ささやかな
二章:尻尾を振るしかないときに
「起きてください! アキツグ様!」
鶏鳴の如き声が階下から響く。即座に目を覚ますと、錆びついた窓の外はまだ真っ暗だった。空はいつでも影に覆われているし、わずかな隙間から見える空も、まだ薄藍色の夜明け前だ。
まだ明け六つにもならぬ頃、タダノ・アキツグはすぐに着替え終えた。急ぐように階段を駆け下りるとチヨと目が合う。
三つの尾をご機嫌に揺らしながら、長く黒い髪を整えている最中だった。
「おはようございます。チヨ殿」
「チヨでいいと何度も言っていますよね!?」
「俺もアキツグでいいですよ」
「むぅ、チヨは買い出しに行ってきますので下準備のほうをお願いしますね」
「ああ、任された」
――――拾われてからひと月が過ぎた。
上の世界に未練がないかと言われたら嘘になる。
尾を気にしないようにしても、そう上手くはいかないし、父上が教えてくださった武芸や、学問をまるで使うこともできずに無力さを感じることもある。
家宝の刀もいまだ見つからず、申し訳なささえ感じることもある。
それでもこの生活には確かに、慣れ始めていた。
白い袋からざらざらと零れる模造米を桶へ移し、水を注いで濁りが薄くなるまで研ぐ。重たいコンテナから取り出した大根は真っ白で、太さも長さも寸分違わず揃っている。そういう風に造られているからだ。
包丁を入れれば生の野菜らしい抵抗もなく、同じ形に切り分けられる。
その隣に並んだ蛋白ブロック(とうふもどき)を水に晒してから布へ包み、重石を載せて余計な水気を抜いていく。
棚から味噌の缶を下ろし、固く圧縮された中身を匙で削る。旨味調味料の粉を融かしていくと、薬品臭さと胃を刺激する飯の匂いが同時に漂い始めた。
「戻りました。まだ父上は……寝てそうですね。なら私達で先に朝餉に致しましょう」
ビニールに詰められた養殖ドジョウを桶に注ぎ置くと、チヨはすぐに腕を捲り、茶碗に大盛りになるまで米をよそっていく。
付け合わせは粉末味噌汁と僅かな漬物。
初めこそ他におかずはないのか困惑したが、どうやらここではこれが普通。むしろ贅沢な部類らしい。
今となっては慣れたもので、漬物だけで大量のコメを掻き込んでいく。
「ふふ……。いまだにチヨはおかしゅうて笑ってしまいます。アキツグ様は初めての食事のときのことを覚えておりますか?」
――いつもこれぐらい米ばかりを食べているのか?
はい。申し訳ございません。参尾といえども所詮は参尾。チヨも底辺に変わりなく……。
――いえ、その、おかずとか。チヨ殿だけでも食べた方が……ああ、いえ、なんでもありません。
――それよりもこの人工米、普通の米よりも旨味が強くて美味しいですね。
天然米を食べたことがあるのですか?
「…………覚えておりません」
鮮明に、一字一句残っていたがアキツグは顔を背けて嘘をついた。思い出したくもない無礼だ。恥だ。無知だ。
「アキツグ様、そんなふうに目を背けられますとチヨも悲しいです」
気づけば無防備な相貌が目の前にある。無垢で、きょとんとした眼差しが向いてくる。ぱたぱたと揺れる尻尾に思わず目が惹かれていく。
彼女がこの店の看板娘なだけはある。多くの野郎はいつもチヨを口説いているが、皆この純粋な熱にやられているんだ。
「……俺は、そんなふうに見つめられるとどうしたらいいかわからなくなる」
必死の抵抗未満の言葉だった。熱でうだされているのは俺自身もだ。
「お可愛いですね。ふふ……」
チヨは何を気に入ったのかわしゃわしゃと頭を撫でてくる。……敵いっこない。俯いていると、いつのまにかゲンゾウの親父がニヤニヤとこっちを嘲っていた。
「ほら、さっさと準備しろ。お前は厨房だ」
豆福の暖簾がかけられると、いつもの慌ただしい一日が始まった。
とはいえ親父は尾無しのことをかなり配慮してくれていて、基本的に店前に出ることや配膳の担当はチヨだ。
彼女が一緒にお茶を飲みたいといえばたかが飲み物に金を払うし、彼女が一緒に団子を食べたいと言えば野郎はみんなして買っていく。
自分のやることは、ただ厨房に留まり、次々と飛んでくる注文を捌き続けることだ。文武を学ぶことはあれど、美味な料理に舌鼓を打つことはあれど、作る側に回った経験など当然ない。
初めの頃は散々だったが今ではチヨの声が店先から飛んでくれば、考えるより先に身体が動く。
足元はこぼれた水で滑り、前掛けにはいつの間にか染みが増えている。熱気で頬は火照り、店先から流れ込む煙草の臭いまで混ざって息苦しい。それでも手を止める暇はない。
『ギャハ! さっさとドジョウの処理をしたほうがいいんじゃねえか?』
「わかってる! 黙れ」
ドブの魚を喰らい、死人の荷物を漁っていたころとは大違いだった。ブシドーのやつも協力的で、喧しいやつではあるが悪いやつじゃない。
そんなことを日が沈んだあとも続けて、体よりも心が疲れるころに一日の仕事は終わる。最後の茶碗を洗い拭き終えると。
「アキツグ来い。渡すものがある」
親父に呼ばれ、すぐに膝をついた。
「お呼びでしょうか。恩人様」
「いい加減その呼び方と跪くのやめてくれねえかな。まぁいいや、これだこれ。受け取れよ」
ゲンゾウが手渡したのは一枚のカードだった。アキツグは目を見開いて黙り込む。上擦りそうになる声を必死に抑え込んだ。
「これは……Lカード。なぜ、俺に……?」
身分証であり金を使うためのものだ。発行するには借金する必要があるし、そもそもここで働くうえで宿も、飯も、いただいている。
「馬鹿野郎。俺を給料も払わねえドケチのカス野郎にしたいのか? いいから黙って受け取れ。お前の事情もあるから再発行になると思ったんだが、てめえの家族はお前の死亡手続きを終えてたから問題なかった。タダノ・アキツグで登録しといたぜ」
アキツグは感極まるように顔を手で覆った。みっともなく泣き出してしまいそうだった。
勘当されたときよりも、この街にたどり着いたときよりも、家宝の刀を奪われたときよりも、死人の荷物を漁ったときよりも……泣いてしまいそうになって、堪えきれずに目頭が熱くなっていく。ぼろぼろと流れ落ちていく。
深く頭を下げた。跪いた。親父は嫌がるが、そうでもしないとこの想いは表せなかった。
「俺は……!! 絶対に恩を返します。親父……!!」
「ガハハ! オレよりもチヨになんか買ってやれ。お前は明日休みにしてやる。いいプレゼントでも探せよ。サプライズってやつだな。その服着てたら市場で襲われたりゃしねえ。この街で参尾に楯突くやつぁいねえからな」
「……はい! かならずチヨ殿を幸せにいたします!」
「まだそこまでは許してねえよ」
重いゲンコツを喰らったが、痛くはなかった。




