ただの誓い
「ええ……? ならどうしろと」
「別に、アキツグ様がどうこうする必要はありません。勝手にチヨが行動するだけですので。普通通りに体を洗えばよいのです」
アキツグは神妙な表情で曖昧にうなずいた。視線は気になるがぼろ布を脱ぎ捨てて、無心になって湯を被ると背に手が触れる。
いやになるくらい心臓が跳ねた。尾の数も気にしない善意が、尾に驕らぬ言動は、一周回って怪しいとしか言えなかったが、振り返って目が合うと、チヨの目にはこのような疑心も、傲慢さもなく、ただただひどく真っ直ぐな眼差しだけがあった。
憐れんでいるわけでもない。尾無しという珍奇なものを観察しているわけでもない。まして救ってやろうなどという高慢さもない。ただそこにいる一人の人間を見るように、当たり前にアキツグを見ていた。
――だから居心地が悪い。
尾を見られることには慣れていた。尾がないことを見られることにも、もう嫌というほど慣れてきたというのに。
自分自身を見られることには、どう振る舞えばいいのかわからなかった。
そんな目で見られるのは――初めてのことだった。
「なぜ……チヨ殿は尾無しなんぞにこのように接してくれるのですか? まして、尾があったとしても……これは普通ではないかと思われます」
「そうですね。普通じゃないかも。チヨは特別です。……冗談です。そんな目で見ないでください」
チヨは少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「確かにこの都市において尾は序列です。すべてです。でも、家族と尾の数が違ったらどうするの? 差別するの? 捨てるの?」
チヨは父のことを言っているのだろう。
彼女は参尾で、彼は壱尾だったから。
「……俺は、そうですね。二度と家名を名乗ることもできませんし。父上の唯一の汚点でしか――ふゃひはへふ」
しゃべっている途中で頬を摘ままれ、ぐにぐにと好き勝手に弄られていく。アキツグはしばし沈黙し、胸の奥に言葉をしまい込んだ。
会話が途切れると水音と機械の振動音だけが響いていく。チヨも、無い尾を踏みぬいた自覚はあったのか、少し呻いていた。
「チヨと話すときは悲しい過去は禁止です。……まぁ人によるんです。アキツグ様はきっとここにきて、苦しい想いをしたと思います。けど、皆が皆、人の尻尾ばかりを追いかけてるわけではありません。少なくともチヨは気にしないであげますから。そこに理由なんて気にしなくていいんです」
アキツグはコクコクと頷いた。……否、頷かされた。彼女は強引だったが、それでも緊張か疑心か、そんな感情は容易く解けていく。
「…………ありがとうございます。あなた方は……優しい」
「そうですね。よく言われます。まぁでも父上は……裏があると思いますが」
「それでも普通はこんな薄汚れた尾無しの手を握ってくれる方などおりません」
アキツグは俯きながら断言した。足元を見ると、自分の体に長い間付いていた泥と血で、湯がひどく濁り流れ落ちていた。
「尾無しだから汚いのではありません。ずっとお風呂に入っていなかったから汚いのです。洗えば落ちます」
「……そういう意味で言ったわけでは」
「知っています」
間髪入れずに返された。
「でも、アキツグ様は何でも尻尾の話にしてしまいます。怪我をしても尾無しだから。お腹が減っても尾無しだから。親切にされても尾無しなのに、と。……それではチヨが何をしても、最後には全部尻尾に取られてしまいます。それは気に喰わないです。チヨの前では直してください」
「…………ああ」
それ以上の言葉が何も出てこなかった。
『だから言ったじゃねえか。てめえが一番、尻尾に捕らわれてるんだよ。あーあー、こんな可愛い子にまで言われて、情けねえ。情けねえ』
ブシドーがここぞとばかりに口を出してくる。だがアキツグには反論などできなかった。ただ一人とありもしない尻尾の言葉を深く受け止めて頷くことしかできなかった。
「さて、食事もしてないのでしょう? 父上は客相手で手が空いてないでしょうし、チヨが用意してあげますから」
「……かたじけない」
頭が上がらなかった。
湯を借り、飯を恵んでもらう。
それだけでも返しようのない恩だというのに、この親子は自分が尾無しであることさえ、さしたる問題として扱わなかった。
まるで――闇の中を照らす光だ。
ゲンゾウもチヨも泥にまみれた自分へ、何の躊躇いもなく手を伸ばした。何も持たぬ自分に。家名も、刀も、金も、そして尾すら持たぬ自分に。
ならば、受け取ったままにはできない。いつか必ず返さなければならない。
飯の一膳も、湯の一杯も、この手で背を洗ってくれたことも。
今日ここで受けた恩を一つ残らず覚えておいて、いつか必ず、報いよう。
タダノ・アキツグはそうしなければならない。
尾が生えなかった意味。この街にきた意味。
『そうだな。てめえにはそんな生活がお似合いだぜ』
ブシドーが背を押すようにぼやいた。




