受けて厨房から追い出されてしまった。
だというのに、まかないには山盛りの米。そして漬物がすでに用意されている。こんな風にしてくれるのは彼らだけだ。
従者達も、同級生もありもしない九尾を見ていただけで、この街ではありもしない尻尾ばかりを見られて、父上は二度とみないように蓋をして。
アキツグは噛み締めるように米を大きく頬張った。
胸が苦しくなってくる。罪悪感? 無力感? 尾が生えてこなかったときも同じような胸の痛みはしたけど、全くの別物だ。
どのようにしてこの恩を返せばいいものか。到底考えが浮かばない。
『だからオレの意見が聞きてえのか? オレからすれば恩を返そうなんてのも驕りだぜ。それでも返してえっていうなら、親父はしてほしいことを言ってただろうがよ』
――オレよりもチヨになんか買ってやれ。いいプレゼントでも探せよ。サプライズってやつだな。
「……チヨは、何を送れば喜んでくれるだろうか」
アキツグは顔を俯けながらブシドーに問うた。
様子を見るようにチヨを一瞥すると、どうにも拍動が強まって、このような自分が恥ずかしくて仕方がない。
『しらねえよ。てめえで決めろ』
ブシドーに背を押され外に出る。親父がくれた服のおかげか、おかしな連中に絡まれることもなかった。最上層の街には市場とやらもなかったがここは違った。
頭上を、そして路地を覆い狭める増築家屋のせいで陽も差さないというのに、吊られた提灯と安物のネオン管が赤や青の光を泥濘へ滲ませていた。
「乱雑だな……」
いまだ嫌悪意識が消えたわけではない。足元を通り過ぎる不衛生な虫も、建物の奥から響く嬌声も、売り物の魚から漂う腐臭も、向けられる視線も。
五感が不快感を感じ取っている。
どこもかしこも情報過多だった。壁中に貼られたビラは店の宣伝や性病検査やら行方不明になった者の人相やら。
「本当にこんなところで贈り物になりそうになるものなんてあるのか? 菓子とかは……論外だな」
甘い匂いがして覗き込んだ屋台はハエがたかり、油はどす黒い。……豆福もそう大差はないが。
なら衣服か? いやダメだ。あそこは死体から剥いだ服を僅かな食料と交換してくれた。そんなものをチヨに送るつもりはない。
理髪店? 俺がお洒落してどうする。めぼしいものを探しても、あるのは中古の義体やら賭場やら娼館やら……。
「……どうして彼らはこんなに堕落する? いくらどん底の街だろうが、自分から泥のなかを這いずるような屑ばかりだ」
『そりゃあお前が一番わかりきってるだろ。尻尾もねえくせに尻尾を気にする愚か者はどうなってたよ。ドブ川の妖怪だったぜ。お前』
「…………この街は、病んでいるんだな」
最下層区域だけではない。参尾以上の区域も結局は差別される立場に過ぎないのだろう。上を羨み、下を蔑み、自分を諦めている。
父上はこの実態を知っていたのだろうか。都市が都市の形であるために、僅かな強者のために多くの者がこうして生きていることに。
『お前がそんな偉そうなことを考えてなにになる? また九尾気どりに逆戻りかぁ?』
「違う。俺はただ……」
言葉が途切れる。ふと視線を向けたなんてことのない雑貨屋に、やけに見覚えのある刀が飾られていて、気づけばその目の前にまでいた。
――間違いない。奪われた刀だ。クズノハの家宝だ。
なぜこんな投げ売りされている? 価値さえもわからなかったのか?
驚愕、困惑、安堵、不満。一瞬で感情の濁流が押し寄せて眩暈がしてくる。
「それが欲しいのか? 尾無し、欲しいなら12000Lで売ったっていい」
貰った金で買える金額だった。先ほどビラを見た限りでは、価格としても精々、こんな街のボロ長屋の家賃程度だ。
家宝を、父上が最後に俺に残してくださったものを取り返せる。
手から離れたうちに曰くつきにでもなったのか、店主はとっとと売っ払ってしまいたい様子で鞘を握らせてくれた。
慣れた重さだ。握り締めると指先が震えた。沈む重さを前に心臓が早く、早く脈打っていく。
『おい。どうするんだ? 買えるには買えるが、残った金じゃ大したもんも――』
「いや、悪い。刀は買わない。代わりに奥の……簪を買っていいか? 一番いいもので頼む」
店主はわずかに落胆したがすぐに仕事はしてくれた。支払い終えると残高は残っちゃいなかった。
『おいおい。良かったのかよ。もう二度と手に入らないかもしれねえぜ? 唯一の、家族の証じゃねえのかよ』
「俺にはもう父上との関係も刀も必要ない」
未練がないわけではない。
だからこそ自分に言い聞かせるように断言したが。思っていたよりも後悔は湧き上がらなかった。ただ清々しさが背を押してくれる。ゆっくりとした歩みは段々と早歩きへ、駆け足へ。
豆福の暖簾を潜り抜けて急ぐように店に戻る。
「……チヨ殿! 渡したいものが………………あるの、ですが…………」
――――店はもぬけの殻だった。
静寂のなかテレビの音と出しっぱなしになった水の音だけが響いていた。
無秩序に倒れたテーブルと椅子。壁や床に深く刻まれた刀傷。
……夥しい血の痕。転がっている人の腕。
「っ……!」
息を呑んだ。心臓が強く締め付けられる。昂っていた体の熱が急速に冷めていくのがわかる。
少し奥に進むと、いつもの客が体を斬り裂かれて絶命していた。うつろな目。開いたままの瞳、口。この様子では抵抗すらできなかったのだろう。深くにまで届いた切創からモツが溢れている。
手に掬った血はまだ温かい。
「親父……! チヨ!! どこにいる!」
引き攣った表情はどこまでも青褪めていく。
嫌な汗がこみ上げた。息が詰まる。どうやって呼吸していたかも思い出せなくなってくる。
強く、強く打ち付ける鼓動と鉄の臭いのせいで酷く視界が眩んだ。
「……………………俺達が何をしたっていうんだ」
厨房の奥でカマド・ゲンゾウはうつ伏せに倒れていた。
駆け寄るとびちゃびちゃと血の水音が響く。まだ湯気の立つ血だまりに膝をついて体を抱き上げると、腹部から熱い熱が溢れていった。服を伝い、滲むように広がっていく。
「親父!! 親父っ!!」
喉が張り裂けそうになるぐらい叫ぶと、ぎゅっと強く手を握られた。べったりと血が付いていく。嗚呼、と謝るように小さなうめき声だけが響いた。
「アキツグ。チヨは…………」
「チヨは無事だ」
アキツグは迷うことなく嘘をついた。チヨがどこにもいない。生きているのか死んでいるのかもわからないのに。
「……ならよかった」
僅かな言葉が発せられるたびに血と喘鳴が深く吐かれていく。
「食い縛れよ親父……! すぐに医者を呼ぶ。金がなくたって客共の血と肉を売れば――」
「アキツグ」
名前を呼ばれただけで、頭が真っ白になる。言葉が出なくなる。抱こうとした僅かな可能性とやらが、最初から無いものなんだと突きつけられる。
「チヨを頼む」
「…………はい。承知しております」
血濡れた手を強く、強く握り返す。涙を堪えた。じっと見つめる眼差しは、咄嗟についた嘘なんて見透かしているようだった。
「それと……恩なんざ、返さなくていい」
視界がぐしゃぐしゃに霞んでいく。どうしようもなく嗚咽が溢れかえって、喉の奥がしぼむように痛んだ。
「そんなの嫌だ……。お願いです。親父、俺は親父に返さねばならない恩が山ほどあります。たくさん伝えなければいけない感謝が……」
もう事切れていた。
「…………あったんですよ」
途絶えた言葉。過ぎる沈黙。全身から力が抜けた。その場に倒れ打ちひしがれて、泣きじゃくりたくなる無力な衝動を押し殺して、爪が食い込むほど相貌を押さえて、ふらふらと立ち上がる。
弔う時間はない。
「………………」
チヨを探さないと。




